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2006/08/31

52年ぶりの五輪?

 昨夕、2016年の夏季オリンピックの国内候補地が東京都に決定した。
 (詳しくはこちら
 実現すれば52年ぶりの東京五輪が開催されることになる。

 「ほっとしてますよ、そりゃ。こんなに選挙でハラハラしたのは久しぶりだ」
 というのは石原都知事の談。
 夕べのニュースではしつこいぐらい繰り返し流されていた。

 ライバル福岡市に比べると大分優位とされていた東京都だったが
 票分けは33対22と意外に僅差。
 行政主導で一般の関心も低い東京よりも
 熱意のある福岡市に入れた有権者も多かったということのようである。

 つまり
 「心情的には福岡オリンピックを推したいけど、
 現実問題となるとやっぱ東京かなー」

 という判断がこの結果を生んだということなのだろう。


 実は私も、
 この問題に関心があまり無いと言われる都民の一人なのだが、
 どうして「一般都民がもっと熱心になれないのか」ということを
 つらつらと考えてみた。

 まず考えられるのは、
 あくまでこれは「国内候補地」として決定しただけのことだ、
 という点。
 正式決定でもすれば盛り上がろうが、
 いくつもある世界の有力都市とまだまだわたりあわねばならないのだ。
 もしダメだったら熱心であればあるほどなんか恥ずかしいし・・・ネ

 それから、

 やったらやったでいいけれど、
 それより開催すれば発生する問題を指摘するほうが、
 なんかかっこいい気がするし・・・ネ
 (反体制って感じかな)

 そういう都会人(もしくは都会人ぶるひと)にありがちな
 変なスカしたところがあるからなのかな・・・?

 東京って大きくて便利でいい街なんだけれど、
 その反面、
 「顔の無い巨人」のように捕らえどこらがないというか、
 10何年暮らしても仮住まいのような素っ気無さがある。
 実際都内に住むようになっても
 私は高校野球で東京代表を応援したことが一度としてない。
 あたかも田舎者がそこを故郷と感じることへの畏れ多さ、というか。


 などとアレコレ考えて、
 その人生の2/3を東京暮らししている夫に聞いてみた。

 「ねえ、やっぱりこういうイベントって騒がない方が
  都会的なものかしらね」

 「・・・そんなことないでしょ?
  むしろ陣頭の都知事への反感から
  さめたこと言っているひとが多いんじゃない?」

 ・・・・!
 うーん、なるほど・・・

 そういえば、
 冒頭の「ほっとしてますよ、そりゃ」発言に、
 なんとなくイライラっとした自分を思い出した。

 案外、
 その辺りが盛り上がりを妨げる
 一番の原因だったりするのかもしれない・・・


 この結論、
 極端過ぎますか、ね・・・


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2006/08/29

8月31日

 もうすぐ夏が、終わる。

 この時期になって思い出すのは、

 それは、
 会社勤めを始めた最初の夏、
 その夏休みの少なさに唖然とした私が、
 ひとつだけ「社会人になってよかった」と思ったこと。

 それは
 心安らかに8月31日を迎えられること。

 それまでの8月31日は
 なんとなく落ち着かなくソワソワする日で、
 どんなに準備万端でこの日を迎えたとしても
 あまり朗らかには過ごせない日であったのだ。
 そしてそれは、
 例え9月1日より後に新学期が始まる学生のときであっても
 同じであった。

 「世の学生さんは大変だねー」
 なんてニヤニヤしながらその日を普通の夏の日として送る社会人の私。
 その頃の私にとっては
 8月31日は最早なんてことない普通の月末にしか過ぎなかった。


 が、それが変わったのはここ数年のこと。
 
 お察しの通り、
 子供が学校に上がってからである。 
 
 
 8月最後の週になると
 なんとなく殺気だってくる。

 宿題はやり残しは無いか?
 学校に持っていく学用品に不備は無いか?
 この長期の休み中にうっかり無くしてしまったものは無いか?

