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2005/10/27

冷静におなりなさい

 開演を前に、その見知らぬ彼女は一生懸命に頭を下げていた。

 多分愛する我が子の大事な晴れ舞台なのであろう。
 それは、彼女が招待した大切な来賓に対しての精一杯の礼を尽くす姿、であったのだ。
 
 でもその姿を遠目に見ながら私が思ったこと。
 「こんなにも母子一生懸命にならねば、
 この世界はやっていけないものなのか。
 そうだとしたら私にはとても出来そうにないし、
 やりたくもないなあ・・・」
 それはそんな冷笑に満ちた不遜なことだったのだ。

 それから1年あまりがたち、今度は私の子供が舞台に立つことになった。
 その機会が与えられることを知ったとき、
 子供は喜び張り切ったし私もその僅かな栄誉(?)に少し酔いしれた。
 出来る限りのサポートをしようと心がけ、
 母子共にこの舞台に夢中になったと言っても過言ではないのかもしれない。

 そう、私も1年前のその彼女と寸分も変わらぬ親ばかであり、
 子の夢を自分の夢と錯覚する哀れなる母親、
 ―自分が最もなりたくないと思う典型的母親―
 だったのだ。

 舞台はつつがなく終わり、
 その余韻が残る中お世話になった指導の先生方に、
 ロビーで私は頭を下げていた。
 その下げる頭の中に、
 あのときの彼女の姿がフラッシュバックする。

 彼女もこんな気持ちだったのか?
 顔に上った血潮による熱気、高ぶる気持ち、
 「僅かでもいい、これからもこの子に目をかけてやってください」
 という姑息な計算、などなど。

 これから先、
 こんな機会がまた巡ってくることがあったとして、
 多分そのときの私の頭には
 またあの彼女の懸命に頭を下げる姿が浮かんでくることだろう。


 その姿が私に

 「冷静におなりなさい」

 と、冷たく言い放ってくれることを
 今は切に願うのみだ。

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2005/10/20

「ダーリン」とは言えないし・・・

 先週末のこと、学生時代の友人宅に子供2人共々お邪魔をしました。

 約1年半ぶりに友人4人とその子供たちが顔を合わせたわけです。
 子供は我が家の小3を頭に年少さんのお嬢ちゃんまで総勢7人。
 「もう親とは一緒に出歩かなくなった」という小学5年生のお嬢さんが来ていれば8人になるところでした。
 それぞれ2人ずつの子供を持つ我々4人は20年来の付き合いになります。
 まさに皆、子育てまっ盛り、
 話題も当然のことながら、家庭の話が中心。
 他愛のない会話、でも気の置けない友とであれば時間を忘れるほど楽しいものです。

 しかし、
 そんな中時折、私はいつものように小さな魚の骨が喉に刺ささるような違和感を感じていました。
 いったい何故?
 それは夫、つまり自分の配偶者のことが話題に上るとき、
 そのひとをなんと言っていいかに私には未だに迷いがあるからなのです。
 彼のことを友だちに語る際、その迷いは私に常につきまとっています。
 結婚12年目の今となってもそれは変わりません。

 例えば「だんな」。
 この呼び方が多分私たちの世代の既婚婦人の配偶者を指すときの一般的な言葉だと思うのですがいかがでしょう。
 (でも、「だんな」ってのはどうだろうなあ、
  なんだか芸者さんが自分のパトロンのことを言っているみたいで
  ちょっとなあ・・・)

 それから「主人」。
 この呼び方はかなりオーソドックスで、もう少し年齢層に幅ができるようですね。
 ただ、いかにも夫に隷属してる妻といったイメージがあるため、敢えて使わない人が年齢が下がるに連れて増えている気がします(私もそのひとりですが・・・)。
 (さっきの「だんな」もそうだけれど、
  いずれにせよ、夫の方を妻より上に置いているような
  言い方の典型だしな。
  「主人」だなんて言うと「私は自立していない女です」
  って看板掲げるようで、とても言えないよ!)

