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2004/07/28

「ヘレン・ケラー」と「ナイチンゲール」

テーブルに娘(小2)の夏休みの読書記録カードが置いてあった。
書いてあった本のタイトルが「ヘレン・ケラー」と「ナイチンゲール」。
これを見て私は思わずニヤリとしてしまった。
「・・・ついにこの子も偉人伝を読む頃になったか・・・」と。

私の通っていた小学校は3年生になると、図書室で本を借りてもいいことになっていた。
それまでの学級文庫とちがい図書室にはそれこそ山のように本がある。
運動が苦手で、外で元気に遊ぶより部屋で本を読むほうが好きな子供だった私にとって、図書貸し出し解禁は大きな事件だった。
初めての貸出日、わくわくしながら放課後図書室へ行くと、果たしてそこには小3の私には想像以上の多くの本があった。
多すぎて一体どれを借りたらいいのかわからない。
適当に選んで借りてみた第1号は「消えた国旗」とかいうタイトルで日韓併合や在日朝鮮人の話だった。
うーん、小3の私には難しすぎた。
漢字も読めないものが多く「奥さま」というところを、こころのなかで「歯さま」と読んでいた。
結局最後まで読んだかどうかも今となっては定かではない。
次の貸出日にはその本を返しながら途方にくれた。
「本は借りたい、読みたい。でもどれが面白いのか?どれを借りたらいいのか?」

そんなとき友達のうちでやはり図書室から借りたという本を見た。
「ナイチンゲール」。
白衣の天使フローレンス・ナイチンゲールの伝記だった。
「これだ!今度はこれ借りよう!」
ご存知のとおり、この子供向け偉人伝記シリーズはどの図書室にもどーんと置いてある。
これからはこのシリーズを借りればいいのでもう迷う必要はない。
嬉々として向かった図書室、だが「ナイチンゲール」は借りられているから当然なく、
「ヘレン・ケラー」「キュリー夫人」といっためぼしい女性偉人伝も見当たらない。女の子っぽい子供だった私だからやっぱり女の人の話が読みたかったのに・・・
仕方がないので何の脈絡もないのだが「シュバイツァー」を借りてきた。あくまで「ナイチンゲール」を借りるまでのつなぎのつもりだったので、一応最後まで読んだがほとんど内容は覚えていないが。続いて、「ノーベル」、これもほとんど仕方なく借りた感じで、3回目にようやく女性伝の「キュリー夫人」を借りることができた。
最初のお目当てだった「ナイチンゲール」はかなりたってか読んだような気がするが、やはり印象は薄い。覚えているのは家がお金持ちだったとか、町の名前(多分フィレンツェ)をつけられたとかぐらい。

感動や知識を得る為に本を読むのではなく、ただただ「本を読む」こと自体が目的だった時代の話だ。今になってみると「子供だったんだなあ」とかえって微笑ましくすらあるが。


最後にわが娘の読書記録の話に戻るが、2冊目の「ナイチンゲール」からとんと進んでいないようだ。
彼女の伝記ブームはもう過ぎ去ってしまったのか?
いずれにせよ子供と暮らすのは、もう一度人生を生きるようで楽しいものだ。


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2004/07/23

この世界をつくるもの

「我思う、故に我有り」(デカルト)

簡単に言うと、
「いろいろ世の中のものを「本当にあるのかないのか」疑ってみたけれど、
結局、自分がこう考えていることだけは疑いのない事実であるから
自分の存在もまた疑いのない事実であろう。」
とうことらしい。

しかしどうしてこんなにも人間は
自分と自分を取り囲む世界を知る、つまり認識することに対する欲求を常に持ち続けてるのだろう。
人間がその他の動物と違う点があるとすれば、こうした知への欲求を持っているか否かという点であろう。
だから「どのように認識するか」という「認識論」は人間の学問の究極だと私は思っている。

さて世界を認識するとういことだが、
多分、多くの人は世界は自分と関係なく存在し、自分がこの世を去っても何も変わらないと思っていることだろう。
でも本当にそうなのだろうか。
ひょっとするとこの世界が自分だけが認識しているものだとしたら?
認識する主(あるじ)を失った世界は一体どうなってしまうだろうか。
主の死と一緒に消えてなくなってしまうのだろうか。

そうなると問題はこうなってくる。
「そもそもいったいこの世界はどんなものなのか、
実在するものなのか、自分の頭の中で作り出した架空のものなのか?」と・・・

残念ながらその疑問を確かめるすべはどこにもない。
私たちは自分以外の人間にはなりえず、自分が己の主観を交えず物事を認識することは不可能なのだから。

では逆に、「世界」の存在が私たちの認識とは関係なく存在するとしたらどうだろう。
自分が認識しない「世界」はこの自分にとって何か意味があるのだろうか。
・・・・・何もありはしないだろう。
何かあったとしても、それはその認識しなかった存在を新たに認識したときに初めて意味を持つのであって、それまではあってもなくても同じものなのだ。

こう考えると、少なくとも自分にとっての「世界」は自分の主観による認識によってのみ成立すると言えよう。
つまり、
「認識が世界をつくる」である。

俗に、「強く念ずれば、現実となる」といわれるのも、こうして考えれば当たり前のことなのだ。
世界は私たちと無縁に存在するのではないのだから。


実は先日「何をするかではなく、何を思うか」というblogを拝読した。
そのなかに「現実を創り出しているのは自分である」との文章があり、何か通じるものをを感じてうれしくなってしまった。
そこで常々思っているこのテーマで書こうと思い立ったわけだが、
うまく書けたか、自分の言わんとすることがどこまで通じるか、真に不安である。