 ぼろぼろ出てくる「なんで今更!」という難題たち。
 がー!!!
 もっと早く言ってくれよぉぉ!!
 
 
 というわけで、
 8月最後のこの日は、
 またも我が家の

 「要注意日」

 に返り咲いているのであります。

 
 その日まで、あと2日・・・です。

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2006/08/24

「普通の国」

 一昨日、ラジオからこんなニュースが流れてきた。

 自民党ブロック大会で総裁選への「所信表明」演説にて
 安部官房長官が
 「新しい憲法を制定すべく、
 政治スケジュールに乗せるためのリーダーシップを発揮すべき時がやってきた」
 と述べ、首相在任中の憲法改正に意欲を示した。
 
 (詳しくはこちら参照のこと)

 ああ、いよいよ・・・
 
 この夏は、
 北朝鮮からミサイルが発射されたり
 靖国参拝への近隣諸国の反発に対する不快感からか、
 いわゆるタカ派と呼ばれる人々の元気がいい。

 多くのそうした人たちの意見がネット上にも満ちているが
 一部の感情的なものはさておいて
 その主張に目を通してみると、彼らにも
 国粋主義だとか右翼とかと乱暴に片付けられない点が往々にしてあるのに気付いてくる。
 特に膨大な資料に裏打ちされた理路整然とした冷静な意見に触れると
 「彼らの言うことにも一理ある」
 そんな気がしなくもなくなってくるのだ。
 (実は私自身は思春期のころから
 平和主義ほど大切なものはないと信じてきた者なので、
 そういう気分になること事態に我ながら驚いているのだが・・・)


 敗戦に始まった戦後の日本は、
 世界に稀な特殊な国であったのかもしれない。
 
 自分を他国に守ってもらう国。
 血を流さない代わりに
 言いたいことも言えない「みそっこ」のような国。

 それを彼らは今「普通の国」に戻そうとしているのだ。

 自国を守り、
 その繁栄を守り、
 それを支える国際システムを自力で守るような
 危険も伴うが義務も果たせる「普通の国」へと。
 
 その「普通の国」は一体どんな国なのだろうか?
 防衛への支出は今より当然多くなるのだろう。
 今の自衛隊のシステムでは力不足と判断されれば、
 徴兵制も導入されたりするのだろうか・・・
 (もっとも徴兵制自体は
 現代のハイテク戦争においては廃れていくものであって
 今後日本が徴兵制を導入する可能性はきわめて低いという
 意見もあるようだが。
 しかし為政者の都合で
 世の中なんて如何様にも変わっていってしまうもの、
 私たちの子供達が
 その意思と関係なく戦場に駆り出される日など絶対に来ないとは
 一体誰が言い切れるであろうか)
  
 彼らは言う。
 「今の繁栄のシステムを維持する義務を果たさずに、
 その利益だけを享受するのはもはや許されない。
 リスクを共に背負って今の状態を維持するか、
 それともそれを背負わずにこの繁栄から滑り落ちていくか、
 ふたつにひとつだ」と。

 どちらもいやだ、なんて言えない。
 では、どちらを選ぶ?
 

 本当に難しい。

 だが、
 ただひとつ言えるのは
 
 「普通の国」なんて言ってしまえば簡単なのだが、
 今のこの国にとっては
 その「普通の国」になるのもとてつもなく勇気がいる、ということ。
 
 少なくとも
 臆病者の私には、そんな気がしてならないのである。


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2006/08/22

「最後の誘惑」

 週末に実家へ子供を預けに行って帰ってきた月曜の朝。
 夫は既に出勤して家には誰もいない。
 その我が家のテーブルには1枚のDVDが置いてあった。

 タイトルは「最後の誘惑」

 おおぉぉ!
 ウィレム・デフォー主演の「最後の誘惑」だ!!
 どうやら、
 この前観たいと私が言っていたのを
 夫は覚えていてくれて
 私の留守中に買ってきていたようなのである。

 1988年公開のこの映画を
 まだ若かりし私は友達と観に行ったのだった。
 その当時は
 キリストへの冒涜の映画だとして
 上映禁止運動なども起こったなかなかの問題作であった。

