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2006/07/27

のっぽの花

 女の子の世界には、
 突然意味も無く流行るものがある。
 そのとき私の周囲で流行ったのは
 教室の教壇に花を持ってきて飾る、
 というものだった。

 朝、
 誰と決まっているわけでもないのだが
 気の利いたような子が
 教室の花瓶に持ってきた花を生ける。
 朝の会になると、
 それに気付いた先生が
 「あら、素敵な花ね、誰だ持ってきてくれたの?」などと尋ね、
 「○○ちゃんです」と知っている子たちが答える。
 「そう、ありがとう。とっても綺麗よ。」


 「そう、ありがとう。とっても綺麗よ。」

 そう自分にも言ってもらいたかったのか、
 それとも
 自分もそんな気の利いたことができる子だと
 皆に思われたかったのか、
 とにかく
 (花を持っていきたい)
 そう無性に私は思ったのだった。

 私が持っていったのは
 自宅の庭に咲いていた名も知らぬの背高のっぽの花。
 それを新聞紙に包んで持って行き花瓶に挿す。
 しかし、
 そうやって挿された花は
 自分の席から眺めてみると
 なんとも地味で情けない風であった。

 もちろん先生は
 そんな私の花束にも何らかの反応を示した。、
 それが誠意のこもった温かいものであったのは間違いない。
 しかし、そのとき既に私は知っていた。
 それまで教室に飾られていた数々の花は、
 お花屋さんで買われたものか
 もしくは丹精に育てられた庭の花であったこと、を。
 それらは
 私が持ってきたような
 雑草のごとく茂っていたものではなかったこと、を。


 今日の昼休み、
 郵便局に所用があって出掛けたとき、
 その花が、
 取り壊された家の跡に生い茂っているのを見かけた。

 クレオメ、別名フウチョウソウ(風蝶草)。

 あの花が
 そのような名前であったことを、
 今日初めて知った。

 あれは
 小学校の3年生だったか、
 もう30年以上昔の話、だ・・・

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2006/07/25

すぐ身近にある貧困

 ある日、突然今の生活が破綻したら・・・

 このような書き出しは、
 いかにも「奇をてらったもの」であまり好まないのであるが。
 しかし、
 よくよく考えてみると
 自分の今の生活というものがいかに脆弱なものの上に成り立っているのかを
 痛感する機会に出会ってしまった。

 またもテレビ番組の話題で恐縮なのだか、
 一昨日放映の「ワーキングプア」という特集。
 働いても働いても豊かになれない…。どんなに頑張っても報われない…。
 そんな、
 現在の日本に急激に拡大しているという「働く貧困層」、
 それをテーマにしたものを観たのである。

 紹介されるのは
 求職中だが年齢制限でなかなか職につけない34歳のホームレスの青年、
 税金はおろかアルツハイマーの妻の介護保険も払えないほど困窮した仕立て職人の老人、
 農産物の低価格化で出荷しても赤字にしかならない農村の家族
 ―家計を支えるのは息子の日雇い収入、それも近頃は数が減少気味だ―、
 5年前に職を失いアルバイト3つを掛け持ちして
 男手ひとつで子供2人(中学生と小学生)を育てる50歳の男性
 ―大卒の彼はせめて子供にも大学ぐらいと思っているが
 教育費の捻出も現状ではままならない―、
 などなど・・・

 特に私がショックだったのは子供を抱えた男性のエピソードだった。
 多分それらの中で
 その話が今の自分に一番近いケースと言えるだろうから・・・

 全くもっておこがましいことなのだが、
 私は「貧困」というものをそれまで身近に考えたことがほとんどなかった。
 つまり、
 現在のこの国においては
 「貧しい」ということは―誠に申し訳ない言い草なのだが―
 ある程度の努力をしていない結果のように思っていたのである。

