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2004/12/17

行間の表現

 この前のblogを読み返して、思ったこと。
 まあ、以前から気になってはいたのだが、私の文章には「・・・」が多い。

 これは一応、自分としては「間」というか、行間に流れる雰囲気のようなものを表現したくて多用しているわけなのだが、それにしても最近多すぎる気がする。
 多すぎて読んでいる側にしてみると、
 「なんだよ、なんか勿体つけているっていうか、自分に酔っているっていうか」
 としらけることだろう。

 行間になにものかを滲ませるというのは、なかなか難しいものだ。
 「・・・」などの記号を使うなど、そんな小細工を弄さずとも実に巧みにそれを表現できている文章に出会うと、自分はまだまだだなあ、と思ってしまう。

 特に私の場合、自分の言いたいことが相手に伝わるかとても不安なため、ついついくどい表現を使ってしまう。
 話し言葉などもそうだ。
 その昔、自分の母親に「あんたの話し方はくどい。そう何度も同じことを言わなくてもいい。せっかくいいことを言っていても聞く気がしなくなる」といわれたくらいだ。
 自分でも全くそのとおりだと思う。
 「・・・」だって「ここで間を感じて欲しい!間があるとないとでは微妙なニュアンスが違うから・・・」という願いから、蛇足ながら使っているわけだ。

 「より自分をわかってほしい、自分の言わんとしていることを十分に(十二分に)理解してほしい」
 そういう思いがきっと私はひと一倍強いのかもしれない。

 でも、文章たるもの、ひとたび書き手を離れ読者の目に触れれば、それはもう読者の感受性のままに受け入れてもらうのが一番なのだろう。行間とは書き手が意識してねじ込むものではなく、読み手が溢れ出てくるもの受け取るものなのだ。


 「氷山の一角」という言葉がある。
 よく「悪いことが一部表面化して、他にも見えないだけで存在するであろうと推測される」ときに使われている。
 多分その使い方が正しいものなのだろうが、それとは別に、私は「そのひとたり」もその「氷山」のようなものだと思っている。

 ひとがその全てを外にさらけだすことは不可能だし、必要のないことなのだ。
 外にださなくても、それがそのひとの力であり中身であることは変わりない。であるから必要とあらば自然と滲み出てくるものもあるだろうし、また一生日の目をみないものもあるだろう。

 文章における行間もそんなものなのではないか。

 「多くを書きすぎる」のはちょっと控えてみよう。
 そんなことをせずとも、私の文章は、私をあらわしてくれる筈なのだから。

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コメント

婉曲は優しさの表現でもありますものね。そうですか、そうなるとまんざら捨てたものでもないということになりますかね。いつも励ましのお言葉、ありがとうございます。テンツェリンさんの記事も早速拝見に参ります。楽しみです。

投稿: ぞふぃ | 2004/12/20 12:29

ぞふぃさん、こんばんは。「・・・」は言い切りを避けるための優しさの表れという解釈もできます。私は好きですが、時折「・・・」を敢えて使わずに書いてみるのも、いい経験かもしれませんね。私の上海体験記もやっと更新しました。

投稿: テンツェリン (nofumo) | 2004/12/19 22:17

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