 私はキリスト・イエスの生涯を描いた映画を
 今までに3本観たことがある。
 ミュージカルの舞台を映画化した「ジーザス・クライスト・スーパースター」
 それから受難を極めて正確に描いたという「パッション」
 そしてこの「最後の誘惑」。
 ひょっとするとこの3本のなかではこれが一番好きな映画なのかもしれない。

 人間イエスの苦悩を描いたとされる、
 この作品のことはずっと心に引っかかりながらも、
 再見することもなく記憶の片隅に押しやっていた私。
 ここに来て急に夫との会話に上ったのは
 やはりこの春の話題作「ダ・ヴィンチ・コード」の影響なのかな、
 などと思いながらワクワクして
 その夜、夫が帰宅するまでの一人の時間をその観賞に充てる。

 いやあ、やや長すぎるきらいもあるが
 大筋記憶どおりの見ごたえある作品であった。


 そもそも
 福音書に書かれている主イエスの生涯には、
 ほとんど「迷いや悩み」のようなものはなく、
 完成された「神の子」の姿がそこにはある。

 しかし、
 ほんのすこし、
 人としての彼の苦しみ、悩みが垣間見れるような発言も無くは無い。
 ゲッセマネの祈りの際の
 「この杯をとり除いてください・・・」(マタイ26章39節)とか、
 十字架の上の
 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マルコ15章34節)とか。

 その言葉が多くの人を悩ませる。
 主にもやはり迷いがあったのではないか?との疑念。

 実は聖書に通じた方の解説によると、
 それらの言葉には微塵の迷いも後悔もないとなっている。
 「この杯をとり除いてください」の後には、
 「しかし、わたしの願うようにではなく、
 あなたのみこころのように、なさってください。」
 となっていて自分の救世主としての役割を全うすることにいささかの躊躇もないのだし、
 「なぜ私をお見捨てになったのですか?」については
 詩篇に描かれている罪人の祈り(詩篇第22編第1節より)からの引用であって、
 見捨てられたのは主ではなく、罪人である人間のほうだということなのだ。
 その見捨てられた人間を救うための「あがない」として
 十字架に付けられているのを主は自覚されている。
 その主が、父である神を「自分を見捨てた」と恨んでいる訳ないのである。

 しかし映画公開当時、
 まだ若かった私はそんなことを知る由もなく、
 神の子である主イエスにも人の部分があり、
 その人としての恐怖や葛藤に苦しんだのだな、と思ったものだった。
 そしてその苦しみゆえに
 よりキリスト・イエスに対し親近感を感じたと言うか、
 その苦しみ・迷いゆえに余計その「あがない」が価値あるもの、
 人類を救ってくれる力をもったものとなった、と考えたのである。
 (正直この映画のどこが冒涜に値するのかがわからなかったぐらいであった。)


 哀しいサガなのだろうが、
 人間は「どれだけの犠牲を払ってくれたか」ということを
 感謝の尺度に用いてしまう生き物なのかもしれない。

 そして
 私自身がキリスト教に入信したのは
 痛みや苦しみを払ってまで犠牲になってくださったこと以上に、
 主ご自身が恐怖や迷い、苦悩の末にこの道を選ばれ歩んでくださったことへの
 驚愕と感謝ゆえだった。


 「最後の誘惑」、
 この映画は入信間もない私の心に
 大きな確信を与えた作品だったということ

 そのことを
 今あらためて思い知らされた昨夜のDVD観賞であった。


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2006/08/18

靖国でなければならない訳

 いまさら、という話題で恐縮であるが・・・
 3日前に世間を賑わした首相の参拝した靖国神社について。
 ニュースに繰り返し映し出される映像を観ながら、
 「何故靖国神社なのか?」
 という疑問が湧いてくるのを私は抑えきれないでいた。

 戦没者を悼むのにどうしてあの神社に参拝するのが不可欠になるのだろうか?
 特に終戦の日には国を挙げて追悼式をやっているのにもかかわらずに?

