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2005/11/24

「対岸の彼女」への想い

 ここ最近続けて
 すっかりご無沙汰していた友人2人から久々の連絡があった。

 ひとつは子育て中に知り合った専業主婦の友人からで
 そしてもうひとつはキャリア20年以上の専門職で独身の友人から。
 共に「どうしてます、元気ですか?」という他愛の無いものである。

 ふたりとも、現在働きながら子育て中という中途半端な立場の私とは状況の違う友人たちだ。
 そのせいもあるのだろう。
 なんとなく忙しさにかまけて疎遠になっていたのだったが、
 実は心の片隅で音信途絶えだちな彼女達のことを少々恨みがましく思っていないわけではなかった(それはお互い様かもしれないけど)。
 そのところへきたのがこれらの便りである。

 それは、
 「成人した女の友情なんてはかないもの・・・」
 などとフテクサレ気味だった私の心を
 あっという間に浮き立たせるような
 うれしい出来事だった・・・


 「女同士には友情は存在しない」
 「女の友情は期間限定の一過性のものだ」

 世間では昔からそんなことが言われたりするようである。

 もちろんそんなことはないのだが、
 それを言うのは男性の側ではなく、
 むしろ女性自身が
 「自分達の友情のはかなさや脆さを嘆いて」
 という背景が多いような気がするのだが、どうであろうか。

 今年初め直木賞を受賞した「対岸の彼女」
 (角田光代著 マイリストのBOOKSを参照のこと)
 ―これは、独身起業家と子持ちパートの女性の間の
 「理解し合えないながらの心の交流」を描いたものらしいのだが、
 この作品が今も尚人気の話題作として取り上げられることが多いのは
 この「女の友情」が常に私たちの心の片隅に存在し続けていた問題のひとつであったことを如実に物語るものなのだろう。

 通常、成人して30代、40代と年を重ねてきた女性たちは
 それぞれ結婚して母親になっていたり、
 独身で仕事上部下を持つ身になっていたりと互いに変わっていき、
 そんな立場の変化と共に、
 互いの接点が薄れ疎遠になっていく。
 基本的に家庭を出て社会となんらかの関わりを直接持つのが
 当たり前とされていた男性と違い
 女性の生き方は既に多種多様化がかなり進んでいるのだ。
 状況の違う女同士の友情はやがて消え行くものというのが相場とされていた。

 が、そんな中、
 敢えて「対岸(=立場の違うところ)のひと」からの便りやアプローチを
 むしろ同じ岸辺の仲間からものより待ち望む気持ちが大きいのは
 一体何故なのであろうか?

 自分の現状への不満?
 別の世界への憧れ?

 いやいや、
 それらももちろんあるのだろうが
 それよりなにより
 その向こう岸からの
 躊躇しながらも差し伸べられたその熱意に感動すると同時に
 その熱意を「対岸の彼女」に持たせた
 自分の内面への驚きと自信を
 ひとは無意識の中にも求めているからではなかろうか?
 「どのような状況にあっても
 同じ魂をもったひとはその特質を互いに見抜き合い、
 近づき合うものなのだ」
 という論理によって。


 しかし

 そうなると結局こういうことも言えることになる。

 「友情を求める心も、つまるところ自己肯定の一環なのか?」

 ・・・・

 そう思うと身も蓋もないところだが、
 でもこれはある意味真実なのだと私は思う。

 「尊敬すべき『対岸の彼女』にふさわしい自分になりたい
 いや自分はふさわしい人間であるはずだ」

 そう思うことは
 鼻持ちならぬ自己愛に凝り固まった人間である証拠なのだろうか。


 多分もう少し成長すれば
 私における「友情」の意味も変わってくるのかもしれないが、

 すみません、

 今はまだ
 こんな程度の、未熟ものの私、なのです。

 ごめんなさい。

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2005/11/17

最も身近にある「毒」

 「砂糖ってのはさ、人類にとって最も身近にある『毒』なんだよね」
 と、あるとき知人がそういった。

 「砂糖」と「毒」。

 なんかわかるような気がする。
 そりゃ、甘いものを食べてそれゆえに死んだ人はいないけれど、
 それの摂り過ぎで健康を害している人は、数え切れないほどいる。
 多分このひともそれが言いたかったのだろう。

