評価を下すのは誰か
「評価とは自分ではなく他人が下すものである」
以前、どこかで目にした言葉である。
多分、なにか(例えば芸術とか)に打ち込む際の自己満足へ陥ることへの危惧が、このような文章を筆者に書かせたのであろう。
つまり、
「自分の才能・能力への評価は自分ではなく他者がする」ということであり、
「自分が満足していれば他人がどうこう言おうが関係ない」というのは詭弁であり、
他人に認められない自分を自分で慰めているに過ぎないのではないか、
ということのようである。
確かに。
他人から評価されずにひとつの道を突き進んでいくことは辛い。
「他人など関係ない」とうそぶいてみたところ、その心中は穏やかならざるところも多いことだろう。
そういうことをあわせて考えてみるにつけ、
いくら好きなことでも自分の能力を誰にも認められずに続けていくのは相当のパワーが必要だ、ということは容易に想像できる。
自分自身を振り返ってみても、まるで評価を受けていない分野にただ好きという理由だけで入れ込んだことはほどんとない。
いや、「これが好きだ」と思った分野というのは、
ひょっとすると他者からの評価が他の分野より優れていたのが原因だったりするのかもれない。
もちろん、最初はただの単純な「好き」という気持ちだったのかもしれないが、
しかし
「好き」→「頻繁に行う」→「上達」→「他者の賞賛」→「更に好きになる」
というふうに「好きだから上手くなりたい」「上手くなったから褒められたい」と徐々に欲が出てくるのが普通であり、
そういう意味では「好き」と「他者の賞賛」はタマゴとニワトリのように一概にどちらが先とは決めがたい関係とも言えそうだ。
したがって、
他者の評価がまるでない分野を好きでいつづけることは、
私にはその「好き」という感情の純粋さに、驚愕と憧れの思いすら感じられるのだ。
なぜなら、「他者の賞賛」という「好き」の気持ちを高める応援もなくその気持ちを持続させられるなんてことは、なかなかできないことだからである。
「他者から評価されない」ということ。
それをまるで気にしないひとは恐らくほとんどいないであろう。
例え「自分は自分だ」と強気を装っている人でも、だ。
大方のひとは「評価されない自分の能力」を疑ったり悲しんだりしながら、
それでも苦しみながらもその道に打ち込まざるを得ない、
そういう状況なのだと思われる。
しかし、
そんな「苦しみながらもでのめり込むのをやめることが出来ない」ということ、
それこそが「好き」という感情の最高の純粋さのあらわれなのだ、と私は思うのである。
だから、そういう孤独な道をゆくひとびとには、私は言いようのない尊敬の念を覚える。
そして、その自分の純粋なる思いを誇らしく思ってほしいとつくづく思のだ。
それは決して
「自己満足なだけ」でも
「言い訳にしかすぎない」わけでもないはずなのだから。
そして、
願わくば、「他人の評価」という呪縛に過度に囚われることがないように・・・
「評価とは他者が下すものである」
冒頭に挙げたこの言葉は確かに真実かもしれないが、絶対的な原則ではない。
それは
「他者の言うことを気にする自分」という前提があっての初めて成り立つ限定的なものなのだ。
「他者の評価」よりも「自己評価」を重んずることもひとによってはもちろん可能なわけで、全てはそのひとの気の持ちよう次第なのである。
惜しくらむべきは大方のひとにとって、
「他者の言うこと」や「評価」は大変気がかりなものであって、
そのひとつひとつに、風に翻弄される木の葉のように揺れ動くものだということだ。
そして自己の能力への信頼感はそれに比べると、
あまりにも小さく軽い。
・・・・・
結局、
この文章もまた
ひとの評価を気にしすぎる
自分自身への自戒をこめたものになってしまったなあ・・・
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