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2004/08/27

お礼を言っておきなさい

私がいつも行くクリーニング屋さんがある。
そこの奥さんは、私の母といっていいくらいの年代の方なのだが、とても気さくな方で私は大好きだ。
もっと安い店もあるけどその人と会いたいからそこへ行くというまあ、私てきにはお友達感覚をもてる人といっていい。
さてこの方、ご自分にもお孫さんがいるようでうちの子供たちもとても可愛がってくださる。
よく簡単なお菓子などを「お子さんに・・・」といって、頂いたりするのだ。
こんなに可愛がってもらえて親の私としてはうれしい限りなのだが、上の娘の反応は意外に冷淡だったりする。
あるときも、やはり子供たちにとシャボン玉のセットをふたつ頂いた。
「いつもすみません」とお礼を言ってうちに持って帰ると、下の弟は無邪気に喜ぶのだが、上の娘は無表情だ。
「今度会ったらちゃんとお礼を言うんだよ」といっても生返事しかかえって来ない。
それでさらに数回繰り返すと、
「・・・欲しくて貰ったわけじゃないのに・・・」などと憎まれ口をきいたのだ。
なにぃ!!!と私は憤った。
それが人から物を貰っている人間の言うことか!
なんて高飛車で不遜で礼儀知らずなのだ!!
そんな子供にはだれももう何もくれないし、優しくもしてくれないよ!
そんな子供に育っているなんて親として情けない・・・・云々。

ちょっと時間を置いて冷静になってからまた尋ねてみた。
「あのおばさんが嫌いなの?だからそんな失礼なことを言うの?」
それに対し娘は泣きそうな顔をして、ぽつりといった。
「違うよ・・・・ただ、あまりお礼を言えお礼を言えっていうから・・・」
その言葉にわたしははっとした。
そして義理の母のことを思い出したのだ。

「会ったらよーくお礼を言っておくように・・・」
これは義母が息子の夫や嫁である私にことあるごとに口にする言葉である。
田舎で一人暮らしをしている高齢の義母は、それこそ周囲の人々に助けられて何とか生活をしている状態だ。いつも世話になっている人々や親戚にはどんなに感謝してもしつくせない。
でも・・・(ああ、この「でも」以降が私という人間の未熟さを物語るのだが)、でもそう何度も言われると心の中で「またか」とため息をつきたくなってしまう。
(だって私の知らないところでのことだもの、感謝しろって言われたって実感わかないよ)
これが正直な気持ちなのだ。

今、娘の言葉を聞いて娘も私と全く同じ気持ちだったことに、私は気がついた。
そもそも感謝というのは、
「相手によくしてもらって、自分は本当にうれしい、
このうれしいと思っていることをその相手に伝えて、相手にも喜んでもらいたい」
そういうものではなかったのか?
しかし、うれしいという実感もないのに、相手に礼儀知らずだと言われないためにお礼を言うのが、なんと世間では多いことだろうか。
今回の場合、娘の態度は決して許されるものではないけれど、
私のほうにも世間体を気にしたり、「躾のなっていない親」と思われることへの恐れがなかったわけではない。

結局娘には、
「おかあさん、おばさんにこのシャボン玉をもらってあなたが喜んだと伝えたかったんだ。
そうすればおばさんも喜んでくれるかと思ったから」
といってこの話をお終いにした。
そしてこれからは「お礼を言っておきなさいよ」というのはやめて、
「よかったね、(こんなにしてくれるなんて)いいひとだよね」と言うようにしようと心に決めたのだった。

が、先日「お袋の教え」というblogを拝読して、その決心も揺らぎ始めている。
その中で、筆者のpoohpapa氏はお礼をきちんというように躾けてくださった母上に感謝の意を表せられているからだ。
世間の荒波をくぐり抜けいくためには、己が論理だけではならないときもある。
「うれしいという実感がなければ、感謝する必要がない」などという論理を、正しいと振りかざしたところで、ただの傲慢、そんなことをしてもツマハジキにされるのがせきのやまだ。
うーん、難しいなあ。