 この疑問を解決するためにも
 この神社がそもそもどういうものかをよく知っておく必要があるようだ。
 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
 靖国神社とは、

 「近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、
  朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、
  顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。」

 (詳しくはこちら参照のこと)
 
 そうである。
 「顕彰」とは、
 「隠れた善行や功績などを広く知らせること、
 広く世間に知らせて表彰すること」であり、
 「尊崇」とは、
 「あがめうやまうこと」らしい。(Yahoo辞書より)


 なぁるほど・・・

 つまり靖国神社とは、「民」のためではなく
 あくまで「政府」のために殉じた兵士を祀る神社であるらしい。
 どんなに民のためを思っていても、
 それが政府に反する側にいた人々であれば祀られることは無い。
 政府、いわゆるお上に認められたという
 名誉ある英霊のみが祀られるのである。
 

 以前、
 「軍隊」という海外テレビ局製作のドキュメンタリーを見たことがあった。
 その中で、イギリスかどこかの軍隊の士官学校の風景が映し出され、
 それがいかにも古式ゆかしく伝統にのっとった名誉ある生活であったのが印象に残っている。
 そこの学校長が次のように言う。
 「自分の命を懸けて国を守るのには、それに見合った名誉が必要なのです。
 自分は選ばれて国を守るのだという誇り、
 それがなければ誰が命を懸けて戦うことが出来るでしょうか。」

 名誉と誇り・・・

 靖国参拝にこだわる人々も、同じなのかもしれない。
 命を懸けて戦った人々が、
 多くの人々に感謝され崇め奉られる、
 さらに国を代表する首相が公式に参拝する、
 国を挙げてその散った命に敬意を表してくれのは、
 当たり前ではないのか?
 
 A級戦犯の遺族とて、同じ気持ちなのだろう。
 戦犯の汚名を負いはしたが、
 それは戦勝国の判断なのだから、
 どうしてその国を思う気持ちまでもが否定されようか?
 そういう意味で靖国に祀られるのは当然ではないのか?
 

 同じく終戦の日、
 この日に行われる全国戦没者追悼式は、
 あくまで、「追悼」である。
 名誉と誇りとは関り無い「死者を悼む」式典である。

 それでは、その死があまりにも哀しい・・・
 彼らの死はもっと意味があり美しいものだったはずなのに・・・!


 でも、考えてみていただきたい。
 
 死とはやはり、
 哀しいだけのものなのではないのか?
 
 美しい「死」、名誉ある「死」など本当にあるのだろうか。
 
 それが、
 哀しいだけの「死」であったことを認めることこそが
 その「死」を価値あるものへとするのではなかろうか?

 美化された「死」が
 次の多くの「死」を生み出さないためにも・・・
 
 
 なんて、
 身内を一人として戦争で失っていない
 私のような者だから
 言えるのかもしれないが・・・


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2006/08/11

manではなくwoman

 昔むかし、あるテレビドラマで小耳に挟んだ会話。
 
 夫「・・・いや、『女』ってのはヒトじゃあないんだね。」
 妻「え?」
 夫「いや、ヒトって英語ではmanだろ、
   女のwomanはいわば『ヒトではないもっと別の何か』
   であることを表しているんじゃないかな、と思って・・・」
 妻「・・・
   どおりで、
   貴方が私と見るときたまに
   化け物でも見るような顔をする訳ね。」

 このあと、妻はニヤリと笑い、
 夫のほうは何ともばつの悪そうな恐れ入ったという表情をして
 そそくさとその場を立ったような・・・
 この夫婦は妻の方が一枚も二枚も上手なのだ、
 そんなことがじんわりと伝わってくるようなシーン。


 もちろん、
 この夫君がなんと言おうと
 「女」はヒトなのである。
 manではなく、womanであってもそれは動かしがたい事実だ。

 しかし、
 年を重ねていくうちに私も
 夫君の仰ることもあながちウソではないような気がしてきているのだ。
 なんと言ったらいいのか、
 女には男以上に
 ヒトである前に「女」であるようなところがある、と言うか・・・
 またはヒトと見られる前に「女」と見られていると言うか・・・
 
