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2006/08/24

「普通の国」

 一昨日、ラジオからこんなニュースが流れてきた。

 自民党ブロック大会で総裁選への「所信表明」演説にて
 安部官房長官が
 「新しい憲法を制定すべく、
 政治スケジュールに乗せるためのリーダーシップを発揮すべき時がやってきた」
 と述べ、首相在任中の憲法改正に意欲を示した。
 
 (詳しくはこちら参照のこと)

 ああ、いよいよ・・・
 
 この夏は、
 北朝鮮からミサイルが発射されたり
 靖国参拝への近隣諸国の反発に対する不快感からか、
 いわゆるタカ派と呼ばれる人々の元気がいい。

 多くのそうした人たちの意見がネット上にも満ちているが
 一部の感情的なものはさておいて
 その主張に目を通してみると、彼らにも
 国粋主義だとか右翼とかと乱暴に片付けられない点が往々にしてあるのに気付いてくる。
 特に膨大な資料に裏打ちされた理路整然とした冷静な意見に触れると
 「彼らの言うことにも一理ある」
 そんな気がしなくもなくなってくるのだ。
 (実は私自身は思春期のころから
 平和主義ほど大切なものはないと信じてきた者なので、
 そういう気分になること事態に我ながら驚いているのだが・・・)


 敗戦に始まった戦後の日本は、
 世界に稀な特殊な国であったのかもしれない。
 
 自分を他国に守ってもらう国。
 血を流さない代わりに
 言いたいことも言えない「みそっこ」のような国。

 それを彼らは今「普通の国」に戻そうとしているのだ。

 自国を守り、
 その繁栄を守り、
 それを支える国際システムを自力で守るような
 危険も伴うが義務も果たせる「普通の国」へと。
 
 その「普通の国」は一体どんな国なのだろうか?
 防衛への支出は今より当然多くなるのだろう。
 今の自衛隊のシステムでは力不足と判断されれば、
 徴兵制も導入されたりするのだろうか・・・
 (もっとも徴兵制自体は
 現代のハイテク戦争においては廃れていくものであって
 今後日本が徴兵制を導入する可能性はきわめて低いという
 意見もあるようだが。
 しかし為政者の都合で
 世の中なんて如何様にも変わっていってしまうもの、
 私たちの子供達が
 その意思と関係なく戦場に駆り出される日など絶対に来ないとは
 一体誰が言い切れるであろうか)
  
 彼らは言う。
 「今の繁栄のシステムを維持する義務を果たさずに、
 その利益だけを享受するのはもはや許されない。
 リスクを共に背負って今の状態を維持するか、
 それともそれを背負わずにこの繁栄から滑り落ちていくか、
 ふたつにひとつだ」と。

 どちらもいやだ、なんて言えない。
 では、どちらを選ぶ?
 

 本当に難しい。

 だが、
 ただひとつ言えるのは
 
 「普通の国」なんて言ってしまえば簡単なのだが、
 今のこの国にとっては
 その「普通の国」になるのもとてつもなく勇気がいる、ということ。
 
 少なくとも
 臆病者の私には、そんな気がしてならないのである。


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コメント

Bachさん、こんにちは。

仰るとおり残念ながら、平和主義という理想は弱肉強食の乱暴者の前にはほとんど役に立たないものであることは確かなことですね。
その辺が私にこの問題について判断を迷わせる一番の理由でもあります。
それについてはもっとよく勉強しなければなりませんね。

いつにも増して熱の入った丁寧なコメントをありがとうございました。


投稿: ぞふぃ | 2006/08/29 17:38

ぞふぃさん,お久し振りです。
貴方には珍しく(?)政治ネタを2題エントリーされましたね。
私はしばらく傍観してたのですが,ぞふぃさんの次の一言でコメントしようと思いました。

>そんな気がしなくもなくなってくるのだ。

いつものぞふぃさんらしからぬ何とも持って回った表現ですね(笑!
いかにも種々の意見に判断しかねているという思いがこもっています。
『靖國問題』も『普通の国』の問題も,判断する軸の取り方によって,オセロゲームみたいに白黒が反転します。
私はまず,世界情勢から見た日本の現状分析をどう見極めるかで判断すべきだと思っています。いわば,政治的判断を優先するという立場です。そのために『普通の国』などという表現は出てきません。なぜならば,世界中のそれぞれの国は国情が違い,抱える問題が異なるので何が普通なのかなど言えないからです。
日本が理想とする国の姿を問うことはできるでしょう。そして,それぞれの国が共存共栄のために相互が努力し合えるならば「スタンダード→標準→普通」はありえるかもしれません。が,例えば,自由主義国家と中国のような一党独裁国家では,現実的には不可能ですね。
片や国際海洋条約を無視して自国のルールでガス田開発を進める国と,律儀に条約を守っている日本では折り合いは先ずつきません。徹底して彼の国は日本の言うことを無視し続けるだけです。かと言って国連がしっかり調整をつけてくれるかというと,国連もそんな力量は持ちません。中東が紛糾し続けているのはその証拠ですね。どの国も,自国の国益を優先することが政府の最大課題なのですから。
どんなに綺麗事を並べても,現実に地球上で起きている現象は弱肉強食の力の論理の上に成り立っています。だからこそ北朝鮮もミサイルと核に頼ろうとしている。そこを認めるかどうかが,これらの原初にある論点だと思うのですが・・・。

