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2005/08/25

評価を下すのは誰か

 「評価とは自分ではなく他人が下すものである」

 以前、どこかで目にした言葉である。
 多分、なにか(例えば芸術とか)に打ち込む際の自己満足へ陥ることへの危惧が、このような文章を筆者に書かせたのであろう。

 つまり、
 「自分の才能・能力への評価は自分ではなく他者がする」ということであり、
 「自分が満足していれば他人がどうこう言おうが関係ない」というのは詭弁であり、
 他人に認められない自分を自分で慰めているに過ぎないのではないか、
 ということのようである。

 確かに。
 他人から評価されずにひとつの道を突き進んでいくことは辛い。
 「他人など関係ない」とうそぶいてみたところ、その心中は穏やかならざるところも多いことだろう。
 そういうことをあわせて考えてみるにつけ、
 いくら好きなことでも自分の能力を誰にも認められずに続けていくのは相当のパワーが必要だ、ということは容易に想像できる。

 自分自身を振り返ってみても、まるで評価を受けていない分野にただ好きという理由だけで入れ込んだことはほどんとない。
 いや、「これが好きだ」と思った分野というのは、
 ひょっとすると他者からの評価が他の分野より優れていたのが原因だったりするのかもれない。
 もちろん、最初はただの単純な「好き」という気持ちだったのかもしれないが、
 しかし

 「好き」→「頻繁に行う」→「上達」→「他者の賞賛」→「更に好きになる」

 というふうに「好きだから上手くなりたい」「上手くなったから褒められたい」と徐々に欲が出てくるのが普通であり、
 そういう意味では「好き」と「他者の賞賛」はタマゴとニワトリのように一概にどちらが先とは決めがたい関係とも言えそうだ。

 したがって、
 他者の評価がまるでない分野を好きでいつづけることは、
 私にはその「好き」という感情の純粋さに、驚愕と憧れの思いすら感じられるのだ。
 なぜなら、「他者の賞賛」という「好き」の気持ちを高める応援もなくその気持ちを持続させられるなんてことは、なかなかできないことだからである。

 「他者から評価されない」ということ。
 それをまるで気にしないひとは恐らくほとんどいないであろう。
 例え「自分は自分だ」と強気を装っている人でも、だ。

 大方のひとは「評価されない自分の能力」を疑ったり悲しんだりしながら、
 それでも苦しみながらもその道に打ち込まざるを得ない、
 そういう状況なのだと思われる。
 しかし、
 そんな「苦しみながらもでのめり込むのをやめることが出来ない」ということ、
 それこそが「好き」という感情の最高の純粋さのあらわれなのだ、と私は思うのである。

 だから、そういう孤独な道をゆくひとびとには、私は言いようのない尊敬の念を覚える。
 そして、その自分の純粋なる思いを誇らしく思ってほしいとつくづく思のだ。
 それは決して
 「自己満足なだけ」でも
 「言い訳にしかすぎない」わけでもないはずなのだから。


 そして、
 願わくば、「他人の評価」という呪縛に過度に囚われることがないように・・・


 「評価とは他者が下すものである」

 冒頭に挙げたこの言葉は確かに真実かもしれないが、絶対的な原則ではない。

 それは
 「他者の言うことを気にする自分」という前提があっての初めて成り立つ限定的なものなのだ。
 「他者の評価」よりも「自己評価」を重んずることもひとによってはもちろん可能なわけで、全てはそのひとの気の持ちよう次第なのである。

 惜しくらむべきは大方のひとにとって、
 「他者の言うこと」や「評価」は大変気がかりなものであって、
 そのひとつひとつに、風に翻弄される木の葉のように揺れ動くものだということだ。

 そして自己の能力への信頼感はそれに比べると、
 あまりにも小さく軽い。

 ・・・・・

 結局、

 この文章もまた

 ひとの評価を気にしすぎる

 自分自身への自戒をこめたものになってしまったなあ・・・


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2005/08/18

ゆく夏を惜しむ

 昨日、8月17日。
 お盆を恒例のとおり夫の実家で過ごした私と子供達は帰京の車中にいた。

 夫の実家は東北の山村である。
 詳しくは昨年の夏の記事、「トトロの世界に嫁ぐと」とを読んでいただければお分かりだと思うが、絵に描いたような日本の田舎だ。
 最寄の駅まで車で40分ぐらいか。
 一山越えねば辿り着かない秘境のようなところである。

