お礼を言っておきなさい
私がいつも行くクリーニング屋さんがある。
そこの奥さんは、私の母といっていいくらいの年代の方なのだが、とても気さくな方で私は大好きだ。
もっと安い店もあるけどその人と会いたいからそこへ行くというまあ、私てきにはお友達感覚をもてる人といっていい。
さてこの方、ご自分にもお孫さんがいるようでうちの子供たちもとても可愛がってくださる。
よく簡単なお菓子などを「お子さんに・・・」といって、頂いたりするのだ。
こんなに可愛がってもらえて親の私としてはうれしい限りなのだが、上の娘の反応は意外に冷淡だったりする。
あるときも、やはり子供たちにとシャボン玉のセットをふたつ頂いた。
「いつもすみません」とお礼を言ってうちに持って帰ると、下の弟は無邪気に喜ぶのだが、上の娘は無表情だ。
「今度会ったらちゃんとお礼を言うんだよ」といっても生返事しかかえって来ない。
それでさらに数回繰り返すと、
「・・・欲しくて貰ったわけじゃないのに・・・」などと憎まれ口をきいたのだ。
なにぃ!!!と私は憤った。
それが人から物を貰っている人間の言うことか!
なんて高飛車で不遜で礼儀知らずなのだ!!
そんな子供にはだれももう何もくれないし、優しくもしてくれないよ!
そんな子供に育っているなんて親として情けない・・・・云々。
ちょっと時間を置いて冷静になってからまた尋ねてみた。
「あのおばさんが嫌いなの?だからそんな失礼なことを言うの?」
それに対し娘は泣きそうな顔をして、ぽつりといった。
「違うよ・・・・ただ、あまりお礼を言えお礼を言えっていうから・・・」
その言葉にわたしははっとした。
そして義理の母のことを思い出したのだ。
「会ったらよーくお礼を言っておくように・・・」
これは義母が息子の夫や嫁である私にことあるごとに口にする言葉である。
田舎で一人暮らしをしている高齢の義母は、それこそ周囲の人々に助けられて何とか生活をしている状態だ。いつも世話になっている人々や親戚にはどんなに感謝してもしつくせない。
でも・・・(ああ、この「でも」以降が私という人間の未熟さを物語るのだが)、でもそう何度も言われると心の中で「またか」とため息をつきたくなってしまう。
(だって私の知らないところでのことだもの、感謝しろって言われたって実感わかないよ)
これが正直な気持ちなのだ。
今、娘の言葉を聞いて娘も私と全く同じ気持ちだったことに、私は気がついた。
そもそも感謝というのは、
「相手によくしてもらって、自分は本当にうれしい、
このうれしいと思っていることをその相手に伝えて、相手にも喜んでもらいたい」
そういうものではなかったのか?
しかし、うれしいという実感もないのに、相手に礼儀知らずだと言われないためにお礼を言うのが、なんと世間では多いことだろうか。
今回の場合、娘の態度は決して許されるものではないけれど、
私のほうにも世間体を気にしたり、「躾のなっていない親」と思われることへの恐れがなかったわけではない。
結局娘には、
「おかあさん、おばさんにこのシャボン玉をもらってあなたが喜んだと伝えたかったんだ。
そうすればおばさんも喜んでくれるかと思ったから」
といってこの話をお終いにした。
そしてこれからは「お礼を言っておきなさいよ」というのはやめて、
「よかったね、(こんなにしてくれるなんて)いいひとだよね」と言うようにしようと心に決めたのだった。
が、先日「お袋の教え」というblogを拝読して、その決心も揺らぎ始めている。
その中で、筆者のpoohpapa氏はお礼をきちんというように躾けてくださった母上に感謝の意を表せられているからだ。
世間の荒波をくぐり抜けいくためには、己が論理だけではならないときもある。
「うれしいという実感がなければ、感謝する必要がない」などという論理を、正しいと振りかざしたところで、ただの傲慢、そんなことをしてもツマハジキにされるのがせきのやまだ。
うーん、難しいなあ。
結局のところ、常に『人の身になる』姿勢を身に着けさせること、そこに究極の躾があるのかもしれない。
人に喜んでもらうための感謝、その原則も結局は『人の身になる』ことにより生まれてくる自然の思いであり行動なのだから・・・
いずれにせよ、未熟な親が未熟な子供たちを育てていくのである。
「難しくて当然なのかもしれないなあ」と思いつつ、
そうして試行錯誤はまた続いていくのであった。
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