 「女性初の・・・」
 「女性でありながら・・・」
 「女性らしさを活かした・・・」
 二言目には出てくる手垢がついたような決まり言葉。
 偉業をなした女性に
 必ずと言ってよいほどつけられる枕詞たち。

 もちろんそれは、
 今まで男性中心の社会が続いたという歴史ゆえのことなのだろう。
 これからは、
 どんどん社会も変わっていくことであろうから、
 そんなことも最早
 遠い昔の話になる日がくるのも近いのかもしれない。


 果たして
 そのときもやはりmanがヒトを意味する言葉であり続けているのだろうか?
 

 が、しかし

 実は、私、
 ヒトである前に「女」であるという、
 この「女の特性」を こっそり「いいな」と思ったりしているのだ。
 (ジェンダーフリーの人たちには
 「けしからん」と叱られてしまいそうだけれど。)

 道徳とか、倫理とか、理屈とか
 そんなものとは切り離して考えてみても、
 「女」という生物の
 本能的な存在価値が認められる、
 そんな気がするからか・・・

 ちょっと「オメデタイ」だけなのか・・・?

 でも
 やっぱり、
 「女に生まれて良かった」
 なんて思う私。

 きっと隣にいる我が夫も
 「男に生まれて良かった」
 と口には出さないが思っているのだろうけれど・・・


 <お知らせ>
 8/11夜から8/17まで帰省のためネットから離れます。
 帰京したらまた宜しくお願いします

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2006/08/03

ラムネとビー玉

 私が子供のころには
 それは既に、コーラなどにその王座を明け渡していた。

 ビー玉が栓になっている
 あの独特のガラス瓶に詰められた清涼飲料、ラムネ。
 実際幼い私にとって
 ラムネといったら干菓子のようなクッピーラムネを指していたし・・・
 しかし
 少し大きくなってくると
 急にそのガラス瓶の不思議に興味を持った方も多いのではなかろうか。

 なぜ栓がビー玉なのか?
 あのビー玉はどうやって瓶にいれるのか?
 何故腰を絞った形なのか?
 それにその絞りのやや上に2つばかり丸い窪みが並んでいるのは何故なのか?


 実はついこの間、
 全く偶然聴いていたラジオから、
 私はこれらの疑問への答えをいくつか得ることが出来た。

 それは横浜のラーメン博物館で
 明治大正の頃使われたラムネの瓶への充填機を復元して
 顧客にラムネの瓶詰めを体験してもらうコーナーが出来たという
 ニュースから出た話題であった。

 まずはビー玉の栓について。
 あれはガラス玉が飲み口のゴム・パッキンに吸い付くことで
 瓶内を密封することを可能にした19世紀イギリスの発明品であること。
 このビー玉はラムネを瓶に充填する際に発生する炭酸ガスにより押し上げられて飲み口のゴム部に吸い付き密着するのだそう。
 余談であるが、
 あの栓であるビー玉はかなり精巧な真球であることが
 要求されているとのこと、
 そういう意味で実はあれはビー玉(B級玉)ではなく
 エー玉(A級玉)であるらしい。
 だが、いわば栓としては不良品であったB級玉を子供用玩具として売り出したところ大当り、
 こちらの名称のほうが一般に広がりああいうガラス玉をビー玉と総称するようになったとか。
 ちょっとしたトリビア・・・

 次にビー玉をどうやって瓶の中に入れるかだが
 こちらのほうは意外と他愛も無いことであった。
 瓶の口を最初はビー玉の入れるくらいの大きさにして
 入れた後で熱して口を細くするのである。
 もっとも昔は胴部と口部を分けて作り、ビー玉を入れてから溶接していたときもあったらしい。
 いずれにせよタネ明かしされると、
 どうしてそんなことに気付かなかったのかと
 自分の頭の硬さに苦笑したくなるようだ。

