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2006/03/28

隙間を埋める

 (・・・あ、そういうこと言ったわけではなかったんだけど、な・・・)

 日々様々な交流の中で、
 こんな思いをすること、ありませんか?

  ちょっとした言葉の交わし合いの中、
 特に文章のみの交流には、
 そのニュアンスが微妙に伝わりきっていなかったりして。
 (そうじゃあないんだ、
 自分が言いたかったことは、そういうのとはちょっと違うんだ・・・)
 とまあ、
 こんな歯がゆい思いをすること、誰でも1度や2度はあることと思います。


 自分の言いたいことと、
 相手の解釈したこと。

 そのふたつの間に
 ちょっとした隙間が生じてしまう。
 とても小さな小さな隙間です。
 どんなに慎重に言葉を選んで吟味したものであったとしても、
 それはある程度仕方の無いことなのかもしれません。

 そして
 相手が自分にとって大切なひとであればあるほど、
 その小さな隙間を埋めようと
 やっきになっている自分がいたりする。
 きっと自分を十二分に理解して欲しいという願望ゆえなのでしょうね。

 でも、
 そういう隙間を埋めながらも
 だんだん湧き上がってくるものあります。

 相手の解釈したことは、
 実は無意識ながら自分が考えていたことだったのかも・・・

 とか、

 実は相手はちゃんと自分の言いたいことを理解していて
 その相手の言うことを「この自分」が理解しきれていないがゆえ、
 誤解されているかのような錯覚をしただけなのかも・・・

 という疑念です。

 そしてそれは
 考えれば考えるほどどんどん深みにはまるように
 最初に自分が言いたかったことも
 もはや本当に正しい自分の主張だったかも
 やがてあやふやになっていく。


 だから、
 というわけではないのですが、
 どうも自分の意見をがんばって主張するのは苦手、なのです。

 隙間は隙間としてとっておいて、
 その無数のズレが重なり合って
 いつの間にか丁度最初の自分の言いたいことのところに相手の解釈が戻ってくる。

 そうやって隙間が埋められるものであるなら、
 そうなったらいいのにな
 なんて考えたりします。

 すみません。
 要は意気地なしってことのようなのですが。

 人が皆そんなことでは
 本当の意味で理解し合うこともできないし、
 社会に対するの義務も遂行されず、
 ひいては正義がなおざりにされることも可能性としてあり得ます。

 でも
 もし性善説ってのが正しいのなら
 こんなのもアリなのかな、

 なんてちょっと思ったのです。
 ちょっとした気の迷い、なのだとも思うのですが・・・

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2006/03/22

「第3の脚」を換えるとき

 昔「第3の脚」というエッセイを読んだことがありました。
 仕事と私生活という2本の脚の他に、
 人が第3の脚を求めるのは自分の生活に精神的安定を求めるがゆえなのでは・・・
 という内容だったと覚えています。

 >三脚には足が3本。
 >1本や2本では立つことができないし、
 >4本脚の場合は長さが少しでも不揃いだとかえって不安定になります。
 >そういうガタガタの机が教室にありませんでしたか?
 >やっぱりどうしても3本でなくてはならないんですね。

 で、
 あるひとは幸せな家庭を持っているのに他のひとに浮気をしてみたり、
 真っ直ぐ帰るべき家の前に内緒の通い先を見つけたりする。
 もちろん、
 家庭にも仕事にもそれなりの満足はしていたとしても、
 というわけなのです。

 さてそこで、筆者である彼にとっての第3の脚となるのですが、
 それはまさにそのサイトなのだとのことなのでした。
 仕事でもなく私生活とも隔絶されたサラの自分、
 その自分を不特定多数の人に晒す場である、サイト。
 多分それを第3の脚とするのは、
 彼だけではなく多くのサイト運営者、ブロガーも同じなのではないでしょうか。
 そして
 いつの日かそのサイトが終わるときが来るのだとすれば、