 だが、「貧しさ」というものはそんな単純なものではなのかもしれない。
 真面目に学業を修めたのちきちんと働いていて、
 ごく普通の生活を営んでいたようなひとでも
 脇にポッカリと開いた穴に吸い込まれるように落ちていってしまうことがあるのだ。
 それは、失業や疾病という形で突然訪れるときもあるだろう、
 じりじりと値が下がっていく農産物の価格のように
 ゆっくりとしかし確実に迫ってくる場合もある。
 そして一度落ちたら最後、
 どんなにあがいても
 その暗く深い「貧困の穴」からは容易に抜け出すことが出来ない。
 貧困は世代を超えてその子供達にも重く圧し掛かっていくのである。

 テレビに映し出される
 そんな「社会の底辺に沈み込んだ」ような人々の様子を見て、
 多くのひとがそうするように、
 私も、自分の身
 ―学校は出たとはいっても
 もう10年以上正社員として働いてはなく、
 特にこれといった技術もない40過ぎの自分の身―
 に置き換えて考えてみる。

 ・・・
 もしも、もしも
 今この時
 家計を支えるひとを失ったとしたら
 ふたりの子供もろとも
 たちまち貧困の底に落ちていってしまうかもしれない我が身に気が付いた。
 震えが来た・・・

 穴は、
 すぐ隣でいつでも口を開けて
 誰かが落ちるのを
 待っている。

 たまたまの幸運がこの生活を支えている、

 それを
 多くの人は
 「気が付いていないだけ」
 なのかもしれない。


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2006/07/20

「顔」から始まるノスタルジー

 昨日ちょっと面白い番組を観ました。
 NHKの「ためしてガッテン」、
 テーマは「極意は脳!夢の似顔絵上達術」です。

 今更ひとさまの似顔絵を描いて褒められたいと思ったわけでもないのですが、
 観ているうちに意外と興味深く感じられる点がありました。
 「何が?」っていうと、
 それは人間が他者の顔を認識するの際しての脳のメカニズム。

 どうやら
 人間の脳というものは「顔」を認識するのに
 ある特殊な場所
 (脳の側頭部、英語でFace Aria=顔領域と名づけられている箇所)
 を使っているらしいのです。
 この脳の顔領域は、生後5~8ヶ月に急速に発達。
 これは赤ん坊が必死で人を見分ける訓練をするがゆえの発達のようですね。
 というのも、人間にとって
 「顔を記憶し処理することは社会で生きていく上でとても重要」であるからなのだと。
 言い換えると
 それほど重要であるからこそ
 殊「顔」に関しての処理がこの特別領域で
 特に集中しておこなわれるようになったらしい、というのです。

 で、認識に使われるメカニズムはこんな感じ。
 約2000ほどの顔を人間は記憶できるそうですが、
 その管理は目・口・鼻などのパーツの大まかな記号化と
 その配置のイメージ化で行われます。
 そしていわゆる特徴をデフォルメされ簡略化されたその「顔」を
 頭の中に設定されている無個性の「標準顔」と比べ
 その差異の大きさで
 記憶格納場所を決定するというシステムなのではないか、
 というのが番組での説明でした。


 そうして培われた人間の「顔」認識能力。

 このことを聞いて私が思い出したのは以前読んだエッセイのこと、でした。
 確か「その顔にピンと来る」という題名だったか。

 そこで筆者は、
 顔を認識するメカニズムの不思議を
 「どこをどう見極めて、
 一瞬にして『知っている人』『知らない人』に選り分け、
 『知っている人』なら『どこの誰』まで特定できるのか」
 と驚異の目で見つめていました。
 それは
 そのエッセイをぼんやり読んでいた私にも
 「確かに・・・」と十分納得し大いに考えさせられたものです。

 いや、このエッセイばかりではありません。
 実にさまざまな
 普通なら見過ごしてしまいそうな些細な事柄も
 さりげなく取り上げる、
 そこはそんなサイトだったのでした。
 それもなんとも巧みに・・・


