語学教育で必要なもの
>とある会議上、とても見事な英語を話すフランス人と知り合った。
>『どこでそれ程の英語力を?』と尋ねると、
>その人は留学したわけでもなく英語は全て
>小学校からの学校教育の中で習得されたものだという。
>日本でも小学校からの英語教育を早期に導入し、
>ネイティブスピーカーの教師を各校に配置の上、
>英語教育の徹底を望みたいものだ。
これは先日新聞のコラム欄で目にした記事の概要である。
書かれたのは、前・軍縮会議日本政府代表部特命全権大使の猪口邦子さん。
国際社会の舞台で英語力を持つことの大切さを、多分誰よりも身をもって感じられている猪口さんから見て、日本の学校の英語教育は全くもって物足りないものなのだろう。
その現状を憂う気持ちからの文章であることは間違いない。
今、ゆとり教育の見直しや学力の低下が社会問題になっている中、この英語教育の小学校からの導入もひとつの論点になっていることは、私もぼんやりとではあるが知っていた。
多分、中・高・大の約10年間、ごく普通に英語を勉強した人間には英語を駆使して仕事をする能力はつかないであろう。
「そのような英語教育を果たして有効なものといえるのであろうか?」
という各方面からのいらだたしい声が聞こえるようだ。
しかし、である。
猪口さんのご意見に異を唱えるようで何だが、
「だから小学校から徹底した英語教育を」という話にすぐ結びつくのはいかがなものであろうか。
その影にはひとつの大きな幻想、私たち日本人が常に惑わされてきた幻想が潜んでいる気がしてならないのである。
その幻想とは、
「英語のような語学はスタートが早ければ早いほどその習得は容易である」
というものだ。
>アメリカ人は赤ん坊のころから英語を
>ごく自然に話せるようになります。
>私たち日本人も日本語を覚える時期に
>一緒に英語も覚えてしまえば、いいのです。
>幼児期には語学を習得する能力が
>もともと備えられているのですから。
>英語が勉強になる前に、
>お子さんに英語に触れさせてみませんか?
幼児向け英語教材の決まり文句である。
そしてその内容をみるとGood morningやThank youなどの英語の挨拶や簡単な会話、物の名前など単語を覚えることやネイティブな発音の習得が主だったところのようである。
もちろん、幼児相手に仮定法などを教えたところで、そんなことは無意味なことだ。子供に遊びながら英語に親しんでもらうという狙い自体も決して悪いことではない。
でも、それをやったからといって英語がぺらぺらになり、英語を駆使して仕事をこなすほどの語学力がその子につくかということは、また別であろう。
幼児期における英語教育は、せいぜい英語への親しみを持たせ、苦手意識を回避するぐらいの効果しかないのだから。
つまりその子を英語好きにして、その後の人生で「英語を一生懸命勉強させる」動機づけをさせること、それが幼児期の英語教育の真髄なのだと私は思うのだ。
小学校からの英語教育が導入されるとして、それがどのようなものになるのかは、まだわからない。
しかし今のままのかたちで単純に学習期間が6年追加されるのだとしたら、過大な期待はしないほうがいいのではなかろうか。
今の10年の学習期間でも、英語習得に喜びを感じこつこつ努力して自由に使いこなせるようになったひともいる。学習期間が16年に延びたからといってそのひとたちの数が6割増しになるとも思えない。日本人の英語能力の平均が多少アップするという程度であろう。
(それでも底辺を増やすという意味ではもちろん意味のあることであるけれど。)
では、どのような学習が望ましいのか。
英語に限らず、外国語を習得するのに楽な道はない。
まずはその現実をしっかり見据えた上で、英語習得に何が一番必要かを見極めることである。
何が一番必要なのか?
それは、その楽でない道をくじけず学び続けるモチベーションを維持していくことなのだ。
音楽でもいい、スポーツでもいい、インターネット上の情報取得のためでもいい、
「英語ができなきゃあ、お話にならない」ことを自分で自分自身で実感すること。
それがなければ、基本的にはツールである語学は、それを学ぶ意味を見失うことになりかねない。
「そんなことを考慮に入れた工夫ある学習」、
せっかくの英語学習の見直しの機会なのだから、
こんなことを考えていただけるといいのではないかと、
小学生を持つ母親である私は考えた。
かつて10年間も英語を学習して、
貧弱な旅行会話程度のものしか残らなかったものとして。
それ以上の世界を
これからの子供たちが
英語を通じて得られることを願いつつ・・・
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