 車に揺られながら山道を走っていくバスの車窓からは、きらきら煌く緑が燃えるようだ。
 まさに夏真っ盛り。
 その風景に見とれながら、私は次回この道をまた訪れる時のことをふと思った。

 次回、
 そう今度ここに来るのは年の瀬も押し迫った12月の末である。
 年末年始を過ごすためにこの地を再び訪れる私たちが目にするのは、今の燃えるような緑は跡形もなく消え去って、冬の訪れの早い年はもうすっかり雪景色にすらなっている山の姿である。
 この暑い夏があったことを思い出すこともできないくらい冷たく厳しい冬が、
 あとたった4ヶ月でやってくるのだ。

 (・・・たった4ヶ月・・・
    「たった」ということもないでしょう。
    4ヶ月もたてば季節もガラリと変わるのだもの。)

 そう自分に言い聞かせながらも、
 私はこの8月から12月、夏から冬への4ヶ月は、どの他の4ヶ月よりも劇的に変わるものではないかと考えていた。

 それは、
 さしずめその反対である、
 2月から6月の変化―冬から夏(梅雨)へ、
 よりもずっとずっと激しい移り変わりであるように思われる。

 厳しい夏の暑さの果てには、彩りと実りの秋があり、
 そして、
 それが終わるときあたかも役目を終えるかのごとく葉はみるみる地に落ちていくのだ。
 強い北風にあおられ憐れに裸にされた木々。
 私たちが次にこの地を訪れるときは
 もう色のない世界が山を覆いつくしているのであろう。


 ・・・季節の悲しさのもとは夏にあるのだ、
    と、ふと思った・・・
 ・・・秋が悲しいのは、夏のせいだ
 ・・・冬が悲しいのは、夏のせいだ
 ・・・春が悲しいのは、夏のせいだ・・・

 以前どこかで目にした、
 そんな文章の一節が思い起こされてくる。

 この言葉にいたく感動した私は友人への手紙でこの言葉を書き綴ったことがあった。
 返事は、
 「夏はさほど好きではないので・・・」という温度差のあるものであったが。

 その後数年が経ち、
 夏休みが楽しみな娘時代が過ぎ去り、
 結婚して主婦となり家をきりもりする身となると、
 その友人の「さほど好きではない」という気分に同感することが多くなってくる。

 冷蔵庫の中には腐敗を防ぐために詰め込まれたうんざりするような食品の数々、
 うっかりするとすぐに悪臭を放つ生ごみ、
 庭にはびこる雑草、
 その反対に気をゆるして手入れを怠ると
 すぐ下を向いてしまう鉢植えの花々。


 秋風が吹きはじめ、
 空にいわし雲が流れ始めると正直ほっとする。
 「あー、この夏も終わったなあ」と。

 でも、
 ほっとする反面
 そんな私の心の中にはまだ

 ゆく夏を惜しむきもち

 が残っている。

 秋の気配を感じながら
 春の訪れのときと同じように浮き立つような気分にはなれない何かが。


 やはり、
 「季節の悲しさのもと」は、夏にある

 それは
 わたしにとっては
 変わらぬ真理なのかもしれない。

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2005/08/09

「国民」って誰?

 「・・・この法案は国民の理解を得てはいない・・・」
 「・・・国民の意思を無視したとんでもない悪法だ・・・」

 ご存知、郵政民営法案反対の政治家の先生達のお言葉です。

 国民・国民・国民・・・

 これらの発言の中で指している「国民」って一体誰なのでしょう。

 郵政の民営化により地方の郵便局が切り捨てられ、
 それにより不自由を強いられる、過疎地のお年寄りたちでしょうか。
 それとも、
 大した仕事口がない過疎の村で、ようやく苦労して安定した職場に就職した郵便局員の方々とその家族たち?
 はたまた、
 長年特定郵便局長という国家公務員の地位を世襲によって受け継いでいた地方の旧家のひとびとのことなのでしょうか?