 そして腰が絞られている形とふたつの丸い窪みの謎は?
 腰のほうは実はよくわからなかったのだが、,
 絞っていた方が持ちやすいとか
 外れたビー玉栓が瓶底まで落ちないようにして
 風鈴のような清涼感のある音をよりよく響かせるための工夫なのかもしれない。
 またふたつの丸い窪みのほうも私の推測なのだが、
 瓶を傾けて中身を注ぐとき、
 外れたビー玉栓が瓶口まで戻ってこないようにする
 「ひっかかり」のようなものではないかと思うのだ。
 もっともあの丸い窪みの側をちゃんと下にして
 ラムネを注いでいる人が何人いるかは疑問だが・・・
 (私もそんなことほとんど気にしてもいなかった。)

 うーん、こうやって書いているとラムネ瓶って奥が深い。
 密封瓶の栓として
 王冠やスクリューキャップを生み出す技術がなかった時代の
 人々の創意工夫の努力が伝わってくるようだ。
 夏休みの自由研究のテーマに
 このラムネ瓶の仕組みなんてもの結構いいかも・・・


 さて、その晩のこと。
 買い物先で「ラムネ1本88円」という表示を見かけた私は
 早速それを3本買い求めていた。
 こどもと一緒に
 ラムネ瓶の不思議を体験したかったからである。

 家に帰って冷えるのを待ちわびて飲んでみる。

 カラカラン、

 と音が鳴る
 そのとたん涼風がさっと吹く

 浴衣なんぞ着て
 「美味しいでせう」
 なんて言いあいながら飲み干す・・・

 そんな絵が似合う

 古きよき飲み物―ラムネを

 再発見した夜、となった・・・

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2006/08/01

甘美なる快感

 30を過ぎたあたりからか、
 どうも、涙もろくなってきた気がする。

 幼いころはちょっとしたことでもすぐ泣く泣き虫、
 それが不思議なことに思春期のころには、
 皆が感極まって泣くようなシーンにもしらけ顔で突っ立っている皮肉屋だったのが、
 このごろはちょっとした場面ですぐうるうるする。

 確かに
 泣いて泣いて泣いて、
 泣きじゃくるなんてことはさすがに無くなったが、
 夜、あまりの切なさに
 布団の中で声を押し殺して嗚咽するなんてことも数年前には何度か。
 また、
 もっと若いときには
 暗い部屋でひとりきり仰向けになって
 次から次に溢れ出てくる涙をそのままに
 天井をただ睨んでいたこともあった。
 仕舞には、
 流れてくる涙が顔を伝って流れ落ちるのが
 何とも甘く心地よくなってくる。
 そうなると
 涙が出なくなってくるのが
 なんだか惜しいような気すらしてきて
 故意に泣きたくなるような気分を引き立てたりして・・・


 「『泣く』ということはとてもいいストレス解消なんだよね」

 そう、あるひとに言われたことがあった。
 「女の人がストレスを溜め込まないのは、泣くことができるからなんじゃないかな」

 まだまだ青かった私だったから
 そんなこと言われた日にゃ、
 (そんな、男とか女とかの話に置き換えるなよ!)と
 つんつんとんがった気分になったが、
 それでも、
 「泣く」ということが、
 甘美な快感を伴っていることは
 否定しがたかった。

 なんというか
 「泣く」とは
 ある種とても「ナルシスティック」な感覚であり行為なのだ。


 「この秋一番泣ける作品!」
 「感動の涙が後から後から止まりません」

 そんなキャッチフレーズの
 世に言う「感動大作」ってのは
 そうした快感を提供する
 ものすごいサービス作品なのかもしれない。

 みんな、
 涙を流すために先を争ってその作品を鑑賞する。
 そうやって「泣く」ことで、
 私たちが得るものは一体何なのか。

 ストレスの解消か?
 感動できる自分の再確認か?

 もちろんそれらもあるのだろうが、
 もっと単純な
 涙が頬を伝うあの感触、あの快感も
 けっして小さいものではないような・・・

 そんな気がする
 今も昔も「泣き虫」の私、なのだ。

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