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2005/07/28

HPへのコメント

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2005/07/19

「スターウォーズ」と主婦と映画館

「・・・スターウォーズ、観に行きたいんだよね・・・」と夫が遠慮がちに切り出してきた。

「いいんじゃない」とあっさり私。
「でも、かわりばんこに観るしかないよね・・・」と、彼はまたさらに遠慮がちに続けてくる。

そう、子供がいてはね。
小学校低学年ぐらいなら、スターウォーズのような宇宙活劇が好きな子供も早くもいるかもしれないが、うちはダメ。
2時間以上も暗い映画館で大人しくさせるなんて無理に決まっている。

「うーん、私は別に映画館で観なくてもいいから、いいよ、ひとりで観にいっても。」
この私の言葉に、夫は拍子抜けしたようだった。

「スターウォーズエピソード3―シスの復讐」
―この約30年越しの壮大な叙事詩の完結編を映画館で観ずして、
一体どこで観るというのか!
全くこの女はわかっていない!

とまあこんな風までは思わなかったろうが・・・
自分が思い入れていたものの半分もイレ込んでいない妻の態度には、
ちょっと寂しい思いを感じたらしい。

しかし考えてみれば、かわりばんこに映画を観るというのもかなり無理な計画だ。
そんなことをすれば1本の映画にトータル5時間以上を費やすことになる。
それをせずに済んだこと、妻がスターウォーズファンでなかったことに結果的には彼も内心感謝していたかもしれない。
「じゃあ、映画が終わったら一緒に食事をしよう」と約束をして、寂しさの中にも嬉しさを噛み締めながら夫はひとり先に出掛けて行った。


後から私が子供達を連れて出掛ける。
映画館そばの海岸の公園でサッカーなどをして適当に子供達を遊ばせながら、映画終了時間を待つ。

・・・待ちながら考える。


このまえ劇場で映画を観たのはいつだったか。

それは、去年の晩秋のこと。
子供が何かの遠足でふたりとも夕方まで出掛けるので、それじゃあ映画でもって出掛けたんだっけ。

あのときはいまよりずっと日は短くて、
映画が終わって出てきたときはもう日が傾いていて、
その様子を見て、何となくやるせない気分に陥ったものだった。
無論、映画はそこそこ面白かった。
映画が終わったあと、ふたりでお茶を飲みながら今観た映画の話をするのも、新鮮だった。
でも、
「貴重な休日昼日中の2時間を映画なんぞに費やしてしまった」
というような微かではあるが
妙にくっきりとした後悔に似た思い、
それが今も残るこの日1番の思い出なのである。

今更ながら思うこと
・・・映画って、
お金もさることながら時間も費やす娯楽なのだ・・・

暗闇に何百人かが閉じ込められ、2時間あまりひたすら1つのストーリーをみせられる。
人々は見るよりほかに何も、
例えば家でDVDを観るときのように洗濯物を畳んだりすることも、
やることはできない。

今や家庭にホームシアターシステムや大画面のテレビもそれ程珍しくないご時勢。
DVDも画質はいいし、周りに遠慮なくおしゃべりすら出来る我が家のリビングでの鑑賞も捨てがたい魅力があるのでは?
殊に、こまごま小さな仕事数多くこなす主婦にとっては、
案外何気に敬遠されている娯楽なのかもな、劇場での映画って・・・


そろそろ、「シスの復讐」も終わる頃だ。
夫から携帯に電話が入る。

その日の夕食、
矢継ぎ早に映画のストーリーを尋ねる私に
夫はこう言った。

「やっぱりかわりばんこにでも観た方がよかったかな」

いや、
私はスターウォーズファンってわけでもないし、
どちらかというと、
ネットのシネマレビューなどで突っ込み放題突っ込まれているあたりを確認したかった
って感じなんだけど。

でも、そんな意地悪な理由にしろ何にしろ、
やっぱり劇場で映画を見たかったというのは正直なところなのか?

・・・そう、やっぱりそうなのかもしれない。

暗闇に何百人かが閉じ込められ、2時間あまりひたすら1つのストーリーをみせられ、
人々は見るよりほかに何もゆるされなくても、

いや、ゆるされないからこそ、

劇場での映画鑑賞は
時間の無い主婦にとって、贅沢な娯楽なのかもしれない。

・・・そうだね、今度はやっぱり一緒に観ようか・・・

なんだか、

またあの時間を無駄にしたような

心もとない気分を味わってみたい

そんな気分に、

無性になってきた

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2005/07/12

花瓶の花はもう・・・

 土曜日にとあるコンサートに出掛けた。

 会場には季節の花々がふんだんに飾られており、
 演奏会が終わった帰りがけに、ロビーでそれらが花束にされて配られていた。
 その花束は女性客のみに渡されるようで、夫と息子はもらえなかったが娘と私はその恩恵にあずかることができた。