結局のところ、常に『人の身になる』姿勢を身に着けさせること、そこに究極の躾があるのかもしれない。
人に喜んでもらうための感謝、その原則も結局は『人の身になる』ことにより生まれてくる自然の思いであり行動なのだから・・・
いずれにせよ、未熟な親が未熟な子供たちを育てていくのである。
「難しくて当然なのかもしれないなあ」と思いつつ、
そうして試行錯誤はまた続いていくのであった。

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2004/08/24

オリンピックの密かな楽しみ

子供と一緒に眠ってしまい、はっと気づくともう1時をまわっていた。
階下に下りていくと夫がオリンピック中継をテレビで見ている。
起きてきた私に向かって彼はうれしそうにこう言った。
「ハンガリーの国歌、初めて聴いちゃったよ。」
へえー、ハンガリーの国歌?
「珍しくマイナー調の寂しげな始まりなんだよね。でもだんだん盛り上がってきて、元気が出でくるんだ。なかなか感動的だよ。『いろいろ苦労したけど最後はみんなで頑張って幸せになりました』って感じだな。」

彼は、ハンマー投げの表彰式を見たらしい。
室伏選手を抑えて金メダルを獲得したのは、確かハンガリーの選手だった。
マイナー調ということはチゴイネルワイゼンみたいな感じ?
東欧の荒涼とした風景やそこを彷徨するジプシーたちの姿が目に浮かぶ。
ああ、聴きたかったなあ!

こんな風に書くと、いかにも私が国歌フリークで、数十カ国の国歌を知っているかのごとき人物のようだが、そんなことはない。知っているのは極々わずか。
ご存知のアメリカに始まり、荘厳なイギリス、『自由・平等・博愛』の象徴だが勇ましげな軍歌でもあるフランス、統一への憧れに溢れたドイツ、民族色の薄い共産中国、唱歌風の懐かしさのある韓国、それにちょっと変わったところで、チリなんてぐらいだ。
なぜここにチリが出てくるかというと、何回か前のサッカーのワールドカップで2度ほど聴いたことがあるから。エンディングが3回繰り返されるというクドさがとても気に入り、その大会で決勝トーナメント進出ならずして敗退したときは、「もう当分この国歌が聴けないのか」ととても寂しく思ったものだった。
事実それ以降1度も聴いていないのだが、今回のオリンピックでチリはなんともう2個も金メダルを獲得しているらしい。つまり2度もあの曲がアテネの空にかかっていたのだ。うーん、聴き逃したのはまことに残念。(もっともそのシーンがテレビで放映されたかどうかは定かではないが・・・)

そもそもオリンピックのようなスポーツの祭典でもなければ、なかなかそういった国の国歌など聴く機会はないものである。
国歌にもその国の個性のようなものが表われる。
先ほどのハンガリーしかり、チリしかり。
特に南米の国歌は結構オペラ風でドラマチックなものが多い。
熱きラテンの血のなせる技か。
そういうところでその国に触れたような気になるのも、「また楽し」だ。

今まで迂闊にも日本の金メダルラッシュに浮かれて、未知の国歌に触れる絶好の機会を逃し続けていた。
これはいけない、日程も後半になったこれからは表彰式のシーンには気をつけていなければ・・・


さて、そういえばロシア国歌をまだ聴いていないことに、今気づいた。

今頃になってこんなこというのも恥ずかしいが、
もちろん、ソビエト国歌じゃなくなったんでしょう?