 あれから1年半ぐらいが流れ、
 そちらのサイトも今やすっかり模様替えされたようです。

 全てを忘れた頃にこうした番組が放映され、

 「人間がその能力を得るのにはそれ相応の理由があり
 そのための弛まぬ脳の鍛錬があったのだ・・・」

 なんてことを私は知ったわけなのですが、
 惜しいかな、筆者である方に伝えるスベもありません。
 いや、スベはあるんでしょうが、
 そんな必要もないということを自覚している私がいるだけ、
 ということなのでしょう。

 うーん、結局何が言いたいのか・・・
 つまりこの筆者のファン(それも熱烈な)であったこと
 それだけが言いたかったような気がしてきました。


 ちょっとしたノスタルジー、ってやつなのか

 どうも、
 なんとも、
 失礼致しました・・・

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2006/07/18

抗議されたら・・・

 ブログって難しい・・・
 そんなことを目の当たりにする機会があった。

 いつもお邪魔している「フクダカヨ絵日記」さんのこちらの記事
 何も考えることなくいつもどおり「クスっ」としていた私だったが、
 それについて疑問を投げかけるコメントが・・・

 いや、
 こちらのやりとりを拝読して
 ブログって、文章を公開するって難しいとつくづく思った。

 ある人にはほとんど何も感じない言葉でも
 その同じ言葉が別の人にはナイフのように突き刺さることもある。
 残念ながら
 こちらには微塵の悪意も無くても
 受け手によっては不愉快に取られるのは
 致し方ないことだったりするのだ。

 私自身は
 「その種のことに敏感でありすぎることは無い」
 そう思って細心の注意を払って更新をしているつもりであった。
 だけれど、いやそれだからこそ
 私にはいい子ぶりっこのつまらぬ文章しか書けなかったりするのだ。
 (前回の記事、雨に関してのもの
 「大変な目にあっているひともいるのに!」
 というご意見をかわすために後半をつけている。
 非難が来る前に予防線を張っているのだ。)

 「他人を傷つけるくらいなら、つまらない文章を書いていたほうがいい」
 という意見もあるだろう。
 また反対に、
 「思ってもいないくせに善人ヅラすることこそ不愉快」
 というのもこれまたもっともな気がする。

 でも
 ひょっとしたら、
 読み手の心に何か一石を投じたいのならば、
 そのような予防線など張っている場合じゃないのではなかろうか?
 細心の注意、
 それを払うのはもちろん必要なことではあるのだろうが・・・
 

 せめて、
 どんなコメントが来ても
 それに対しドンと受け答えができるようになれれば、
 などと思う。

 いや、
 小心者なので、
 それができれば苦労はないのだけれども。

 実際には
 ちょっとした反論にあっても
 赤くなったり青くなったりした挙句
 落ち込む度合いも甚だしいのが現状だったりするのだが・・・


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降り込められて

 雨の日は、けっこう好きです。
 もちろん「出掛なくてもよい」のなら、ですが。
 「雨の日が日曜日」というように
 雨は私達に休息を与えてくれるから。

 そして夜、
 休むときは
 あおむけによこたわるのです。

 聞こえるのは屋根に降りかかる雨の音。

 ぽつぽつぽつ
 ぱらぱらぱら
 ぼつぼつぼつ
 ざぁざぁざぁ

 薄暗い部屋で
 耳をすましながらよこたわっていると
 屋根のある幸せを感じます。

 まさに
 「降り込められる」
 という言葉がぴったり。

 大きな部屋では
 真ん中ではなく片隅に
 知らず知らずに寄ってしまう。
 そんなふうに
 どうも一定の限られた空間というのはひとに
 不思議な快感を
 もたらすもののようですね。