いやいや,また長くなりそうですから結論です!
世界に向けて政治的判断を訴えることと,国内向けに理想を論じたり,主義主張をすることは明確に区別をつけるべきです。日本人が自分達が行ってきた事実を正しく歴史的に解釈し,評価するということは必要でしょう。また,文化論的に隣国と相互理解を深めることも必要でしょう。しかし,現在,この時点で日本が置かれている政治的立場(日本は戦後60年間まったくいじめられ続けている弱者の立場だと思うのですが)から,どのようにメッセージを発すれば日本の国益に合致する方向に向かうかを考えることを先ず優先させるべきだと思います。それを混乱させるために隣国は情報戦をしかけてきますし,政治的分断工作を行っています。
日本が軸をしっかり持ち,自国の国益に沿う発言を明確にしなければ,中国は毛沢東以来首尾一貫して行ってきた戦略的政策により,台湾,朝鮮半島と同様に,日本を近い将来呑み込むでしょう。それが戦略と自己主張を持たない日本の政治の終焉です。その時,世界地図から日本は消えてなくなるのです。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のように。

投稿: Bach | 2006/08/29 16:19

おーとさん、レス遅くなってすみません。
そして私の中途半端な意見への好意的なコメントをありがとうございます。

>日本をどんな国にしていくのか、そのために何をすべきなのか、そういう議論を政治の場でもマスメディアでももっと真面目にやっていただきたいです。

そうですね、本当にその通りだと思います。
今回この記事を書いたりコメントをいただいたりで思ったのですが、大切なのはよく議論をかさねることなのだと思います。
そして「議論」をするにまず大切なのは「相手の意見に耳を傾けること」。
今の状況は改憲派も護憲派も互いに「どうせ聞き耳も持たず持論に固執しているんだろう」というような先入観を打破できないでいるような気がしてなりません。
でも本当にそうなのでしょうか。
まず、相手をこの議論にて打ち負かそうというハナからの考えを捨て去ることが出来れば、意外と新しい道は開かれていくような気が、私にはしてならないのです。

投稿: ぞふぃ | 2006/08/28 17:22

ぞふぃさんのご意見に共感します。甘えを脱して「普通の国」になるべきというのは、つまり「自分で責任を持つ国」になるということですよね。自主憲法を制定して、自衛できる軍隊を持てば、それで責任を持てる国になるのかというと、どうも本末転倒気味のような気がします。日本の場合、先ずは国民が自分自身で国の行く方向を決めていく自覚を持つことが先決でしょう。日本をどんな国にしていくのか、そのために何をすべきなのか、そういう議論を政治の場でもマスメディアでももっと真面目にやっていただきたいです。
その過程では、甘ちゃん平和主義の意見も、米国追随主義の意見も、大いに結構じゃないですか。理想主義では何も解決できませんが、理想を無くしたら堕落するのみです。崇高な平和主義を掲げつつ現実的な解決策を模索していく、そんな国になれれば良いと思います。

投稿: おーと | 2006/08/27 00:37

dalinekoさん、コメントありがとうございます。

>常日頃、平和主義を唱える人たちが、どこまで、今享受している豊かさを捨てる覚悟があるのか、気になっていました。

ううむ、核心に迫るご指摘ですね。
しかし「平和主義と豊かさは絶対に両立しないものなのか?」という疑問も湧いてきます。つまり今の豊かさとは異なるけれど別の形での国の在りようは探れないものなのでしょうか?
正直な話「貧しさゆえに明日への希望も無くなるような社会」でないのなら「非戦」を選ぶ道もアリなのではと私は思っています。
またたとえ戦うのだとしても、自国陣営に富を独占しようという目的ではなく、あくまで主権と自由を守るために戦いたい、そう思うのです。

・・・こう書きながら「何とも夢のようなことを書いているなぁ」と苦笑してしまいますがね。
ただ世の中も絶対普遍のものではないのだから、理想を追求しながらお腹も満たせるそんな世がいずれ来ないともかぎりません。
その過度期の実験的な国になるなんて、ちょっとわが国には荷が重過ぎるのでしょうか。

自国を防衛し主権を守る国家としてしかもこの多くの国民を養うのには、アメリカ陣営と組まざるを得ないとは思うのですが、ただこの60年私達が信じたり守ろうとしてきたものは、全く絵空事だったのか、というのも納得し難い。そんな事を考える甘ちゃん平和主義者の悪あがきのようなものなのかもしれません(苦笑)。

いや、支離滅裂なことを長々と書き失礼致しました。
でもdalinekoさんのコメントのおかげでまた更にこの問題についての考察が出来たこと、深く感謝いたします。
どうもありがとうございました。

投稿: ぞふぃ | 2006/08/26 17:18

こんにちは、nofumoさんのところから廻ってきました。時々訪問しておりましたが、コメントは今回が初めて。まさに、「意外!」です。ぞふぃさんのところで、普通の国について、そのスタンスで語ってくれるか!つい嬉しくなってしまいました。常日頃、平和主義を唱える人たちが、どこまで、今享受している豊かさを捨てる覚悟があるのか、気になっていました。捨てるまでして守るものが、「非戦」という自分の納得だとしたら、その勇気の使い道をもう一度考えてみても良いのではないかと思っています。

投稿: delineko | 2006/08/25 20:57

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