もしご存知の方がいたら、ご一報くださるとありがたいです。

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2004/08/20

トトロの世界に嫁ぐと・・・

8月12日から18日まで、我が家は一家そろって夫の実家に帰省した。夫の実家は、東北の山村で義父が3年前に亡くなってから、義母が一人で暮らしている。いまは高齢になったため年金生活だが、生業は農業。そう、うちの夫は農家の長男にして一人息子なのだ。
毎年この時期の帰省はもちろんお盆を過ごすためなのだが、山村のお盆というのは、町育ちの私にとって最初は思いもよらなかったいろいろな行事ごとがあった。

場所によっていろいろあるようだが、その界隈のお盆は8月14日から16日の3日間である。
その前の13日には家々の玄関や軒先には多くの提灯がかけられる。それぞれの仏壇も竹や(何故かはわからないが)わかめ、そうめんなどで飾られ、果物や花がふんだんに供えられる。周囲には回り灯籠なども出され、にぎやかな一角を形成する。

そして14日の朝、餡子餅と米粉でつくった団子をこさえて、お茶、供花、線香などを持ち人々はご先祖のお墓参りをする。いわゆる迎え盆である。
高齢になった今でこそ義母は、餅は真空パックの切り餅、餡も出来合いのものを使っているが、3年ほど前まで、つまり義父の生前のころまでは、もち米をふかして餅を(さすがに機械でだが)つき、小豆を煮ていた。
その準備は前夜は深夜に及び、当日の朝は薄暗いころから始まっていてかなりの大仕事だ。
だが主婦の仕事はそれだけではない。
お盆の間にお線香を立てにいらっしゃるお客様のために数々の手料理(お煮しめ、山菜料理、お漬物)を大量に作っておくことも必要だ。お茶うけといったら、市販されているお茶菓子のことかと思っていた私にはこれは驚きだった。
ところで、この働き者の姑に対し嫁のほうは、お嫁に来たころはほとんど戦力にもならず、忙しく働く義母をはらはらうろうろしながら見守っていただけだった。(スミマセンでした、お義母さん。)

たいてい14日の夜、村の盆踊り大会が開催される。踊るのはもっぱらここの村の踊りである。
それがエンドレスで7時から9時までずーっと続く。(昔は真夜中まで行われたとか・・・)
夫は東京に出てきてはじめて町の盆踊りに行ったとき、東京音頭ならともかく、炭鉱節だのいろいろな地方の踊りが踊られているのに驚いたそうだ。しかし考えてみると東京の住人の大半は地方出身者なのだからそれもうなずける。

さて14日から16日夕刻までいろいろな人々がお線香をたてにやってくる。多くは親戚のひとと近所の隣人だ。この辺りでは村中親戚同士のようなものだから、同じようなものなのだろう。なにせ、ここらあたりでは苗字が4つに限られているのだから。だから各家を区別する為に苗字とは別に屋号がある。まあ家のニックネームのようなものだ。

16日夕刻、庭の片隅で先祖を送る「送り火」が焚かれる。新聞紙を一枚程度焼き尽くすぐらいの簡単なものだが、これが送り盆の始まりである。お供えしてあった果物や野菜お菓子などを小さなムシロに簀巻きにして、お茶、お花、お線香を持って再びお墓参りをする。
お墓は畑や田んぼの中にあるのだが、夫の子供のころは日がとっぷり暮れた後送り盆に行くと道々、蛍が飛んでいて幽玄なる世界が広がっていたそうだ。しかし忙しい昨今では、日暮れ前に送り盆をすませてしまう家庭が増えた。我が家も例外ではなく、夕方早々に済ませてしまった。蛍を見たことのない私は1度でいいから見てみたいとも思うのだが、たとえ日が暮れてから出かけても、田んぼも少なくなってしまった今となっては蛍もどこかへいってしまったらしく、見ることはかなわないらしい。残念なことだ。

こうしてつつがなくお盆は終わり、村は急に秋の気配をみせる。義母一人では片付けられない提灯や灯篭などを片付けながら私たちも東京に帰ってからの生活に思いをはせ始める。狭い家や夜になっても暑い部屋、エアコンをかけて過ごす夜のことなど・・・