 そんな心地のよさに浸っていたら
 突然申し訳ない気が・・・

 今回の大雨で被害にあわれた方々、
 また、
 この地上にいる多くの
 雨露をしのぐ屋根のない人々、

 こんな能天気ですみません。


 でも、
 やっぱり
 屋根に落ちる雨音は、
 こころをやさしく撫でてくれるようで

 ついつい聞きほれてしまう私、なのです・・・


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2006/07/13

「リトル・ロマンス」

 子供達も寝静まった夜中の11時過ぎ、
 夫はおもむろにDVDを取り出した。
 「なに?」と私。
 「・・・・安いから買っちゃったんだ」と夫。

 始まった映画のタイトルは、「リトル・ロマンス」
 「リトル・ロマンス」?
 聞いたことがあるようなないような・・・
 そしてオープニングの出演者クレジットで
 私はいきなり納得した。

 ダイアン・レインが主演の映画なのだ。
 なるほど、ねぇ・・・
 彼(夫)、彼女のファンだから。

 どうやらこれは、彼女のスクリーン・デビュー作品のよう。
 果たして開始10分後ぐらいか、
 ようやくローティーンの初々しい彼女が画面に現れる。

 で約2時間弱の爽やかなストーリーが展開。
 話の内容、悪くない。
 幼いふたりの恋人たちは
 おマセさんながらもまだまだ純なところを残したあどけなさを見せ好感もてる。
 そんなふたりを応援するサー・ローレンス・オリビエも
 怪しげながら上品ないい味を出している。

 ただ、ただ、ね・・・
 ごめん、ダイアン・レインは好きじゃない。
 いや元々は、
 私としては「どちらかというと好きじゃないタイプかな」という彼女を
 夫が好きであるという事実を知り、
 私の中の「好きじゃないな」度がさらにアップしたというべきか・・・
 彼にはせめてジョディ・フォスターあたりのファンであって欲しかったかなあ・・・
 なんてつまらないことを思ったりするのだ。

 ヤキモチっていうのとも違うのだけど、不思議な感覚。
 (いや、それ十分ヤキモチですよ)

 (残念ながら貴方の配偶者は
 ダイアン・レインとは学年と性別しか一緒じゃないですけれど、
 まあ、勘弁しておいておくんなさい。)
 そんなことを思いながら、
 爽やかな映画を夫とともに観終えた私。

 「ダイアン・レイン12歳か、かわいいねぇ」
 「・・・うん・・・」
 「でも、うちの子もあと2年で12歳だね、
 そう思うと複雑じゃない?」
 「!・・・」

 夫よ、赦せ。
 君の妻は、この程度の狭量の女なのである。


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2006/07/11

奇跡というもの

ずっとここのところ、
「奇跡の人」について書きたいな、と思っていたのです。
ヘレンケラーとその恩師アニー・サリバンの実話に基づく戯曲ですよね。
ずっと昔学校で演劇で見せてもらって以来随分経っていますけど。
映画もテレビでですが、リメイク版のほうを見た記憶があります。

幼くして視力と聴覚を失い
それゆえしつけられることもなく野生児のように成長していた少女ヘレンが
7歳の春家庭教師のサリバン先生と出会い
それまで全く知らなかった言葉というものの概念を認識する「奇跡」までのストーリー。

何が気になったかというと、
奇跡が起きる前のヘレンと起きた後のヘレンはどのように
劇的に変化したのかというのを無性に知りたくなった、
ということなのですが。

でも、あらためていろいろ調べてみるうちに、
こんなページを見つけ、
どうもこのサリバン先生の起した奇跡というのは
私が思い描いていたものとは違っているような気がしてきました。

その、
見えず聞こえず喋れない少女ヘレン・ケラーは全くの野生児
―いわば狼に育てられた少女のような―
だったわけではなく、
サリバン先生の教える指文字「DOLL」も人形を表していることには
すぐに気付いていたらしいとのこと。
すなわち戯曲「奇跡の人」で描かれているような
井戸端のシーンで「WATER」が「水」を表すということを知り
言葉の概念を瞬間的に悟った
というのはこのページで述べられている事実とは
若干違っているようなのです。