 濃厚なオレンジ色のグラジオラスとバラ。
 それにやはり同じような色調のアゼリア、
 さらにグリーンをもっと多く!とばかり付け足されたと思しき、蕾すらない見知らぬ一本。

 「帰ってさっそく花びんにささないとね」と娘は言う。

 多感な頃なのだ。
 例え切花であっても、しおれていくさまは彼女にとって「死」であり、それを目の当たりにするのは辛いことらしい。

 「花びんの花は、もう死んじゃっているの?」とも彼女は尋ねる。

 うーん、どうなのだろうか。

 死んではいない。
 まだ蕾のものは花開いていくであろうし、もう開いているものもさらに艶やかな大輪の姿へと変貌していくことであろう。
 やはりまだ生きているのだ、根から断ち切られたとは言っても。

 ただ、この先あと何日その姿を留めておけるだろうか。

 この夏の季節、
 切り花について、取り立てて何の知識も無い私にはせいぜい5日ももたせられればいいところだろう。
 枯れてしおれて、
 明らかに「飾ってある」ではなく、「放置されている」という状態になったとき、
 この花々は私の手によって処分―ゴミ箱へと捨てられる。

 「枯れた花が飾ってあるなんて、何だかいやなんだよね」
 と、私の怠慢を珍しく細かく指摘する夫の目にも、
 「今やるとこだったの」とブツブツ不満顔でそれを処理する私の目にも
 最早かつての「花」はただのゴミにしか映らない。

 しかし「もう死んじゃってるの?」と尋ねたこの子には
 たとえそのときになっても、
 この「花」は別のものに映っているのだろうか。

 そんなこの子のためにも
 1日でも長くその美しい姿を保って欲しい

 そう思い、
 「死んではいないよ」と答えながら、

 (せめて花瓶の水をまめにかえてやろう)

 そんなことを考えた。


 3日目になった今朝は

 もうバラは、
 花芯が見えるほど開ききっており、

 まさに
 花弁が落ちんとする
 傾きかけた状態ではあるのだが・・・

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2005/07/05

ケイコとマナブはどちらが大事か?

 先日、こんなblogを拝読した。
 親に黙ってバレエを習っていた高校生の女の子が、そのことを親に知られてしまい、そのバレエ教室を辞めさせられてしまった、という話。(詳しくはEncantada「能天気からのメッセージ」参照のこと)
 その辞めさせる親側の理由というのは、「学業がおろそかになる」ということなのだそうだ。

 「うーん、もったいないなあ」と思った。

 自分でアルバイトしてレッスン代を捻出するほど好きなバレエ。それを無理やり辞めさせてまでして修めさせようという学業とは一体どんなものなのだろうか。

 何か特別な職業に就くために必要なものなのか?
 そうした職業に就くことで得られる
 「将来の安定した生活」のために必要なものなのだろうか?

 確かに同じエネルギーを費やすには、
 モノになるかわからないバレエなどよりは、確実に将来に結びつく学業のほうが有益であろう。
 結局お稽古事というものはただの趣味に終わることが多いのだし、それも一生続けていくひとだってそんなに多いようにも思われない。そんな不確かものよりも、やっておけば間違いない「学業」を優先させるべきという考えにも一理ある。
 そして、世の親というものはどうしてもそういう考えに傾きがちだ。


 でも、人生ってそれだけじゃないのでは?

 確実だから、有益だから、効率がいいから・・・
 それらだってもちろん大切なことだけれどもそれ以上に大切なこともあるのではないだろうか。


 ひとというものが生きていくのに一番必要なものとは自尊心だ、と私は常々思っている。

 自分はつまらぬものではないし、取るに足らないものでもない。

 そう思い続けることができれば、
 極端な話だがどんな生活でもそれはそれで十分なのだ。
 (もちろん周囲に迷惑をかけるような生活は除くけれども)
 そしてその思いをより強固にするために、
 ひとは何かを学んだり練習したりという努力をつみかさねていくものなのではないだろうか?

 きれいごとかもしれないが、
 そういう努力の対象を見つけられたものの道を阻むべきではないと思う。
 その道にこそそのひとは一番力を尽くせるはずなのだから。
 それを奪っておいて、
 「こちらのほうがより無難なのだから」
 と別の道を与えたところで、
 最初の道と同じ力と思いをそこに注ぐよう期待するのは無理というものではないだろうか?

 と、ここまで書いてみて、我が身を振り返ってみる。

 例えばスポーツに夢中の我が子が、中学高校になっても勉強そっちのけでクラブ活動にのめりこんでいる場合、
 私は、この自論を堅持し続けることが出来るであろうか?

 ・・・・・

 真に、
 「言うは易し、行うは難し」だ。

 ただ、
 どんなことになっても忘れてはならないのは、

 親の務めとは
 「子供に、親がいなくても生きていける力を付けてやること」
 それ以上でもなくそれ以下でもない
 ということ。

 そのことだけは、
 肝に銘じつづけていきたいものである。


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