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2006/05/29

ともだちのともだち

 そのことを知ったのは、
 子供が幼稚園に入ったばかりの頃だったか。
 それを知ったときは、ちょっとショックだった。
 しかしその反面「あー、やっぱりそうだったのか」という
 確信を得たかのような気持ちもあったのである。

 それは、

 「友達の友達は、必ずしもあなた自身の友達にはならない」

 ということ。

 幼稚園や公園デビューのころ、
 そんな言葉をある本の中で見つけたのだ。

 「友達の友達は、
 むしろ敵意を持ってこちらに対峙してくることが多い。
 というのも、
 その友達の友達にとってあなたは、
 「新しい友達」なのではなくむしろ
 自分と自分の大切な友達の間の「サシの友情」に割って入ってくる
 「闖入者」である可能性が高いからだ。」

 なるほど。
 確かにそうかもしれない。
 とかく女は妬み深いもの。
 (そして男だって表面上は何てことない顔をしてながら、
 その実やはり嫉妬心はなかなかなものらしいから。)

 「ママ友達」なんてのはこの法則に完全に従っている友人関係なのかもしれない。
 育児に煮詰まってくると新米ママは、
 この状況から抜け出させてくれる同じような境遇の共感者を必死で求める。
 そしてやっと見つけたいいお友達。
 このひとと自分の関係を危うくする闖入者なんて撃退するの限るのだ。

 でも、
 考えてみると友達の友達だからって
 安易に受け入れてくれるなどと思ったほうが、
 とんでもないモノグサだったのかもしれない。
 友情とはそんな安易なものではない。
 その友達を除いて考えたとしても
 その人を自分の友達とは無関係の人間と考えたとしても
 それでも私はこの人とお近づきになりたいのか?
 そう自分自身に自問すれば、自ずと答えは返ってくる。
 (そしてさらに発展させて考えると
 「友達の友達でありながら手を差し伸べる」
 ということはものすごいことなのかもしれない。)


 と、ここまでは現実世界でのお友達について。
 じゃあ、こういったネットの世界では?
 あなたは自分が懇意にしているブロガーさんのトコの常連さんと
 仲良くしていますか?

 残念ながら私はあまりしていません。

 大勢の仲間と親しくするのが苦手ってこともありますが、
 それは実は
 「ただの嫉妬深い人間」ってことなのかもしれません。


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2006/05/24

中年の恋ごころ

 「今朝、ちょっとどきどき、した。
 我ながら笑っちゃうけれど、朝のドラマを観て。
 そこにいた片想いをしている青年の
 やや苦しげな表情に思わずどきどきして
 そんな自分をこっそりうれしく思ったりする。」

 などと書いた文章を読んだとしよう。

 実はこれを書いたのは他ならぬこの私。
 で、私は基本的に意地悪な上に根性ワルなので、
 たちまち
 「いいトシしてさぁー」
 という思いを抱く別の自分の冷たい視線を浴びることになる。
 「いいトシ」なんてほんとは一番嫌いな言葉なのに。

 若くない男女の恋ごころ。
 それを語るのは難しい。
 だからこそ、素晴らしいものもあるのだが、
 いかんせん多くは、
 化粧の厚塗りを見るような
 生臭い独りよがりのような風体を醸しがちだ。

 その臭みを抑えられるのは何なのだろう。

 正直さ、気負いのなさ、自然体。

 そうとわかっていても
 ついつい大人が格好つけちゃうのは、
 守るものも多いからなのか。


 というわけで、
 しばらくはその生臭い自分を
 ひとりで楽しむことに。

 などと言いながら
 こうBlogに書いていること自体
 すでに醜悪さを露呈している。

 ・・・申し訳ない。

 


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2006/05/22

「ダ・ヴィンチ コード」と「しるしを求める人々」

 ご多分にもれず
 昨日の日曜日、映画「ダ・ヴィンチ コード」を観て来ました。
 いいように映画配給会社の手玉にのせられているといった感じですね。
 思ったとおり
 映画館はそういう老若男女でごったがえしていました。

 2時間半にも及ぶなかなかの長時間作品。
 内容に関しては以前ゴトウさんの記事を拝読して
 予習済みだったのですが、
 見終わった私の心に浮かんだ言葉は、
 目から鱗の奇想天外な物語!だとか
 キリスト教を冒涜するけしからん話だ!とかいうのではなく

 こんなにも
 「ひとはしるしを欲しがる」ものなのか!