 うーん、「夫」。
 多分この言い方が一番すっきりしていて意味的にも的を得ているのだと思います。
 でもこれを使うとどういうわけか私には気恥ずかしさが湧いてくるのです。
 ちなみにblogなどの文章で「夫」と書くのも、もう大分慣れたがそれでも最初はやはり気恥ずかしく思ったものでした。何故なのでしょうか。
 多分それはあまりにズバリとそのものを言い表しすぎている点にあるのではないかと思うのです。
 例えば「恋人」を指すときほとんどの人が暗にそれを示す「彼」「彼女」という言葉を使っている点にも同じことが言えるのでしょう。
 「夫」や「妻」という特別な関係を、特に話し言葉で、露に表現するのはどういうわけだか「照れ」が生じてしまうものなのです。
 (すみません、でもそれって私だけかもしれませんけれど・・・)

 その他、「パートナー」とか「ダーリン」、「ハズ」みたいな外来語系はもっと恥ずかしいし・・・
 4人の友人のうちのひとりのようにご夫君の名前を呼び捨てで呼ぶのもいいとは思うのですが、私は夫を面と向かって呼び捨てで呼んだことがないためどうも抵抗があります。

 というわけで今回も私は他の友人に倣い、
 不本意ながら「だんな」と言って夫の話をすることになってしまいました。

 あーあ、
 次回に皆に会うときまでには
 絶対もっとぴったりくる「夫」を指し示す言葉を探し出しておこう・・・
 さりげなくて、それでいてちゃんと意味の通じて、おまけに気障に響かない言葉を!


 えっ?
 何故、その友人たちとの会話にこだわるのかですって?

 実は会社とか子供がらみの知り合いとの会話では、
 我が夫は「主人」と言われたり「おとうさん」と呼ばれたり様々です。
 それはそれでいいんだと思うんですよね。
 あくまで、子供を通じてお付き合いだから「おとうさん」でもいいし、
 会社の年配の上司には「主人」って言うのが納まりがいいみたいだし。
 でも、
 友人は別。
 友人の前では私は「私」以外の何者でもないのですから。
 夫を指し示す言葉にも、私のポリシーのようなものを織り込んでおきたい、
 そんな風に思うのです。

 ・・・・

 結局友人に見栄を張りたいだけ、のようですね。

 まあ、いいでしょう。

 きっと
 彼女達なら
 それを知っても
 笑って許してくれると思いますから。

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2005/10/13

気圧配置図に学ぶ

 今週に入って、ぐっと秋めいてきた気がする。

 今日のように日差しがたっぷりのよく晴れた日であっても、
 もう暑いと感じることはさすがになくなった。
 からりと晴れたすがすがしい日和、
 「秋日和ってこんな感じなのかなあ」と深呼吸をしたくなるようだ。
 ちょっと前まではあんなに「暑い」とか、「ムシムシする」とぼやいていたくせに。

 確かに季節の変わり目というのは日によって、いやひょっとしたら時間によっても目まぐるしいくらい陽気がかわったりする。
 以前、朝は湿気をふくんで重苦しいような空気だったのがどういうわけだか午後にはからりと乾いた日があったときは、驚いたものだった。

 (へぇー、すごい、太陽ってすごい!
  どうやってこの短時間にあの空気の湿り気を乾かしちゃったの?
  まるで洗濯物でも乾かすみたいに・・・!)

 そんなふうに私は思ったのだが、それは勘違い。

 「その場に在った空気が太陽熱によって乾かされた」というよりは、
 むしろ
 「他所に存在した乾いた空気の勢力が増してここまで広がってきた」というのが、
 正しい表現のようである。
 もちろん全ては太陽のなせる業であるから、その有難みはいささかも損なわれることなどないのだが。

 そう考えてみると、
 こうした急激な変化というものは往々にして、
 そこにあったモノそのものが変わったのではなく、
 その周りを包む空気が移り変わっていただけなのかもしれない。

 大波が押し寄せてきて、
 そして引いていくような、
 それは「変化」ではなくあくまで「移動」だ。

 うーむ、
 そう簡単には何事も変わらないってことなのかな?


 でも、
 でももしも、
 あなたが何かあるいは誰かを直ちに変えたいと思っているのなら、

 それはそのモノやヒトそのものに直接アプローチするよりは、
 その周りの空気を換える方が案外効率的かも。

 ・・・どうですか?

 テレビの
 天気予報の気圧配置図、

 それを見ながら

 そんなことをつらつら考えた私、でした。

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2005/10/06

なぜ中国名は原音表記しないのか?