11年前の夏、私は初めてこの村にやってきた。夫となる彼が、結婚相手(私)を自分の両親に紹介するためにつれてきたのがそれだった。誰でもそうだろうが、その日、私は非常に緊張していたのを覚えている。
一方彼は、私が山奥の村に恐れをなしてこの結婚を躊躇するのをかなり心配していたようだった。「・・・山奥でびっくりするよ・・・」そう繰り返し何度も言っていたのが思い出される。
確かにびっくりしたが、そのときはまだ本当の意味でのここでの暮らしの大変さを全く知らなかったといっていいだろう。いや今だって実際暮らしたことがないのだから、何もわかっていないという点では全く同じなのかもしれないが。

「だんな様の実家ってどんなとこ?」そう尋ねる友達に私はいつもこう答えている。
「『となりのトトロ』の世界だよ。」
このトトロの世界は、
村中親戚で誰が何をやっているか全て皆知っていて、子供がひとさらいにさらわれる心配はまずないけれど、新参者はその言動全てが注目の的となる、そんな村社会だ。

結婚してすぐのお正月、私は親戚の人と一緒に熨斗紙のついたタオルをもって村の近所のひとたちの家々に挨拶をして回った。
「今度○○のところに嫁に来た××です。」と。
夫婦して挨拶に回るのではなく、親戚の人に連れられてとはいえ一人で知らない家々を回るのはそのときの私には辛く、そのような風習にかなりびっくりした。
しかしそのことを後日友人に話したら、
「そうだね、そういうことうちの実家のほうでもやってるよ、兄のお嫁さん、それやってたよ。」
と言われ、二度びっくりしたことがあった。
そういえば、夫の子供のころの小さな白黒写真を別の友達に見せて「ねっ、日本昔話の世界でしょ」と言うと、「私の子供のころもこんな感じだったなあ」という返事がかえってきたっけ。

『トトロの世界』は、案外まだまだ日本のなかにいっぱいあるのかもしれないなあ。

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2004/08/10

ある夜のできごと

ある晩のこと。
洗濯物などを畳んだり新聞をちょっと読んだりして、すっかり床に就くのが遅くなった私は、
もうすっかりいびきをかいて熟睡している夫の傍らに「はあー」っとばかりに横たわった。
暑い暑い夜のことだ。
その日はごく弱くエアコンをかけながら締め切った部屋で夫は眠っていた。

しばらくすると私はなんとなく息苦しさを感じた。
暑さのせいで部屋の酸素の濃度が下がったのか?
夫が締め切ったこの部屋の酸素の大半を吸い尽くしてしまったのだろうか?
とにかく「はあはあ」と意識して一生懸命息をしないと苦しい。

苦しい、苦しい、ああこのまま死んでしまうのかも・・・

しかし、私は死ななかった。
そのあとすぐ息苦しさはうそのように治まった。
そのときはちょっと体調が悪かっただけなのか・・・・
そして、暗い部屋のなか、すっかり眠気の飛んでしまった私は横になりながらこんなことを考えた。

本当に死ぬときも、死ぬ前にこんなふうに考えるのだろうか、と。

実は、私はよく夢の中で死にそうになる。
例えば、ものすごい断崖絶壁の上を歩いているとする。
落ちたらどうしようなんて思いながらこわごわ歩いているのだが、
必ずといっていいほど落ちることになり、「きゃー!!!」という間もなく「ぎくっ」として目が覚めるのだ。
他にも、乗っていたエレベーターが急に止まり真っ逆さまに落下するとか、
グライダーのようなものに乗っていて気流が突然乱れて墜落するとか・・・
そのことを夫に話すと「何事にも弱気なんだね」と言われた。
確かに私は「ここを乗り切れば大丈夫!」というときに「うまく乗り切れる」自信がほとんどない。特に運動神経がからむと絶望的だ。

