特別のひと・普通のひと
「『・・・もういい加減、自分を人とは違うって思うのはやめませんか?○○さんは良くも悪くも人に特別だって思われたいんですよ。』・・・そうその男性言われた女性は真っ赤になって黙ってしまった。」
これは以前ある雑誌の中で目にした光景だ。
これを読んで私はこの男の人に対して、「それは無理だよ、自分を特別だって思ってもらいたくない人なんかいないもの」と心の中で思ったものだ。
例えばここに2人のひとがいるとする。AさんとBさん。
Aさんはちょっと変わった視点から物事を捉えるのが好きだ。様々は文章を読んでいてなかなかの博学でもある。多くの人たちがキャーキャー騒ぐような流行廃りには無頓着で、自分は本物を欲求し続けていると自負している。
一方Bさん。流行には敏感で、自分の生活にすぐ取り入れる。マスコミなどでいいといわれる物は一通り試すが、忘れるのも早い。常に人と一緒に行動し、格好も友達と似通っていて、言わば先程のAさんのようなひとからすると「一般的な他の人たち」の代表のような存在だ。
でもちょっと、待って欲しい。
このBさんとて、「自分は他の人とは違う」と思っていて、その存在が特別であることに変わりはないはずだ。Aさんからすると十羽ひとからげのようなの存在であったとしてもひとつひとつには顔と個性があることを忘れてはならないのである。
実はAさん程のこだわり派ではないにしろ、私自身、ややもするとそんな気分になって多くのほかの人を大雑把に捕らえたりしてしまいがちなのだが、それはとんだ傲慢というものであろう。
さて、こうなってくるともう1つの疑問がわきあがってくる。
「一般的な他の人たち」、いわゆる「普通のひと」とは、一体どこにいるのだろうか。
そして「皆と同じ」という「皆」とは誰のことなのか。
・・・・・
それがどこにも存在していないことは誰の目にも明白だろう。
どこにも実在していないのに、いつの間にか肥大して個性豊かなはずの個人をのみこんでしまった「普通のひと」。
驚くことに私たちにはこの普通という言葉に全く違った感情を同時に思っていることに気づく。
それは憧れと侮蔑。
皆と一緒でありたいと願い、その反面皆とは違った存在でありたいと願う。
全く、人とはなんと複雑な心をもつものなのだろうか!
自分の弱さを埋没させるために雑踏に逃げ込みながら、その雑踏を卑しむことも忘れない。
・・・もちろん、私もその1人であることはまぎれもない事実である。
| 固定リンク