この文章を書き始めて、はや3日目。
もっともっと文章がうまくなりたいなあ、とつくづく思う3日間だった。

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2004/07/13

より深く愛するもの

「より深く愛するものはより深く苦悩することを、彼はすでに知っていた。」
ある小説の一節にこんなふうなものがあった。

これは男女の愛情について書かれたものではない。
この主人公は少年で、自分と違う人気者の友達に対しての思いを表現したくだりだ。
これを読んだとき私は、「ああ、自分だけではないのだ・・・」となんとなく安心し、なぜか涼やかな気分になったものだ。

私もこの少年のように、友人に入れ込むところがあった。
あまりに友達を理想化してしまったり、自分という人間を本当に知ってもらいたくて
心の中をさらけ出して見せたり、今思うと真に恥ずかしい若い日の思い出だが、
当然相手はちょっと困惑をしていたようだ。

今でも誰かにのめり込みそうになると、その困惑した友人の様子が私にブレーキをかける。
(そんなに態度をあらわにすると、相手には迷惑、もしくは戸惑わせてしまう・・・)
だから適度な距離をおいてさりげなく付き合うのだが、
相手が自分と同じくらい「心の触れ合い」を模索しているのでは・・・
という一縷の希望を秘めているのだ。

あーあ、思春期の少女のようだな。

でも、この内向的な性格はずっとわたしにとってはうっとおしいものだったけれど、
この年になってようやく「悩み多き人生もまた良し」なんて思う余裕が出てきた。

曰く、「愛されるより、より愛するもの、より悩み多きものもののほうが幸いである・・・」といったところか。
なあんて格好つけてみたところで、つまりは開き直りということだろうが・・・

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2004/07/08

夏の国

欧米の人々のイメージでは日本は夏の国だとか・・・
夫の言ったことなので真偽のほどは定かではないが、そういう話である。
「だから冬のオリンピックを開くことに意味があるんだよ、文明国だと証明するためにね。」
へえー、そんなものなのかなあ、と思いながら聞いたものだ。
確かにヨーロッパあたりでは南の国々に対する憧れと侮蔑があるらしいということをきいたことがあるが・・・。
「南の国には文明はない」なんて偏見もはなはだしいが、それについての意見はまた別の機会に述べることとして、今回は「夏の国、日本」についてちょっと書いてみよう。

四季のある日本の家屋は冬ではなく、そもそも夏向きに建てられたものだそうだ。
そう言われてみると確かに和風の家は夏が似合うような気がする。
風鈴や簾、暑い夏を少しでも涼しく過ごすアイテムには和物が多い。
和風の家は軒のひさしが長く、部屋まで日の光が差し込むことも少ない。
暗いけどひんやりと涼しい家。
なるほど、冬の寒さより夏の暑さをしのぎたいと祖先の人々は考えたのだろう。

だから私たち現代の日本人も夏になるとなんとなく和風の生活に思いをはせる。
浴衣をきて花火を見に行ったり、
ホウズキなんか買ってきて庭やべランダにおきたくなったり・・・

・ ・・やっぱり日本は夏の国なのかなあ・・・

スイカをこどもとかじりながらそんなことを考えた。
そう思ったらこの暑さもちょっぴり愛おしい気がしてきた。

まだまだ始まったばかりだけど、
夏、今年もよろしくね・・・


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2004/07/07

お好きな恋愛小説は?

「カルメン」、「椿姫」それに「マノン・レスコー」。
これ、何だと思います?
実は私の高校時代の担任の先生が「好きな恋愛小説のベスト3」といって、紹介してくれた作品のタイトルです。
今になってみて気がついたのですが、これみんなオペラになっていますよね。
(マノン・レスコーは観たことないけど確かオペラになっていたような気がします。)
みんなこれは悲劇で、「真面目な男性が美しい女性の虜になる」っていう、つまりかなりドラマチックな筋書きです。

その先生は若くて清潔感のある可愛いかんじの女性だったんですが、
高校生の私はちょっと意外な気がしたものです。
イメージに合わないなあ、ってね。
もっと清純な女性がヒロインの作品がその先生らしいって思ったんですね。
でも先生は私の持っていたイメージと違い、
この3作品のような濃密な恋愛をに憧れたり、
もしくはそういう恋愛を実際にしていたかもしれません。

さて自分を振り返ってみると、劇的恋愛には無縁だった私ですが、
どんな恋愛小説が好きだったか?
恋愛小説っていうジャンルじゃないかもしれないけど、
作品の中の恋愛に夢中になったのは
映画の影響もあるけれど、「風と共に去りぬ」ですね。
その中でレット・バトラーが主人公スカーレットに言う言葉にこんなのがありましたっけ。
「きみは冷淡な妻が次第にその夫に愛情をもつようになる小説を読んだことがあるかい?」

・・・「冷淡な妻が次第にその夫に愛情をもつようになる」ような話。
これこれ!これが私の好きな恋愛小説のパターンなのです。

「やっぱり夫婦は最終的には愛し合わないとね!」
そんなことを、自分の母親に言ったことがあります。
それに対する母親の言葉は、
「・・・おまえは堅い人間だね。」
ちなみにその母の好きな恋愛(?)小説は川端康成の「千羽鶴」。
結構どろどろした大人の恋愛で当時高校生だった私には理解しがたいものでした。
「もっと大人になれば良さがわかるよ」
母はそう言ったけれど、
30歳をとっくに超えた今となっても多分わからないような気がします。
きっと歳じゃないんですよね、こういうのって。

いくつになっても、生真面目で堅い私です。


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