話がそれてしまったが、とにかくよく死にそうになる疑似体験を夢の中でするということを言いたかったまでである。
でもそうした夢のなかの絶体絶命は目が覚めれば逃れられる。
現実の危機も「ひやっ」とした次の瞬間、「あー、助かった」とか「あーびっくりした」で今のところ済んでいる。
でも本当に死ぬときは?
そのときはこの何倍も苦しくて苦しくてそれでも逃れられなくて、「ああこのまま死んでしまう、本当に死んでしまうの?!」なんて思いながらやっぱり死んでいくのだろうか?
ひとたび生まれたからにはみんな死なねばならないのだから仕方が無いのだが、
このとき私は本当に『死ぬ』のが怖くなった。

昔、まだ大分若かったころ、ある知人と「死ぬのは怖いか」について話し合ったことがあった。
私は「そのあとどんなことになるかわからないから、だから怖い」と言うと、
その人はこう言った。
「自分は死んだら何も無くなると思っている。
こういうふうに考えたり悩んだり、喜んだりわくわくしたりするこの心も消えてなくなると思っている。
だから怖い。
怖くてたまらない」
その言葉を聞いて、それは確かにものすごく怖くて寂しいことだと私も思った。
私自身としては、肉体の死が心も消し去ることはないように思えるのだが、
こればかりはなってみないとわからないことだもの。

もんもんと考えているうちに、どうやらいつの間にか眠っていたようである。

そして朝になり、明るい日の光の下、夜の恐怖は去った。
死ぬなんてことは一生有り得ないような顔をして、食事の支度をし、子供たちを送り出し、出勤して仕事をしている。
確かにそうだ。
いつくるかわからない『死』に脅えてはいられない。
まったく、人間の思考というものはまことに都合よくできているものである。

<'06.06.17追記.>
この記事をGINさんの
「『死を恐れない』理性と『死が怖い』感情」('06.04.20)
トラックバックさせていただきました。
こちらの記事にも感じ入りましたが、
同タイトルのHPのほうのロングバージョンの文章にも
随分共感を覚えたものですから。

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2004/08/05

必ず帰るから、待っててね

久しぶりに「観たい!」と思う映画に出会った。
カンヌ国際映画祭男優賞を獲得したことで話題の「誰も知らない」である。
観てもいない映画について語るのは、ちょっと気が引けるが、
観終わってからの感想と今の気持ちはおそらく違うであろうから今ここで書き留めておこう。

どちらかというとシニカルな私は、子供や動物をテーマにした『感動もの』は苦手である。
不治の病を抱えた子供とその子に生きる勇気を与える為に輝きを取り戻す大人の物語とか、
動物と過ごすうちに心を開いていく子供の話とか・・・
どうも安易に感動させられているような気がしてしまうからだ。
しかし、この「誰も知らない」の『親の帰りを待ち続ける子供』のシュチュエーションにはもっぱら弱い。
その、「じっと待っている姿」を想像するだけで自然とじわーっとなってきてしまうのだ。
なぜそんなにそのことに涙腺がゆるむのか?
「おかあさん(もしくはおとうさん)はちゃんと帰ってくるはずだ」という子供のひたむきだが絶対的な信頼、一方その信頼を本意にしろ不本意にしろ踏みにじっている大人の勝手さ残酷さとの対比が例えようも無く悲しいからだろうか。

ところで、わたしはそんなことを思いながらも、子供(小1と小2の二人)だけを残して、
夕方ちょっとした買い物などにでてしまうことが多い。
「ちょっと買い物してくるから、お留守番しててね」、なあーんていって出かけてしまうのである。
子供も最近ではついて行きたいとダダをこねることも少なくなって、「いやあ楽になったもんだ」などと思い自転車をこぐ。
こぎながらいつも必ず考えるのは、このまま私が帰らなかったらあの子達はどうなるのだろうか、ということだ。
たとえば自転車で交通事故にあってしまうとか・・・