 というもの。

 実際に奇跡が行われたというしるし、
 もしくは行われなかった(嘘だった)というしるし。
 そして奇跡を信じるもの
 信じたいと願うものには、
 目に見えて拝むシンボルとなる具体的で美しく高貴なるしるし。

 例えば聖杯という秘宝や偉大なる血統、
 実は人間であった救世主とか。
 そういうものはロマンティックな物語を際立たせ、
 人々の心に情熱を掻きたてます。

 でもそれらにはこの際大きな意味がないことは
 多分皆十分知っているはずなのです。
 「見たから信じる」「あるから信じる」とは
 「愛されているから愛する」と同じように
 至極当然のことなのですから。

 でも
 それでも
 「ひとはしるしを欲しがる」

 「しるし」は決して与えられないと知っていても、です。

 日常に不足しているロマンを補うためなのか、
 あまりに真剣に絶対者を捜し求めるゆえなのか。

 きっと、どちらもあるのでしょうねえ。


 ところで映画のことですが、
 これはもうロマンなのですからもう何も言いますまい。

 つまり
 それだけのことです。

 「冒涜」うんぬんは
 映画会社の宣伝文句、
 と考えるのが一番だと思います。

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2006/05/18

コメント(0)恐怖症

 実はちょっと前から、こんな病気に罹っております。
 コメント(0)恐怖症。

 記事を更新した日の翌朝、これはいつもスリリングな朝なのです。
 どきどきしながらサイトを開き、真っ先に目を走らせるのは新着コメント欄。

 さて新しいコメントは・・・?
 ・・・ない。

 その瞬間に感じるのは、軽いほんの微かな疲れ。
 読み返す昨日の記事は、
 書き上げて送信ボタンを押したときよりも何とはなく陳腐に見えます。
 こんな内容ではコメントがつかないのも無理はない―確かに。


 不思議なことに、
 コメントがつく機会が増えれば増えるほど、
 この病は悪化してきているのです。
 以前だってコメントなどほとんどつかなかった。
 そのころだって元気満々ってわけではなかったけれど、
 それでもこんなにも臆病ではありませんでした。

 恐るべしコメントの魔力。

 そこから抜け出す道を、
 目下模索中の私、なのであります。


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2006/05/16

かけらを探して

 「自分を探しに出かける」
 そんな絵本があったそうです。
 (―「ぼくを探しに」シルヴァスタイン著・倉橋由美子訳
 画面左のBOOKS参照)
 主人公が自分に欠けているかけらを探しに行くというお話だとか。
 すみません、読んだことはないのですが・・・

 それでも、
 彼にならって
 「自分に足りない何か、
 それはこの世のどこかにきっとあるはず・・・」
 そう思って、

 「いつかはそれが見つかる、
 それさえ見つかれば全てが解決する、
 何て素敵なハッピーエンドだ!」

 とまあ
 そう思って世界へと漕ぎ出す、としましょう。


 でも、
 そんなかけらはそう簡単には見つからない。

 いつまでたっても見つからぬかけら。
 一体どこにあるのだろう。
 ひょっとしてもう見つかっているのに見過ごしているだけなの?

 そんなことをつらつら考えてみるに
 ひとつの考えに突き当たりました。

 自分探し。
 これは正確には
 自分の「居場所探し」なのではないのでしょうか?
 自分を受け入れてくれる安心できる場所であり、
 自分を受け入れてくれる仲間達を探し求めること。

 そして
 自分に足りないかけらとは、
 自分に足りない「何か」なのではなく、
 足りない自分を足りないままに受け入れる
 それが出来る自分自身、なのでは?


 本当は
 私たちは
 「自分が何者なのか」を、
 既に知っているのだと思うのです。

 ただ、
 それを認めたくないがゆえに
 もがき苦しんでいるだけ、

 そんな、気がするのです。

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2006/05/10

頼りとするのは・・・

 以前、「時を越えて」という文章を書いたことがありました。

 自分がサイトの更新が出来ない事態になったら、
 そうなったらこれらのサイトはどうなるのだろう・・・
 などという取り留めのない内容だったと思います。
 どうもそんなことを考えるのは私やコメントをくださった方々ばかりではなかったようで、ちょっと前にこんな記事を新聞で目にしたのです。
 それは
 「故人の運営していたサイトをどのように保存していくか」
 について。
 それぞれに思い入れのあったサイトと
 残された者はどう向き合っていこうか
 ということが書かれてありました。