 >失職したりして2本脚になってしまうときか、
 >または4本目の脚になる厄介な問題を抱え込んで1本切らなければならないとき、
 >そのどちらかではないかと考えています。

 という言葉でこの文章を締めくられていたのでした。


 さて春3月、
 様々な物事が移り行く季節。

 この春よく遊びに行っていたblogサイトがいくつか終了したり休止したりしています。
 それらを見聞きするたびに
 この「第3の脚」が思い起こされるのです。

 この人たちもやはり
 3本目の脚が重くなったり、
 他の2本とのバランスが取れなくなったのかな・・・

 というように。


 もちろん、
 それがいいとか悪いとか、
 そんな問題ではないのですが、

 私もいつか、
 「3本目の脚を換えるとき」が
 来るのかな、

 そのときは一体どんな
 気分なのかな

 なんて

 ぼんやりと考えたりする昨日今日なのです。

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2006/03/16

「愛」より「大切」

 一昨日の朝、ラジオから次のような内容のニュース解説が流れてきた。

 「教育基本法改正について」

 どうも、「今国会にての改正法案の成立を目指す」という首相の発言からこのニュースが取り上げられたらしい。

 さて、その内容に耳を澄ませてみると・・・

 「・・・会期延長しないでの成立を目指す、ということなのですが、
 しかしながらこの法案まだまだ詰めねばならない点も多いらしい。
 そのひとつが、
 「国を愛する心」という言葉を盛り込むことについて、
 与党内にて意見が未だ分かれているという点なのです、云々・・・」

 という話が聞こえてきた。


 ううむ、恥ずかしながら昨年の5月ぐらいにそのようなことが
 与党内で議論されていたことすら私は知らなかった。
 もちろん自民は「国を愛する心を育てる」派であり、
 これに対抗して「国を大切にする心を育てる」としたいのが、
 公明のほうだそうである。

 でも、
 「愛する」と「大切にする」ってどこがどう違うのだろうか?

 これを考えているうちに、
 拙文で申し訳ないが
 去年の初めに「愛しているなんてとても言えない」という記事の中で、
 「愛」という言葉についていろいろ書いたことがあったのを思い出した。

 その中で私は、

 ・・・「愛」という言葉は明治になってからloveの訳語として
 今のような意味合いを持つようになったこと、
 そして現在に至って「書き言葉」として日本に浸透したが、
 「話言葉」としては未だに馴染んでいない・・・

 というようなことを書いた覚えがある。

 そして今あらためて思うのは、

 「愛する」という言葉の意味を、
 感覚として的確に捉えている人は
 日本人にはほとんどいないのではないか

 ということなのだ。

 つまり、
 我々にとって「愛」とは、

 ただの「大切にする」よりももっと特別で真剣で、
 「慈しむ」よりももっと動的で明るい感情って感じかな?

 というあいまいな言葉なのではなかろうか?

 そう考えると
 「国を愛する」と盛り込みたい人たちは、
 「大切にする」よりももっと真剣で特別な感情を国に対して抱くべき
 としているのかもしれない。
 反対に「大切にする」に留めようとするのは
 その「真剣で特別な感情」に
 アレルギーをもつ人々への配慮からのことなのだろう。


 さて、「愛国心」というといつも私には思い出されるセリフがある。

 それは有名な「アンネの日記」の中で
 主人公アンネの次のような問いにその父親に答えた言葉だ。
 (テレビドラマで観たセリフのため原作にあるものかどうかは不明だが)

 「どうしてお父さんはあんな(今や自分達を殺そうとしている)ドイツの軍隊に入って戦っていたの?」
 ―彼女の父親は第一次大戦ではドイツ軍の将校として参戦していたのだった―