 つまり、
 赤字国債が乱発行され、
 国家の先行きに不安を感じて行財政改革は一刻の猶予もなく断行されねばならないと、
 やきもきしているひとたちだけが国民ではないということなのです。


 都会に暮らしていると
 分からないことっていっぱいあります。

 郵政の公共サービスも、
 電車を5分も待つことない環境と
 自家用車がなければ買い物ひとつできないような環境では
 必要とされる度合いもまるで違うはずだし、
 必要とされながらも
 採算の面で切り捨てられる可能性は極めて高い。
 だからこそ
 民営ではなく公共サービスの形で残してほしい、
 という主張もうなずけます。


 でも、

 でも、その公共サービスだってなんだって、
 日本という国が、
 赤字国債の借金まみれで倒れてしまえば
 何にもならないのではないのですか?
 だから、
 行政改革が必要なんだし、
 財政改革が必要なんではないのですか?


 民営化反対派は言います。
 「郵政事業を民営化しても大した行財政改革の効果は期待できない。
 それよりも今までの公共サービスの低下や切捨てが問題だ。」と。
 それに対し民営推進派はこうです。
 「例え民営化しても、サービスの切捨てにはならないし、
 この民営化は行財政改革のの中核でありその効果は多大なものがある。」と。

 互いに真っ向から相手が間違っていると彼らが言うのなら、
 私たち国民は何をもってどちらが正しいと判断すればよいのでしょうか。


 こんなとき
 つくづく思います。

 誰かが魔法の杖をひとふりして、
 今までにみたこともないような好景気を日本に永遠にもたらしてくれればいいのに・・・

 それこそ、
 いまのまんまで、
 誰も傷つかず、

 郵便局員は失業の心配もなく、
 過疎のお年寄りは今までどおりのサービスを受け続け、
 今現在郵政事業の恩恵を享受しているひとたち
 ―下世話な言い方をすればオイシイトコを欲しいままににしているひとたち―
 もそのままの状態で

 財政赤字がきえてなくなれば、
 こんないいことはないのでしょうにねえ。

 大きい政府のまま、
 いっそ国民すべてが政府に呑み込まれ、
 それでも
 その国家が立ち行かなくなるのでなければ、
 それもありなのかな・・・

 なんて
 そんなことを。

 ・・・無責任過ぎますかねえ・・・

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2005/08/05

いつ誰の頭の上で

 「何もこんなに犠牲者を出さなくってもよかったのではないかな」
 「それでも20万人ぐらいのことでしょう?」

 この会話は、
 「1945年8月の原爆投下を命じた当時の米大統領の判断の是非」
 をめぐるアメリカの高校生の討論の中のかわされたものである。

 このように、
 それまでの討論の過程を無視し衝撃的な言葉だけを抜粋するのは決して褒められることではないことを、
 まず前もっておことわりしておきたい。
 このような発言に至るまでには数々の真面目な意見が取り交わされ、
 この話し合いが決して一国の利害のみを優先するようなものではなかったということは、言うまでもないことであろう。

 しかしそれを考慮に入れたとしても、やはり割り切れない思いが残る。

 それは、
 この高校生たちはその核が自分の頭上で炸裂するかもしれないということを考えたことがあるのであろうか、
というものだ。


 一方、広島・長崎に住み、物心ついたときから非核・平和教育をされてきた日本の子供達。
 彼らは8月になると決まりきった行事のように、写真を見せられ、被爆体験をされた方々のお話を聞く。
 そのマンネリズムに言いようのない倦怠感を持つ子も決して少なくはないらしい。

 実際世界の情勢を見てみると、
 核軍縮は遅々として進まず、これに関する日本の発言力は小さく、
 「自分達に何が出来る」という諦めに満ちた雰囲気すらある。

 世界唯一の戦争による被爆国日本においても、
 まさに、「原爆は遠くなりにけり」という現状なのである。


 ある調べによると、近い将来核戦争が勃発する可能性は大きいと考えているひとたちは以前よりも増えているとのことだ。
 その反面、核のもたらす惨状への認識はどんどん風化していっている。
 いや、原爆の悲劇が薄れていっているからこそ、核戦争の可能性が大きくなっているのかもしれない。

