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2005/01/31

渦巻く憎悪

少し前の話題で恐縮であるが、東京都の外国籍職員の管理職昇任試験拒否訴訟における最高裁の合憲判決について。
この件についての数々の意見がネット上に溢れていることを今回あらためて知った。
ざっと目をとおしてみたところ、かなりの割合でこの原告の女性に批判的な意見が多いようだ。

冷静で理性的な判断に基づいたものもある中、気になったのは原告にたいする敵意をむき出しにしたとも思える記述である。
 
原因は、

「世界中に言いたい、日本には来るなと」
「日本にきて働くということはロボットになるということ」

等々、原告側の感極まった発言にあるらしい。

それらがひとびとの神経を逆撫でし、
「だったら帰れば」という発言も出てきている。

世の中「韓流」とか「今年は日韓友情年」とか言っているが、ちょっと何かあるとこうなのだ。

かたや豊臣秀吉朝鮮出兵以降の恨みつらみ、
そしてもう一方はその恨みつらみを言われ続けるうんざり感。
右や左の思惑もあるのだろうが、今回の問題にこれが全く無関係とは思えない。


残念なことに、
ヨン様ブームもこの「積年の思い」には歯が立たない、ようである。

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2005/01/26

帳尻あわせ

 冬晴れの土曜の午後、海沿いの公園をひとりで歩いた。
 ピカピカの磨き上げられたような青空の下、ひとけのない公園は静けさのなかにある。
 聴こえるのは鳥のさえずりぐらいなものだ。

 ふと、傍らの木立に目をやる。
 すると、下の子供が何年か前にこの木立の中でひどく服を汚したこと、そしてそれを私がこっぴどく叱ったことが思い起こされた。

 「あれは『叱った』のではなく感情にまかせて『怒った』のだったな」

 服を汚して、もうそれだけで情けなく辛い想いでいっぱいのはずの子供が、母である私に追い討ちを掛けられるようにガミガミ怒られて、なんとも悲しげに泣いていたのが思い出される。

 「ひどいことしたなあ」

 その「ひどいこと」を皮切りに、
 私の頭には過去にしてきた数々の悪事がつるつると浮かんでは消えていった。
 子供のころ友達についた嘘、裏切り、つげぐちなどなど。

 そのあまりの多さに苦しくなって、
 そこから逃れるように今度は自分が過去にした「善いこと」を思い起こそうとした。
 しかし、これが意外と少ない。

 「人生において、善いことで悪事を埋め合わせるためには、これから何回善い行いをしなければならないだろうか」
 そんなことを真剣考えている自分に気がついて、私は苦笑してしまった。
 善い行いで過去の悪事が帳消しになるわけでもあるまいに・・・

 ここで、私は目的地に到着。
 夫と子供が先に行ってるはずの広場も光があふれてかえっていた。

 こうして孤独な思索の旅はみじかく終わりを迎える。


 さて、
 一体だれに対して、私は人生の帳尻を合わせようとしていたのだろうか。


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2005/01/21

詩人の言葉

 昨年秋ぐらいから、新聞の日替わりエッセイ欄を読むのを楽しみにしている。
 そのコーナーの執筆者の面々が、新しい年になって一新された。
 それと同時に密かにファンだったひとの文章を目にする機会も失われてしまった。
 寂しい気分の年明けだった。

 だが先日、新メンバーの中にも素敵な文章を書くひとを見つけ出した。
 ちょっとうれしいこのごろなのだ。
 新たにファンになったその執筆者の肩書きを見てみると、「詩人」とある。
 なんという偶然か、前のお気に入りのひとも肩書きは「詩人」であった。

 言われてみると、詩人であるこのひとたちの書く文章には他の執筆者たちより言葉を知り尽くしたような感がある。
 例えば一例を挙げてみよう。
 海外暮らしの長いひとが空港でふと母国語を耳にする。懐かしさで胸がいっぱいになる。
 そのふるえる心を 「あ、日本語」ではなく、