 それに対する彼の答え。

 「それは私が故郷のフランクフルトを愛していたからだよ。
 私はその故郷とそこに住む自分の家族を愛していた。
 それを守るために軍隊に入って戦ったのだ」


 「故郷と自分の家族を守る」
 このアンネの父の言葉を聞いて以来、
 私にとっての「愛国心」とはこの言葉のとおりのものとなった。
 それは、
 名誉や誇りといった特別な感情ではなく
 もっと普通の感情、
 ―自分の住んでいる街、家族、友人、隣人
 そういった身近で大切なものを守ろうというごく当たり前の感情―
 そういうものなのではないか?
 その感情が、
 敢えて名づけるならば「愛国心」というものになるのではないだろうか。


 だからできれば、
 「愛」だなんていうとってつけたような、
 持て余してしまうような言葉ではなく
 もっと自然な言葉でこの心を言い表すべきだと私は思うのだ。
 もっとありふれた普通の言葉で・・・


 「愛国心」

 いまもこの国の国民にアレルギーを引き起こしているこの言葉。
 要は私も
 いわゆる「愛国心アレルギー」に罹っている、
 哀れむべき人間の一人に過ぎないのかもしれないが、

 でも、

 この場合、
 やはり「愛」よりは「大切」を選ぶほうがいいのではないか?


 だって

 ごく自然な感情を、心を

 口にすれば歯が浮いてしまうような言葉などで
 飾り立てる必要は、

 どこにもないはずなのだから・・・

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2006/03/10

「身を立て名を上げ・・・」

 春3月、いまや卒業式のシーズン真っ盛りである。
 最近はテレビドラマなどの影響もあってか
 式に歌われるものに「仰げば尊し」の復権の兆しがあるらしい。
 理解ある「友だち先生」ではなく、ややうるさがれながらも「威厳ある恩師」との出会いを、ひとは今心待ちにしているのであろうか。

 「だがそうはいうものの、
 やはり時代を感じるのは2番で歌われる
 『・・・身を立て名を上げ、やよはげめよ・・・』だ。
 この部分はしばしば
 『今の時代にかくも露骨に立身出世を奨励するのはいかがなものか』
 という物議をかもしている」
 そんな記事を数日前に新聞で目にした。

 そしてさらにその記事はこう続いていく。
 日本の子供達に「何が大切か」というアンケート調査を行ったところ、
 「希望の大学に入る」というものを選んだのは3割ぐらいで、韓国などの他の国の子供達より低かったとのこと。
 そして更に
 「食べるに困らない程度ならのんびり暮らしたい」と思っている子供は、
 外国とくらべると日本にはかなりの割合でいるという調査結果にも言及して、
 明治時代の気概が失われたことへ、
 微かな失望感で締められていた・・・

 が、
 私がこの記事を読んで感じたのは、
 なんとなくもやもやしたわりきれない思い、なのである。

 自分の周囲を見回すと、
 そりゃあ子供達は過保護で甘やかされて思いっきり親のスネをかじりまくっているように見える。
 そしてそれは真実だとも思う。
 でも、
 「食べるに困らない程度ならのんびり暮らしたい」という欄に○をつけた子供達の大半も実は「人生の成功者=勝ち組」を密かに目指していて、
 ただそれを露にさらけ出すことを無意識に避けているだけなのでは?と私は思うのだ。

 「自分の好きな道を自分らしく生きる」
 これは、大人子供の区別なく現代においてのひとの当然の権利である。
 そしてそれを頭から否定できるような親は、
 例えそれがどんなに高圧的な親であろうと今やほとんどいなくなったのではなかろうか。

 「アナタの好きなように生きなさい、
 ・・・ただどうせ生きるなら勝ち組として生きた方が
 アナタの為だと思うよ・・・」

 「やりたいことがはっきり決まっていないのなら、
 とりあえず勉強はがんばっておきなさい。」

 (で、子供にやりたいことがもし決まっていたとしても)
 「それどもいいけれどでも
 そんなに簡単なもんじゃないんじゃない?
 勉強だけは続けていれば無駄にはならないのだから、
 早急に結論出すのはどうだろう?」