 甘みに飢えていた時代には
 砂糖は本当に貴重なものだったのだ。
 しかし今やいとも簡単に甘みを得られる時代になり、
 必要以上に摂取するのが当たり前のようになったため
 今日の魔女狩りならぬ砂糖狩りは始まった。

 「糖分を控えています」
 「甘さおさえめ」
 「カロリーオフ」

 同じような商品が並ぶ中、私もついついそのようなラベルがついているほうを選びがちだ。
 甘さは何せ美容と健康の言わば「敵」。
 歯にも悪いと子供には甘いものを一切食べさせないという若いお母さんも最近は多いらしい。


 でも、
 そんななか今朝のラジオから流れてきたのはこんなニュース。

 >イライラしていますか?スイーツをどうぞ!
 米研究:ストレス解消にはやっぱり甘み
 (J-WAVE Good Morning TOKYO Click on NEWS より)


 耳を澄まして聴いてみると、
 アメリカのさる研究機関がラットを使ってこんな実験をしたとの内容だった。

 何匹かのラットに同じ量のエサと住環境を整えてやり、
 ① ただの水だけを与えられたもの、
 ② 人口甘味料を加えた水を与えられたもの、
 ③ そして、砂糖水を与えられたもの
 の3種類のストレスへの対応を調べたらしい。

 その結果、砂糖水を与えられたラットが一番分泌するストレスホルモンの量が少なかった―即ちストレスを緩和させていた―ということが判明したとのこと。(ちなみに人口甘味料は水よりややマシと言う程度だったそうだ。)

 つまり、
 「イライラしたからチョコでも舐めて気分を落ち着かせた」
 というのが科学的にも根拠があるものらしいという報告なのだ。

 へぇー、でも砂糖を摂り過ぎているから最近の子供はキレやすいんじゃなかったけ?
 うーん・・・わからないなあ

 まあ、この実験報告がどの程度の意味を持つものかは素人の私には全くの不明である。
 お砂糖大好きで同時に肥満が日本以上に深刻なアメリカからのレポート。
 それよりは、
 1日に40gを越える砂糖を摂取した幼稚園児がお友達と上手く遊べないという調査結果(とあるサイトで見かけた)のほうが、拝聴する価値があるような気がしないでもない。
 

 だが、
 ただひとつわかっていることは、
 単純に甘いものを食べたとき感じる
 「言い知れぬ幸福感」とでも言うのだろうか、

 ―あの、ふわあぁとした優しさに包まれた感覚
  喉の奥にその甘みがすべりこみ
  こめかみのあたりを伝わって、

  あぁそうそう、あまくってしあわせー!

  という信号が脳に送られていくあの幸せな感覚―だけなのだ。

 あの感覚を「全くの悪しきもの」とされて、
 これから先常に罪悪感と共に甘みと付き合っていかねばならないのだとしたら、、
 それはちょっと辛いかな。

 ひょっとしたら
 この感覚も「毒」である「砂糖」の一面なのかもしれないのだが、
 でも
 一粒のチョコに幸福感を感じられるぐらいの量ならば、
 許してもらえないかな、

 と今日もその「毒」を喰らってしまう私なのでした。

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2005/11/10

上には上がいる

 漫画家西原理恵子さんの「毎日かあさん」(注)というのを
 ふと覗いてみた・・・
 

 覗いてみて思ったこと。
 これはまるでうちのようだ!

 
 まったく、
 どうして子供というのは
 このようにぎりぎりで大事なことを言うモノなのだろう!
 そして
 どうして親というのは
 その無理な子供の要求にガミガミ怒鳴りながらも
 叶えようとの必死の努力を繰り返すモノなのだろう!