 「あ、にほんご」

 とあらわす。
  さしずめ私なら「あ、日本語・・・!」と安易に記号での表現に走ってしまいそうなところなのに・・・

 もっとも作家も詩人もエッセイストも言葉を駆使して自分の作品をつむぎだすわけだから、こと詩人が言葉の達人であるというのも根拠のない思い込みなのかもしれない。
 でも「詩」という限られた形式のなかで表現することを生業としているこのひとたちはきっと普通以上に、
言葉の「かたち」や「おと」やその「におい」にまでも敏感なのではなかろうか。

 残念ながら、私はいままで詩を愛読したことはなかった。
 今もそう。
 これほど素敵だと感服している、そのひとの詩ですら読んでみようと思ったことはない。

 きっと詩がすきなひとというのは、
 この言葉の「かたち」、「おと」、「におい」を味わいたいのかな

 そんなことを人生の折り返しでようやく私は気付いたようだ。


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2005/01/12

キリスト教保守派が・・・

 先日新聞を読んでいたら、こんなことが書いてあった。
 「キリスト教保守主義のメディアへの進出」
 うる覚えの見出しなので正確ではないが、多分こんな感じのタイトルで、アメリカにおけるキリスト教保守派のメディアへの影響力増加の様子が書かれたものである。

 具体的に言うと、例えば暴力的シーンや同性愛の描写の削除、神や聖書の内容に基づく番組の作成など、キリスト教的道義をメディアを通じて積極的に行っていこうという動きが、昨年のブッシュ大統領再選という事実に後押しされるように更に拍車がかかっているということのようなのだ。

 非道徳的な内容の番組が減り、キリスト教的という原則がつくものの、道義的な番組が増えるということは決して困った風潮ではないはずだ。にもかかわらず、なんとなくその変化を不気味に思っているようなニュアンスがその記事から感じられるのは何故だろうか?
 不本意ながらも聖書の道から外れた者(例えば同性愛者)の人権を擁護する気持ちからか?
 日本のメディアではすこぶる不人気のブッシュ大統領、その彼の有力支持母体キリスト教保守派への反感からか?
 はたまたキリスト教というひとつの考えにアメリカ世論が塗りづぶされるということへの危惧からなのだろうか?

  「宗教とは政治やメディアには顔を出さず、黙って人の内面に救いの手を差し伸べていればいいのだ。」
 そういう風潮が少なくともこの日本にはある。
 もちろん私自身もそれでいいと思ってきた。

 そして宗教で世界を変えていこうとする人々に対しては、
 「そんな他人の心にまでズカズカ入り込んでいくなんて!」
 「よくそんなことができるよ」
 「よっぽど自分の信仰に自信があるのだろうなあ」
 そんな冷笑を含んだ冷めた目を向けていた。

 他人にはごり押しのようにも見える
 強い道義的改革を推し進めようとする彼らと、

 「世界は全ての人のおのおのの自己精進でしか変わらない」
 と、つんとすましている私。

 どちらが、人間としてより「まとも」なのだろうか。

 この問題は、いつも私の中でどうどう巡りを続けている。

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2005/01/07

カナダ旅行記UPしました

 皆さん、明けましておめでとうございます。
 新しい年、2005年もどうぞよろしくお願い致します。

 さて拙HPの旅行記に、兼ねてから準備していました、カナダ旅行記を一部ですが、UPすることができました。
 (三連休は実家に帰省するためネットから離れるので、その前に・・・とちょっと頑張ってしまいました。)
 10年以上昔の話でお恥ずかしいものでもありますが、
 読んでいただけると幸いです。

 それと同時に、いままでのHPへのコメントも数が増えましたので、
 こちらの記事へのコメント欄に移したい思います。

 それではよろしければ、
 心に感じたさまざまなコメントをどうぞお待ちしております


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