もちろん、
その井戸端でヘレンは何かを悟った、それは間違いないようです。
そしてそれは決して些細なものでもなかったのでしょう。
かつて病気になる前に「ウォー・ウォー」と言って覚えた言葉「WATER」を思い出し、
それが、
それまでの彼女のいまひとつ理解しきれない何か
―それが言葉の概念なのかもしれませんが―
を理解するきっかけになった。
そういう意味では
戯曲に描かれている感動的なシーンも全くのフィクションとは言えません。

でも
現実というものは舞台の上よりも
はるかに普通で当たり前になのでしょうね。
思い返して歴史になったときに
はじめてそれは奇跡として脚光をあびるものなのでしょう。

ひょっとしたら
ヘレン自身も、
後日この井戸端でのことを思い起こし
あのときから自分の世界は開けたと述べていたのかもしれません。
でも思うのですが
きっとその前にも
そしてその後にも
数々の小さな小さな奇跡は起こっていたような気がしてならないのです。

それらは
奇跡と呼ぶにはそぐわないような
本当にに小さなものたちなのでしょうが。
それでも
それら小さなひとつひとつが無数に重なり合い
彼女は、突然ではなく徐々に徐々に言葉の世界を知った。

つまり

井戸端の奇跡の前と後では
目に見えるような劇的変化はヘレンには起きなかった・・・、

これが私の得た今回の結論でした。


ひょっとしたら、
いわゆる奇跡と呼ばれるものは
すべからくこういうもの、

あとで考えてみて
そう思い起こされるもの

なのかもしれません。

そのことは、
自分の身に照らし合わせてみると
なんとなくよく分かるような気がしてきます、ね。

注)
7/11の14:00より7/13の14:00までココログはメンテナンスに入り、
その間のコメントおよびトラックバックは送信が不可能になるそうです。
その間は閲覧のみのご利用になるので、
申し訳ありませんがご了承のほど、よろしくお願い致します。

|

2006/07/06

顔文字の効能

 あの、あれですよ、
 いわゆる(^_^)のような顔の表情の記号のことです。
 顔文字っていうんですよね。
 今やメールにしてもネット上でも至るところで目にします。
 この記号、
 なかなか便利なものなのですね。

 例えば
 文字だけの交流はどうしても堅くなりがち。
 それに文字だけだと伝わりきれないものも数多くあるのも事実です。
 「すみませんでした」という言葉をひとつとっても、

 すみませんでした( ^_^;)
 すみませんでしたm( _ _ )m
 すみませんでした( ToT )

 と、微妙に伝わるニュアンスが変わってきます。
 へたすると文の脈絡から

 まったく、すみませんでしたねぇ!(ブチブチ・・・)

 と不満顔で言っていると受け取られかねないときなど
 この顔文字をひとつ付け加えるだけで、
 要らぬ気遣いから解放されるような気分になり
 ついつい使ってしまうのかも。
 結局はまあ、気休めみたいなもんですけれど、ね。

 画面に映し出された文字だけの交流、
 でも昔の書簡とは違い瞬時に伝い合えるこの新しい交流は
 直接の、面と向かい合っての会話に段々近づきつつあります。
 そこに
 今まで以上の情報量を盛り込みたくなるのは当たり前。
 そう思うと
 この顔文字が生まれたのも必然だったのかもしれません。


 しかしながら、
 便利なこれらの顔文字なのですが、
 私自身はどうも苦手で使ったことない。
 多分頭が固いからなのでしょう。
 最初は「こどもが使うもんだ」なんていう偏見もあったりして、
 で、こんなふうに広まった今となっても今更使うのにはテレがある。
 でもその効果はわかっているで
 その代わりとして私も使っているものがあります。
 「漢字」です。
 (笑)、(涙)、(汗)、(怒)、(苦笑)などなどなど。

 顔文字もこれらの漢字も基本的に使う目的は同じ。
 どちらを使うかは、これはもう好みの違いだけのことでしょう。
 両者に共通して言えるのは、

 自分の気持ちを読んだ相手に誤解されることのないように・・・

 という繊細で柔和な配慮。
 しかし、
 これは裏返して意地悪な言い方をすれば、

 文章だけで思いを伝えきれない自分の自信の無さ、や
 読み手の受け方に任せきれない自分の思い切りの悪さ、を

 表しているようで・・・

 たまには
 そんな小細工をせずにズバっと書いてみろよ!