 我が子を勝ち組にしたくてしたくてたまらない実の親ですら、
 このように「自主性を重んじている」かのようなオブラートに包んで「身を立て名を上げ」る成功者への道を推奨している。
 それが今の日本の現状なのだ。
 (もちろん、
 「アナタはおとうさんのようになっちゃダメよ」
 なんていっていた頃よりはずっと良くはなっていると思うのだが)

 そんな、親ですら本音と建前の狭間で揺れ動いている中で、
 子供自身が「希望の大学に入る」というような近視的な項目を
 自分の人生での「大切なこと」に、迂闊に選ぶわけがないではないか!


 世の中とは、
 良くも悪くも時代が下るにつれて
 なんとも複雑でややこしくなるもの。
 ひとの心も同じなのかも。
 子供が無邪気に
 「エラくなりたい」と公言できたのは、
 もはや過去のことなのかもしれない。
 だって
 「身を立て名を上げ、やよ励めよ」
 そうきっぱり言い切れる大人だっていないのだから。

 でも

 それが良いことなのか悪いことなのか
 またそのどちらでもないのか

 そのあたりも、
 やっぱりわからない私、なのである。


 <ココログ障害のお知らせ>
 私がこの記事をupを試みたのは、昨夜3/9の9時ぐらいでした。
 結局そのときは混み合いのためログインできず、
 以後ずっとログイン不可の状況が続いておりました。
 ココログのブロガーさんたちはご存知でしょうが、ココログでは現在(3/10)障害が発生しているようで
 記事の更新やコメントの書き込み、TBの送信等不具合が生じやすい状況のようです。
 今回私はどういうわけかログイン出来て、こうして更新しましたが
 これとて本当に正しくに反映するかわかりませんし、
 書き込んでくださったコメントが消えてしまう状況も大いに考えられます。
 こちらにご訪問くださった方がそういった事態に遭遇した場合を思い、
 この場をお借りしてお詫び申し上げます。
 本当に申し訳ありません。
 では、niftyさんのサービス復旧への努力に期待いたしましょう。

 
 
 

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2006/03/04

「泣いた赤鬼」が語るもの

 よくお邪魔している涼さんの最新記事は
 「泣いた赤鬼」だった。

 「泣いた赤鬼」

 これこそ、
 大人のために書かれた童話というのにふさわしいものはないのではなかろうか。
 実は節分のころ「この物語について書きたいなぁ」と思いつつ、
 今に至っていたのを思い出す。
 

 人間と友達になりたくて、悩む赤鬼。
 その赤鬼と人間たちを取り持つために敢えて憎まれものとなる青鬼。

 この物語が、
 私たちに語りかけるのは
 いったいどんなものなのだろう。


 友情?自己犠牲?寂しがりや鬼の純真な心?

 いやいや。
 それらももちろん、重要な要素なのであろうが
 私に対しもっと重く語りかけてくるのは
 こんなことなのだ。

 物語最後に
 去った青鬼の手紙を読んで泣く赤鬼。
 いつまでも泣き続ける彼は
 そのとき知ったのであろう。

 青鬼がもう決して帰ってはこないことを。
 自分は人間との友情を手に入れたが、
 しかしそれと同時に青鬼を失ってしまったことを。

 人生にはいくら望んでも
 その両方は手に入れられないときがある。
 また、
 失ってみて初めてわかる大切なものもある。

 ひとつを失ったといって
 そしてそれが実に得がたいものであったことに気づいたとしても
 いまさら手に入れたもうひとつを手放すわけにもいかない。

 その現実に
 赤鬼はどんなに愕然としたことだろう!


 多分そうはならないと思いながらも、

 彼が青鬼と引き換えに手に入れた、

 「人間たちとの友情」が
 「青鬼」以上のものとなることを

 願わずにはいられない・・・・

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