 世界的な視点に立てば、圧倒的に加害者としてのイメージの大きい戦前戦中の日本。
 その日本が、被爆国として述べる言葉を素直に聞こうとするひとびとは決して多くは無いのかもしれない。

 だが、被爆者の方々が語りたいのは、「こんなひどいことをされた」という
 「過去の出来事」ではないはずである。
 彼らが全世界の人々に本当に伝えたいことは、
 「原爆はこんなにも残酷な兵器であって、
 そして核兵器は今も存在しており、
 それはいつ誰の頭の上で炸裂してもおかしくない」という
 「未来への心配」なのではないだろうか。


 明日8月6日は
 60年目の広島原爆投下の日。

 いったいいつになったら私たちは、
 その言葉に
 心から耳を傾けることが出来るのか、

 「やった、やられた」を抜きにして、

 もう関係のない昔の話ではなく、
 未来に向かって今も続く自分たちの話として・・・
 
 <追記>
 この記事はKiKiさんの「クローズアップ現代を観て」('05/8/6)にトラックバックさせていただきました。
 (’05/8/26 改訂)

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2005/08/02

絵の具にはない色の話

 ある夏の正午まえだった。

 暑い暑い日、
 ぎらぎら輝く太陽に思わずくらくらときそうなそんな昼前、
 私は電車に乗り込みその車内の冷気にほっと一息をついていた。

 ふと、一枚の中吊り広告が目に入る。

 淡い少し灰色がかったブルー、
 それが周囲にむかって白く白くぼやかされていく。
 その中央に霜がおりたような白い文字。

 (ああ、冷たくて気持ちいいなあ。)

 その広告を見ただけなのに、私の周囲は1℃ほど気温が下がったかのような気がした。


 「うすずみいろ」
 そんな言葉が頭の中にぽつりと浮かぶ。

 でも、
 なぜ「うすずみいろ」なのだろうか。
 本来「うすずみいろ」とは「薄墨色」であり、その字の表すように灰色やねずみ色のことを意味する言葉だ。その中には一片の青みすらないはずである。


 >・・・そのとき彼は、どこまでも広がるうすずみいろの空を見た・・・

 なにかの本で読んだこんな一節が私と「うすずみいろ」との出会いであった。

 そのとき私が想像したのは、
 不機嫌なねずみ色の空ではなく寒々しく薄く澄んだ空だった。
 以来私にはこの「うすずみいろ」はこの広告の背景のような
 「少し灰色がかったくすんだ淡い淡い青」
 私にとって
 「体感温度を最も下げる凍れる色」
 となった。

 そして
 それは世間一般では間違いであるのが十分に分かる今になっても
 それが変わることはないのである。


 「うすずみいろ」だけではない。

 薔薇色の頬から連想する「ばらいろ」、
 鳶色の瞳の少年から連想する「とびいろ」、
 亜麻色の髪の乙女から連想する「あまいろ」、などなど、
 これらは全て、
 私の頭の中で思い浮かんだ色と辞書で説明されている色とでは、
 少しずつではあるが食い違っている。

 「ばらいろ」は「淡い紅色」ではなく、
 夕方の青空に浮かび上がる白い雲にほんのりと差した、紅というよりもっと複雑に黄金色も混ざったような色であり、
 「とびいろ」は「茶褐色」ではなく、
 もっと深みのある濃い褐色のはずで、その濃さゆえに緑がかってさえいる色だった。
 「あまいろ」だって「灰がかった明るい茶色」ではなく、
 蜂蜜のように粘りのある細く光輝く鮮やかな黄色だったのだ。


 まったく、
 文章から得られる色彩の感覚というものは、不思議なものである。
 それらはこんなにも豊かで独創的で、そして繊細なものなのだ。

 多分読む人の数だけ
 その「ばらいろ」や「とびいろ」は存在するのではないだろうか?

 ・・・・・

 ああ、

 なんだか無性に本が読みたくなってきた・・・

<'06.3.19追記.>
この記事をゴトウさんの「色の話をもう少し。」にトラックバックさせていただきました。
外国にはもっともっと多彩な色表現があるようです・・・

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