 「おかあさん、明日の図工で板がいるんだよね」
 「毛糸が必要なんだ」
 「わたが必要」
 「きれいな色の布が必要」
 「虫カゴもって来なさいって」
 「ノート終わっちゃった」

 これらの報告は決まったように
 午後9時にもうすぐなろうかという頃、
 つまり何もなければ「もう寝ようか」という頃絶妙のタイミングで言い渡される。

 がーっっっ!!!

 多分冷静なお母さんならば一言
 「もうだめだよ、あきらめな。」
 とピシっと言ってそれで終わるのだろう。
 それが、教育上好ましいことは私も十分に知っている。

 でもダメなんだよねえ・・・
 私は諦めが悪くジタバタジタバタと、
 ガミガミ怒りながら悪あがきをしてしまう。

 ・・・ふぅぅ(ため息)

 ちなみに
 これらの現象は、何故か上の娘(小3)のみが対象となって現れるものなのだ。
 下の息子(小2)に関しては、そういうことはほとんど起こらない。

 何故か。

 息子の場合、
 その報告自体が行われることがほとんどないからだ。
 というわけで
 彼が図工の道具や材料を持っていったことはほとんどない。
 が、それにもかかわらず作品は持って帰って来るという
 不可思議な現象が起こるのだ。

 どうやら彼は他の皆様より材料を頂いているらしい!

 ・・・・

 なんだか、
 娘に怒っていたエネルギーが
 一瞬の内に萎えてしまうようなこの事実に
 私がしばし呆然となったことは、ご想像の通りである。


 そしてそれ以来
 息子の連絡帳のチェックが私の日課となったのは
 言うまでも無いこと、だ。


 「上には上がいる」

 いや「下には下がいる」というべき、か?


 注:「毎日かあさん」は毎週月曜毎日新聞にて掲載中
 ここで覗いたのは
 「学校で必要な『手品』を当日の朝親子で調達」
 というネタでした・・・(05/11/22追記)

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2005/11/03

忘れていた何か

 「何の束縛もない人生もいいものかもしれませんが、
 何かひとつのものに従うがゆえに生まれる自由という
 ものもあるのかもしれません。
 そういう自由に満ちた一生を送るのもひとつの道ですよ」

 これは私が20代半ばにあるひとから聴いた言葉である。
 (そのひとは牧師で、その数ヵ月後私に洗礼を授けたひとだった。)

 彼が言いたかった「従うがゆえに生まれる自由」というのは、
 神―即ち絶対的な良心―に従うことで
 世間一般の悪習や風評から解き放たれるという「自由」のことであったのだろう。

 (ひとは何の束縛もなく生きているつもりでも、
 実際は世間を気にし、人目を気にして生きているものだから。
 ではせめて、
 自分を縛るものは、
 そのような根拠のないものではなく、
 確かなもの―少なくとも自分が確かと信じたものであるべきだ。)

 当時まだ若い私はそう考え、
 その「自由に満ちた一生」を送るべくこの道に入った。

 そして十数年、
 「道はどこまで進んだのか」と問われれば、
 「未だ入り口です」としか答えられない。
 「入り口を抜け出る日が来るのか」と問われれば、
 無言でうつむくのみだ。

 でも、
 先ごろ「自由を生むエネルギー」という記事を拝読した折りに、
 この恩師の言葉を思い出したのである。

 おそらくその記事のご主旨は大分違うものであると思う。
 しかしそう思いながらも
 「本当の自由というのは勝手気ままなところに生まれない」
 という考えに、
 なにやら通じるものを感じたというのだろうか。

 いや、この記事だけではない。
 数々の場で実にさまざまなひとびとが
 日々の雑事に忘れがちな大切なことを
 思い起こさせてくださる。

 感謝。

 願わくば拙文も、
 どなたかの「忘れていた何か」を思い起こすきっかけになってくれれば!

 そう思ったら

 「文章を書く上で
 それ以上うれしいことなど他にはないのだ」

 ということに、
 今更ながら気がついた次第、である。

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