「対岸の彼女」への想い
ここ最近続けて
すっかりご無沙汰していた友人2人から久々の連絡があった。
ひとつは子育て中に知り合った専業主婦の友人からで
そしてもうひとつはキャリア20年以上の専門職で独身の友人から。
共に「どうしてます、元気ですか?」という他愛の無いものである。
ふたりとも、現在働きながら子育て中という中途半端な立場の私とは状況の違う友人たちだ。
そのせいもあるのだろう。
なんとなく忙しさにかまけて疎遠になっていたのだったが、
実は心の片隅で音信途絶えだちな彼女達のことを少々恨みがましく思っていないわけではなかった(それはお互い様かもしれないけど)。
そのところへきたのがこれらの便りである。
それは、
「成人した女の友情なんてはかないもの・・・」
などとフテクサレ気味だった私の心を
あっという間に浮き立たせるような
うれしい出来事だった・・・
「女同士には友情は存在しない」
「女の友情は期間限定の一過性のものだ」
世間では昔からそんなことが言われたりするようである。
もちろんそんなことはないのだが、
それを言うのは男性の側ではなく、
むしろ女性自身が
「自分達の友情のはかなさや脆さを嘆いて」
という背景が多いような気がするのだが、どうであろうか。
今年初め直木賞を受賞した「対岸の彼女」
(角田光代著 マイリストのBOOKSを参照のこと)
―これは、独身起業家と子持ちパートの女性の間の
「理解し合えないながらの心の交流」を描いたものらしいのだが、
この作品が今も尚人気の話題作として取り上げられることが多いのは
この「女の友情」が常に私たちの心の片隅に存在し続けていた問題のひとつであったことを如実に物語るものなのだろう。
通常、成人して30代、40代と年を重ねてきた女性たちは
それぞれ結婚して母親になっていたり、
独身で仕事上部下を持つ身になっていたりと互いに変わっていき、
そんな立場の変化と共に、
互いの接点が薄れ疎遠になっていく。
基本的に家庭を出て社会となんらかの関わりを直接持つのが
当たり前とされていた男性と違い
女性の生き方は既に多種多様化がかなり進んでいるのだ。
状況の違う女同士の友情はやがて消え行くものというのが相場とされていた。
が、そんな中、
敢えて「対岸(=立場の違うところ)のひと」からの便りやアプローチを
むしろ同じ岸辺の仲間からものより待ち望む気持ちが大きいのは
一体何故なのであろうか?
自分の現状への不満?
別の世界への憧れ?
いやいや、
それらももちろんあるのだろうが
それよりなにより
その向こう岸からの
躊躇しながらも差し伸べられたその熱意に感動すると同時に
その熱意を「対岸の彼女」に持たせた
自分の内面への驚きと自信を
ひとは無意識の中にも求めているからではなかろうか?
「どのような状況にあっても
同じ魂をもったひとはその特質を互いに見抜き合い、
近づき合うものなのだ」
という論理によって。
しかし
そうなると結局こういうことも言えることになる。
「友情を求める心も、つまるところ自己肯定の一環なのか?」
・・・・
そう思うと身も蓋もないところだが、
でもこれはある意味真実なのだと私は思う。
「尊敬すべき『対岸の彼女』にふさわしい自分になりたい
いや自分はふさわしい人間であるはずだ」
そう思うことは
鼻持ちならぬ自己愛に凝り固まった人間である証拠なのだろうか。
多分もう少し成長すれば
私における「友情」の意味も変わってくるのかもしれないが、
すみません、
今はまだ
こんな程度の、未熟ものの私、なのです。
ごめんなさい。