 昨日の夕刊のコラムで興味深い文章を読んだ。
 書かれたのはで比較文学者の張競氏。
 テーマは中国語の固有名詞の読み方についてというものである。

 日本においてハングル(朝鮮語)の人名・地名が漢字の日本語読みではなく原音表記になったのは、記憶に新しいことだ。
 多分30年前ぐらいまでは日本では韓国の人の名前や地名をその漢字を日本語読みすることで音に表していたように記憶している。例えば全斗煥大統領を「チョンドファン」ではなく「ぜんとかん」大統領と呼んでいたように。
 それが「ハングルでの読みである原音の表記にするように」との要望が韓国側から出されたのをきっかけに、いまではすっかりハングルは日本ではカタカナによる原音表記が定着した。
 一方、中国語に関しては相変わらず漢字の日本語読みが続いている。
 これは一体どういうことなのであろうか。
 ハングルを原音表記にしたのだから中国語も同じように合わせなくてもいいのか?
 実はこんな疑問を常々私は持っていた。

 結局、「ちゃんと正しく読んでよ!」というクレームが出れば対応するが、そうでなければこちらから変えるなんてことはしないのだろうな、
 それに戦前の創氏改名や日本語教育の強制などがあった朝鮮半島と違い中国はそれほどこの問題に神経質ではないのかもしれない・・・

 それがこの件についての私の勝手且ついい加減な見解であったのだが、
 今回の張競氏のコラムはこの疑問に見事に答えてくれたのである。

 氏のご意見によると中国名を原音表記しない(すべきではない)理由は次の3点らしい。

 1.中国の文字である漢字が表意文字
   (読み方よりも意味に重きを置いた文字であること)である点。
 2.中国名を原音表記するには日本語の音は少なすぎて表現しきれない点
 3.方言の多い中国には標準的な原音そのものが存在しない点

 まず1の理由についてだが、読み方が時代によって変遷すらしてきた漢字は、音にこだわるよりもその文字の表す意味の永続性にこそこだわりをもつものらしい。
 つまり一時の読み方にこだわるあまり、日本が中国名の表記にカタカナを使用し漢字を捨てるようなことは、中国側も決して望まないということのようだ。
 その辺りは、漢字が結局外来文字にしか過ぎない朝鮮半島とは事情が違うのであろう。
 原音主義と漢字表記との両立は、悲しいかな、かなり困難なのものだ。
 例えば映画監督のチャンイーモウ氏の名前を漢字で書けと言われて、サラリと「張藝謀」と書ける日本人は一体何人いることだろう。有名な「毛沢東」とて「マオツォートン」ではなく「もうたくとう」という読み方があってこそ漢字で彼の名を書けるひとが日本でも大勢いるのである。 

 次に第2の理由だが、
 「蒋」も「張」も「占」もカタカナによる原音表記によると全て「チャン」になってしまうという点からも納得である。
 中国語を習う際日本人がまず苦労するのは発音だと言われる。
 日本語にある音で表すには中国語の音はカバーしきれない部分が多すぎるのかもしれない。

 最後に第3の理由で方言の問題。
 もちろん標準語とされる北京語のようなものが中国にも存在するが、そこは広い中国のことである。
 書き言葉である文字はともかく、音までも標準化させるのはなかなか困難なことであろう。
 しかも地名に関しては標準語よりもその土地の読みの音こそ優先されるべきなどと考えると、これはもう混沌とした状態になってしまう。
 中国語における原音というものはかくも多様で複雑であるため原音による表記よりも、
 漢字表記にしてそれを日本語読みするほうが、理にかなっているというわけだ。

 加えて張氏は、中国では日本名の漢字は中国読みされており、原音表記はされていないことも述べられ、
 原音表記が決してワールドスタンダードというわけではないことに触れられている。
 一方韓国が原音表記を求めるのは、
 「韓国内では日本名をハングル読みではなく原音に忠実に読んでいるのだから、日本においてもそうしてくれ」
 ということらしいのだ。

 というわけで張氏の言われるとおり、
 今までもこれから先も、
 古くからの漢字文化圏という音ではなく文字で結ばれたこの二つの国(日本と中国)が 
 原音主義に傾く理由はないように思われる。
 
 しかし、
 しかしである。
 昨今は先ほど挙げたチャンイーモウ監督のように中国人名の原音表記化が
 ひたひたと広まりつつあるようなのだ。

 それはなぜなのか?

 ・・・・

 もうお気付きであろう。

 その原音表記の中国人名は、
 アメリカをはじめとする欧米を通して入ってくる人名だからなのである。

 欧米人は決してチャンイーモウをそれ以外の音で読むことはない。
 漢字を読まぬ彼らは中国人たちが発する音からのみその名前を表記しようとする。
 そしてそのアルファベットに置き換えられた読み方が日本へと入ってくるのだ。

 この変化が、
 歓迎すべきことなのか憂うべきことなのか、
 それともそのどちらでもないことなのか・・・

 うーん、それは
 私にはわからないのだが、

 ただ
 「東アジアの漢字文化圏というものが、
 少しずつではあるのだが
 希薄になっていっている現象が
 ここにも現れているのか」
 という

 なにやら
 うら寂しい気分を
 
 私はとめられないのである。 

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