 なんて
 衝動にかられるのも
 事実だったりするのです(苦笑―そしてさらに苦笑)。


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2006/07/04

空を仰いでいた彼

 昨日の
 突然の現役引退表明の文章を読んで。

 多くの人がまず思い浮かべたのは
 ブラジル戦が終わったあとの、
 ピッチに寝転んで空を見上げていた彼の姿だったのではなかろうか。

 そのとき
 彼は長く長く寝転んだまま、起きようとはしなかった。
 そんな彼のそばに、
 ひとりふたりのチームメイトは近寄り声をかけたのだろうが、
 彼は基本的にひとりだった。
 ひとりで、仰向けになって空を見つめていた。

 ひとりになることを、
 多分彼自身が望んでいたのだろう。
 そして
 それをまわりも知っていた。
 だから彼はひとりで空を見つめ続けていた。


 が、
 その映像を私と一緒に見ていた人は、
 数日後、こんなことを言っていた。
 「その光景が今の日本代表の姿を表している」。

 個人を尊重し、互いに必要以上にズカズカと入り込まない。
 常にクールでナイフのように鋭いリーダーに、
 生半可な言葉など全く不要であることを
 心得ている仲間達。
 そしてその仲間達に対し、
 「能力を十分持ち、
 それを各々が引き出すことも出来るはずなのに
 そのことを上手く伝えることが自分にはとうとう出来なかった」
 という彼。


 もちろん、
 それが日本敗退の全ての原因というわけでもないし、
 全ては結果論に過ぎないのだが。

 それでも
 あのひとり寝転んでいる姿こそが、
 彼という人を如実に表しているような気がしてならないのだ。

 少なくとも
 彼を個人的には全く知らぬ一観客、
 サポーターというにはあまりにもおこがましい、
 一観客としては。

 良くも悪くも・・・

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2006/07/01

痛い・・・

 子供が、泣いています。

 今日彼は、
 歯科医院にて上歯茎を切開する手術を受けたものですから。

 「抜歯より簡単なぐらいですよ」
 医師はそう説明してくれたのですが、
 術後に見る彼の歯茎には、
 その傷口を縫い合わせる痛々しいほどの黒い糸が。
 
 それでも
 麻酔がきいているうちは良かったのですよ。
 一時間が経過し麻酔がとれてきて、
 彼も初めて知ったのでしょう。
 思いもよらぬ激痛がこの手術には伴っていたのだと。

 処方してもらった痛み止めも効かない。
 立っても座ってもいられない。
 で、彼は泣くのです。
 その痛みに、我慢できないその痛みに。
 泣いて、泣いて、泣いて・・・
 泣きつかれて眠ってしまうまで。

 
 泣きつかれて眠ったわが子を見て思うのは、
 純粋に
 「ただ痛いだけで泣く」
 なんてこと、
 自分はもう30年もやっていないな、
 ってことです。

 さして大きな怪我もしたこともなく、
 出産のときの痛みもそりゃ辛かったけれど、
 それでも涙を流すほどのものではありませんでした。

 もちろん、それは幸せなことなのでしょう。
 身体の痛みよりも
 心の痛みにより傷つく大人になったということなのかもしれません。

 それでも
 
 ただ「痛い」と言って泣くわが子の姿に
 なにやら

 ひとつの感覚を失ってしまったのかな

 なんて
 大げさなことを思ったりしたのです。

 いや、
 それが寂しいとか
 むなしいとか

 そんなこと言うつもりも
 あるわけじゃないんですれど、ね。

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