いつ誰の頭の上で
「何もこんなに犠牲者を出さなくってもよかったのではないかな」
「それでも20万人ぐらいのことでしょう?」
この会話は、
「1945年8月の原爆投下を命じた当時の米大統領の判断の是非」
をめぐるアメリカの高校生の討論の中のかわされたものである。
このように、
それまでの討論の過程を無視し衝撃的な言葉だけを抜粋するのは決して褒められることではないことを、
まず前もっておことわりしておきたい。
このような発言に至るまでには数々の真面目な意見が取り交わされ、
この話し合いが決して一国の利害のみを優先するようなものではなかったということは、言うまでもないことであろう。
しかしそれを考慮に入れたとしても、やはり割り切れない思いが残る。
それは、
この高校生たちはその核が自分の頭上で炸裂するかもしれないということを考えたことがあるのであろうか、
というものだ。
一方、広島・長崎に住み、物心ついたときから非核・平和教育をされてきた日本の子供達。
彼らは8月になると決まりきった行事のように、写真を見せられ、被爆体験をされた方々のお話を聞く。
そのマンネリズムに言いようのない倦怠感を持つ子も決して少なくはないらしい。
実際世界の情勢を見てみると、
核軍縮は遅々として進まず、これに関する日本の発言力は小さく、
「自分達に何が出来る」という諦めに満ちた雰囲気すらある。
世界唯一の戦争による被爆国日本においても、
まさに、「原爆は遠くなりにけり」という現状なのである。
ある調べによると、近い将来核戦争が勃発する可能性は大きいと考えているひとたちは以前よりも増えているとのことだ。
その反面、核のもたらす惨状への認識はどんどん風化していっている。
いや、原爆の悲劇が薄れていっているからこそ、核戦争の可能性が大きくなっているのかもしれない。
世界的な視点に立てば、圧倒的に加害者としてのイメージの大きい戦前戦中の日本。
その日本が、被爆国として述べる言葉を素直に聞こうとするひとびとは決して多くは無いのかもしれない。
だが、被爆者の方々が語りたいのは、「こんなひどいことをされた」という
「過去の出来事」ではないはずである。
彼らが全世界の人々に本当に伝えたいことは、
「原爆はこんなにも残酷な兵器であって、
そして核兵器は今も存在しており、
それはいつ誰の頭の上で炸裂してもおかしくない」という
「未来への心配」なのではないだろうか。
明日8月6日は
60年目の広島原爆投下の日。
いったいいつになったら私たちは、
その言葉に
心から耳を傾けることが出来るのか、
「やった、やられた」を抜きにして、
もう関係のない昔の話ではなく、
未来に向かって今も続く自分たちの話として・・・
<追記>
この記事はKiKiさんの「クローズアップ現代を観て」('05/8/6)にトラックバックさせていただきました。
(’05/8/26 改訂)
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コメント
こちらこそ、コメントとTBをありがとうございました。
本当に同じ番組を同じ感想をもってしかもblogにそのこと書くなんて奇遇ですよね。
KiKiさんの文章を拝読して、なんだか考え方に共通するものが多いのでは?なんて気がしてうれしくなってしまった次第です。
こちらこそどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿: ぞふぃ | 2005/08/27 15:25
ぞふぃさん、はじめまして。 昨日は私のコラムにコメント&TBをいただきありがとうございました。 こちらの「言葉・ことば・コトバ・・・・」は以前から時々・・・ではあるのですが拝見させていただいていたのですが、KiKi があのコラムを投稿した時点では同じような(しかもあの番組をみて感じたこともほとんど同じですねぇ!)コラムがこちらに既に投稿されていたとは知りませんでした。
いずれにしろかの戦争の悲劇を本当の意味では知らない私達戦後世代は(そうであるからこそ)、そろそろ「やった」「やられた」の感情論から一歩前進して、平和のためのディスカッションが、ぞふぃさんが仰るように「未来に向かって今も続く自分たちの話として」できるようにならなくてはいけないのではないか・・・・そんな風に思います。 今を、そして未来を作るのは他の誰でもない、私達なのだから・・・。
最後になりましたが、BlogPeople の登録もしていただきありがとうございました。 今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: KiKi | 2005/08/27 08:38