はじめはただの「ちがい」だった
ある日、
あなたの隣にある一家が引っ越してきたとしよう。
そして、それが一目でわかる異質の人たちであったとする。
言葉も異なっていれば風習もちがう。
このひとたちにあなたが最初に向ける目は一体どんなものなのだろうか。
「あ、ちがうな」
そういう「ちがいの認識」、にはじまり、
「へぇー、へんなの」
という「好奇」の視線にそれが変わっていく。
さらにその一家を頼って別の家族がやって来たとしよう。
最初の一家族が二、三と徐々にだが、確実に増えていく。
そうなってくると、
もはや物珍しさなどを悠長に観賞している場合ではない。
今までの「好奇」は
自分達が数の上で「凌駕されるかもしれない」という「不安」や「恐怖」へと変わる。
そして、それらを払拭するためにあるひとたちは不条理な差別やいやがらせにはしるかもしれない。
全ては新参者たちの追い出しのために、自分達の昔ながらの共同体を守るために、である。
新参者たちとて、こうなったら我が身を守るために立ち上がらねばならない。
しかし相手は多勢だ。
そうなると頼るものは、ひとつしかない。
自分ひとりが囲まれたときに身を守ってくれる、武器。
相手が武器をもったとなれば、こちらも持たねばならぬ。
そして武器が双方に存在し、ひとつの悲しい事故でもがありさえすれば、あとはもう転がり落ちていくしかない。
こうして互いに「やったやられた」という憎悪の歴史は繰り返されていく。
はじめは、「ちがうと思っていた」だけだった。
それなのにどうしてここまできてしまったのだろう。
そもそも、
「ちがう」ということは嫌悪感を引き起こすほど、
あってはならないものなのか?
この多様化された時代にあっても?
なんというか、
ひとは「ちがい」を認識するとなんとなく不安になるもののようである。
それまでの自分を変えろと強要されているわけでもない。
お前のやり方は間違っていると非難されているわけでもない。
それなのに、なぜか不安になる。
そして不安になった自分にではなく、その不安をもたらした相手に非を求めたくなる。
全ては己の自信のなさが原因なのか。
いま世にある憎悪の数々は
ひとの自信のなさのあらわれなのだろうか。
そうだとしたら
まずは己が生き方に確固たる自信と信念、
それこそ「ひととの違い」を認められるぐらいの強い自信と信念、
それを持つこと。
案外それが、全ての解決への糸口なのかもしれない。
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