子供たちは私が帰ってくるのをなんの疑いも無く待っている。
二人で居間のテーブル近くにちょこんと座って遊びながら・・・・
たまに思い出したように「おかあさん、遅いねえ」なんて言うかもしれない。
・・・そのうち小さいほうがぐずぐず言い始める。
お姉ちゃんは自分の不安を掻き立てる弟の泣きを叱りつけながら、最終的には自分も大泣きとなる。
・・・そして二人の泣き声の大合唱。
ああ、この辺で近所の人が気づいてくれるか、警察からの連絡かなにか入ればいいのだが・・・
この都会の片隅では子供がちょっとやそっと大泣きしていても誰も気づいてはくれない気がするけど・・・


そんなに心配なら子供だけ残して出かけるな!と言われそうである。
親の留守中、強盗が押し入り、「顔を見られた」からと幼い兄弟が殺害される事件もあった。
海外では子供だけで留守番させるのが罪になるところもあるらしい(blog“Kakoの手文庫”の「ぼんやり街を歩きたい」参照)。

しかし、子供たちをつれてぞろぞろと買い忘れたマヨネーズひとつを買いに行く気にはやっぱりりなれないな。
そこで、次の心掛け。
まずはきちんと鍵をかけて、それから安全運転で出かける。
「自分ひとりの身体ではない」ということを肝に銘じておこう。
そして子供たちには
「必ずすぐ帰るから、待っててね」と言って出かけよう。

だって、この子たちには私はまだ当分は必要な存在なのだから・・・。

しかし、私が一人で自転車に乗って外出しているときはいつもこんなことを考えているなどと、
子供たちや周囲は、それこそ「誰も知らない」ことである。

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2004/08/03

時の輪切り

ここ何日か「時間」というものについて考えている。
「時間」ってなんだろう?
もちろん、時間とは過去・現在・未来と連続した、言わば『線』のような存在だということを私たちは知っている。
だけど「永遠の今を生きる」というblogを読んで、
「時は『線』かもしれないが、人はそれを『点』としてしか触れることができないのだ」ということに気がついた。
過去も未来も確実に存在することを知りながら、私たちが接しているのは常に「今」という瞬間・すなわちひとつの『点』でしかない。
そしてその『点』は空間における『点』のように、ここからここまでといった範囲がなく、細分化してもきりのない存在だ。
よくSF小説などで使われるタイムトラベルが可能なことだとしたら、
この『点』それぞれにその世界空間が存在することになる。
その時点の空間への旅行がタイムトラベルなのだから、過去の空間が消え去ったり未来の空間が未完成では困ってしまうからだ。
しかし、そうなるとなんと世界は莫大できりのないものになるのだろうか!
空間としての宇宙も拡大し続けているというのに、
限りのない時間の一瞬一瞬にその空間がついているとは・・・!
考えただけで気の遠くなるような広大さだ。

映画「2001年宇宙の旅」のエンディングに登場人物の男性が建物の中で一人きりというシーンがあった。
「一人きりかな」とあたりを見回すと、あれっ誰かいる。
そう思った瞬間、その誰かは何年か後の自分でもう自分はその誰かになっている。
また見回すと、やっぱりまた誰かいる。
その瞬間、その誰かにまた自分はなっていて、それは死を間近にした老人の自分だったり、
母親の胎内にいる胎児の自分だったりするのだ。
「ああ、もし時間が『点』に輪切りされたら、こんな瞬間をあじわうことができるのかなあ」。
そんなことをこのシーンを見て私は思った。
もちろん空間において『点』が輪切りされないように、そんなことは決してないことだとは思うのだが・・・

この世界は本当に不思議でわからないことだらけだ。
でも、楽天的な私はこう思う。
いまのこの世界に属している間は、此方の方からしか見ることができず、当然すべてを知ることが不可能だが、
でもいつの日か、必ず全てをもっと高いところから見つめられる日がくることだろう。
そのときこそ、全ては白日の下にさらされ、私たちは理解するに違いない。
そしてきっとこうつぶやくことだろう。

「ああ、こうなっていたのか!
・・・あそこからあのように見ていたのでは解らなかったのも無理はないなあ・・・」

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