 さる研究家の専門分野のサイトにいたっては、どこかの大学の管理のもと大切に保管してもらうことになったとか。
 でもそんな学術的価値のあるものではないにしろ、
 「そのひとの思い出に」ということで、サイトを削除するのをためらう家族は多いらしいのです。
 
 うーん、
 もしも、もしも私なら、どうなのでしょう。
 それでも
 やっぱりサイトをそのままの状態で残しておくのは、
 気が引けるかな。
 遠い未来に私のこのサイトを
 ひょんなことから訪れる未知の人との出会いも
 捨てがたい魅力ではあるけれど。

 やっぱり自分の手で始末をつけましょう。
 ネットの海にゆらゆらと漂う管理者のない、更新のないサイトは
 虚しさを掻きたてるのみですから・・・

 でも、
 「削除しますか?」
 「削除する」―クリック
 で全て書き溜めたものが無になるのも
 正直かなり辛い。

 だから
 ココログ出版サービスでも利用して
 本にして
 家にこっそり置いておこうかしら。

 ひょっとしたら、未来の孫あたりが読んでくれるかもしれないし・・・
 
 いや、案外誰にも気付かれず、
 古紙回収に渡されちゃうのが
 関の山かもしれませんけれどね・・・

 それでも
 ネットの片隅に埋もれているよりは
 家の本棚の片隅に埋もれている方がなんとなく
 安心なような気がするのです。

 世はペーパーレスの時代、
 などとは言っていても
 所詮20世紀生れの私には
 紙に頼ってしまう、
 そんな染み付いた習慣のようなものがあるのかも。

 なんて、すみません。

 いつもにも増して

 どうでもいいこと
 書いてしまいましたね(汗)


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2006/05/08

氷あずきと氷スイ

 小さな村のその食堂でも、真夏になるとカキ氷が登場した。
 氷イチゴは一杯20円、
 氷メロンも一杯20円。
 それが氷あずきとなると一挙に50円と跳ね上がる。

 で、幼い彼がよく買ったのは、
 氷イチゴでの氷メロンでも、もちろん高価な氷あずきでもなかった。

 それは氷スイ、一杯10円也。


 「その氷スイって何?」
 40年後の現代になって、私が夫に尋ねると
 彼はそれが、カキ氷にただの砂糖水のかけたものだと教えてくれた。
 
 「小遣いなんて貰ってなかったから、瓶を集めて店に売りにいくんだよ。
 瓶によって値段が違ってね、酒の一升瓶なんて1本1円だったかなぁ。
 でもビール瓶は結構高かった、5円だったかな?
 そうやって貯めたお金でカキ氷を食べるんだよ。
 氷あずきなんて高嶺の花で手が届かなかったなぁ」
 
 なるほど、氷あずきにありつくには
 何日も何日もその瓶代を貯めないとだめなのだ。
 氷スイを食べている友だちを横目に我慢なんてできっこないわけだから、
 当然彼が氷あずきを口にすることはほとんどなかったらしい。

 「泣かせるよね」と言って、あずき練乳バーをカジリながら夫は笑った。
 今となっては好きなだけ食べられるその氷あずきの味が、
 彼にその思い出を語らせたのだろうか。

 「いい思い出だね」と私も言った。
 本当に、いい思い出だと思った。


 それから幾らか経って何の機会だったか?
 夫の実家に帰省中に、ふとその氷あずきの話になったことがあった。

 「・・・なんですって、いい思い出ですよね」と
 私は義母に向かって笑いかけると、
 意外にも義母は悲しそうな顔をしてこう言った。

 「そうだったのか、ちっとも知らなかった・・・可哀想なことをした・・・」
 
 農家の嫁として野良仕事に毎日朝から日暮れまで忙しかった義母には、
 我が子がどんなことを欲し、どんなことを願っていたか、
 気にかける余裕すらなかったのであろう。
 そのことを悔やむ、そんな辛そうな表情だった。
 
 「いやだなぁ、そんなことないよ」と夫は笑って言ったが、
 義母は、「氷あずきぐらいいくらでも食べさせてやってもよかったのに」とやはり辛そうな顔をする。
 
 ・・・ああ、親というものはこういうものなのか・・・

 氷あずきの思い出も良いが、
 この義母の悲しみも、また良いなあ。

 部外者である私なので、
 そんな不謹慎なことをつい思ってしまうのだが、
 
 それでも、
 このエピソードは
 義母がらみのものの中では
 かなり気に入ってしまっているほうなのです。
 

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