ある夜のできごと
ある晩のこと。
洗濯物などを畳んだり新聞をちょっと読んだりして、すっかり床に就くのが遅くなった私は、
もうすっかりいびきをかいて熟睡している夫の傍らに「はあー」っとばかりに横たわった。
暑い暑い夜のことだ。
その日はごく弱くエアコンをかけながら締め切った部屋で夫は眠っていた。
しばらくすると私はなんとなく息苦しさを感じた。
暑さのせいで部屋の酸素の濃度が下がったのか?
夫が締め切ったこの部屋の酸素の大半を吸い尽くしてしまったのだろうか?
とにかく「はあはあ」と意識して一生懸命息をしないと苦しい。
苦しい、苦しい、ああこのまま死んでしまうのかも・・・
しかし、私は死ななかった。
そのあとすぐ息苦しさはうそのように治まった。
そのときはちょっと体調が悪かっただけなのか・・・・
そして、暗い部屋のなか、すっかり眠気の飛んでしまった私は横になりながらこんなことを考えた。
本当に死ぬときも、死ぬ前にこんなふうに考えるのだろうか、と。
実は、私はよく夢の中で死にそうになる。
例えば、ものすごい断崖絶壁の上を歩いているとする。
落ちたらどうしようなんて思いながらこわごわ歩いているのだが、
必ずといっていいほど落ちることになり、「きゃー!!!」という間もなく「ぎくっ」として目が覚めるのだ。
他にも、乗っていたエレベーターが急に止まり真っ逆さまに落下するとか、
グライダーのようなものに乗っていて気流が突然乱れて墜落するとか・・・
そのことを夫に話すと「何事にも弱気なんだね」と言われた。
確かに私は「ここを乗り切れば大丈夫!」というときに「うまく乗り切れる」自信がほとんどない。特に運動神経がからむと絶望的だ。
話がそれてしまったが、とにかくよく死にそうになる疑似体験を夢の中でするということを言いたかったまでである。
でもそうした夢のなかの絶体絶命は目が覚めれば逃れられる。
現実の危機も「ひやっ」とした次の瞬間、「あー、助かった」とか「あーびっくりした」で今のところ済んでいる。
でも本当に死ぬときは?
そのときはこの何倍も苦しくて苦しくてそれでも逃れられなくて、「ああこのまま死んでしまう、本当に死んでしまうの?!」なんて思いながらやっぱり死んでいくのだろうか?
ひとたび生まれたからにはみんな死なねばならないのだから仕方が無いのだが、
このとき私は本当に『死ぬ』のが怖くなった。
昔、まだ大分若かったころ、ある知人と「死ぬのは怖いか」について話し合ったことがあった。
私は「そのあとどんなことになるかわからないから、だから怖い」と言うと、
その人はこう言った。
「自分は死んだら何も無くなると思っている。
こういうふうに考えたり悩んだり、喜んだりわくわくしたりするこの心も消えてなくなると思っている。
だから怖い。
怖くてたまらない」
その言葉を聞いて、それは確かにものすごく怖くて寂しいことだと私も思った。
私自身としては、肉体の死が心も消し去ることはないように思えるのだが、
こればかりはなってみないとわからないことだもの。
もんもんと考えているうちに、どうやらいつの間にか眠っていたようである。
そして朝になり、明るい日の光の下、夜の恐怖は去った。
死ぬなんてことは一生有り得ないような顔をして、食事の支度をし、子供たちを送り出し、出勤して仕事をしている。
確かにそうだ。
いつくるかわからない『死』に脅えてはいられない。
まったく、人間の思考というものはまことに都合よくできているものである。
<'06.06.17追記.>
この記事をGINさんの
「『死を恐れない』理性と『死が怖い』感情」('06.04.20)に
トラックバックさせていただきました。
こちらの記事にも感じ入りましたが、
同タイトルのHPのほうのロングバージョンの文章にも
随分共感を覚えたものですから。
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