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2006/08/18

靖国でなければならない訳

 いまさら、という話題で恐縮であるが・・・
 3日前に世間を賑わした首相の参拝した靖国神社について。
 ニュースに繰り返し映し出される映像を観ながら、
 「何故靖国神社なのか?」
 という疑問が湧いてくるのを私は抑えきれないでいた。

 戦没者を悼むのにどうしてあの神社に参拝するのが不可欠になるのだろうか?
 特に終戦の日には国を挙げて追悼式をやっているのにもかかわらずに?

 この疑問を解決するためにも
 この神社がそもそもどういうものかをよく知っておく必要があるようだ。
 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
 靖国神社とは、

 「近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、
  朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、
  顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。」

 (詳しくはこちら参照のこと)
 
 そうである。
 「顕彰」とは、
 「隠れた善行や功績などを広く知らせること、
 広く世間に知らせて表彰すること」であり、
 「尊崇」とは、
 「あがめうやまうこと」らしい。(Yahoo辞書より)


 なぁるほど・・・

 つまり靖国神社とは、「民」のためではなく
 あくまで「政府」のために殉じた兵士を祀る神社であるらしい。
 どんなに民のためを思っていても、
 それが政府に反する側にいた人々であれば祀られることは無い。
 政府、いわゆるお上に認められたという
 名誉ある英霊のみが祀られるのである。
 

 以前、
 「軍隊」という海外テレビ局製作のドキュメンタリーを見たことがあった。
 その中で、イギリスかどこかの軍隊の士官学校の風景が映し出され、
 それがいかにも古式ゆかしく伝統にのっとった名誉ある生活であったのが印象に残っている。
 そこの学校長が次のように言う。
 「自分の命を懸けて国を守るのには、それに見合った名誉が必要なのです。
 自分は選ばれて国を守るのだという誇り、
 それがなければ誰が命を懸けて戦うことが出来るでしょうか。」

 名誉と誇り・・・

 靖国参拝にこだわる人々も、同じなのかもしれない。
 命を懸けて戦った人々が、
 多くの人々に感謝され崇め奉られる、
 さらに国を代表する首相が公式に参拝する、
 国を挙げてその散った命に敬意を表してくれのは、
 当たり前ではないのか?
 
 A級戦犯の遺族とて、同じ気持ちなのだろう。
 戦犯の汚名を負いはしたが、
 それは戦勝国の判断なのだから、
 どうしてその国を思う気持ちまでもが否定されようか?
 そういう意味で靖国に祀られるのは当然ではないのか?
 

 同じく終戦の日、
 この日に行われる全国戦没者追悼式は、
 あくまで、「追悼」である。
 名誉と誇りとは関り無い「死者を悼む」式典である。

 それでは、その死があまりにも哀しい・・・
 彼らの死はもっと意味があり美しいものだったはずなのに・・・!


 でも、考えてみていただきたい。
 
 死とはやはり、
 哀しいだけのものなのではないのか?
 
 美しい「死」、名誉ある「死」など本当にあるのだろうか。
 
 それが、
 哀しいだけの「死」であったことを認めることこそが
 その「死」を価値あるものへとするのではなかろうか?

 美化された「死」が
 次の多くの「死」を生み出さないためにも・・・
 
 
 なんて、
 身内を一人として戦争で失っていない
 私のような者だから
 言えるのかもしれないが・・・


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コメント

まずは、コメントを下さったお二人にレスが遅くなったことについて心よりお詫び申し上げます。
金曜の夜から月曜の朝まで今度は私自身の実家に行っていたものですので・・・
本文に断り書きをしておくべきでした。
本当にすみませんでした。

さて、ではあらためて・・・

>ゴトウさん、真摯なコメントをありがとうございました。お祖母様のことはゴトウさんの記事から拝察いたしておりましたが、そのとおりの方だったのですね。情に厚く、それでいて物事にとらわれない自分自身をしっかり持ったような・・・若くして亡くなられた大叔父上のご冥福、心よりお祈り申し上げます。そのご無念さを思うと、より「戦死」を美化してはならないと、それは亡くなられた方々に対する私たちの義務でもあると強く思います。

>おーとさん、私の拙い文章を補ってくださるような丁寧な書き込みをありがとうございます。
以前、おーとさんがコメントしてくださったもので、「若い人たちのイノセントな右傾化」を心配するものがありましたよね。
あのとき私は楽天的なレスを返した気がするのですが、残念ながら今回は私も大分悲観的な気分にさせられました。「かっこいい」という表面的な基準が若者たちの判断を大きく左右しているように思えたからなのです。
はっきりNO!と言える国、外国からの干渉を突っぱねる国、それは確かに「かっこいい」ように見えるのかもしれません。
でも、「非を非と自ら認める、もしくは諸外国の誤解を解く努力を重ねる」姿こそがたとえ見た目はかっこ悪くても在るべき姿なのではないでしょうか。

お二人へのレスを書き終えてあらためて私の意見を書かせていただきます。
冷静に考えてみればみるほど、靖国神社は国を挙げて参拝するような神社ではないと思います。A級戦犯云々とは関係なく、あそこは「政府のための戦死者」を「祭神」として祀りその名誉を称えるところなのだから・・・
不戦の決意をした平和国家を標榜する国なのなら、そこへ公に参拝することは不適切なのではないでしょうか。
もちろん、「平和憲法は外国の押し付け憲法であって、不戦平和という理念なんてうわべだけのものだ」というのがこの国の実態だ、というのなら話は別ですけれど・・・

投稿: ぞふぃ | 2006/08/21 13:01

靖国参拝の問題が頻繁に報道されている割に、靖国とは何なのかという観点での議論は余り聞くことができませんよね。恐らく今では国民の過半が正しい理解すらしていないと思います。「反戦の思いを新たにするために参拝する」とか言いますが、本心は身内・先輩への墓参りのような思いと、終戦によって全否定された戦前の自分自身に対する自己弁護とかノスタルジーのようなものではないかと思ってます(政治家の場合は票になるとかどうとか別の余計な計算があるのかも知れませんが…)。これらが個人的な思いである限りにおいては仕方ない面もあるのでしょうが、国民として是非を問われるならば問題無しとは言えない筈。どうも政治家はこの辺りをわざと曖昧にして国民の目をそらそうとしている(マスコミも同じ?)と思えてなりません。
戦争を経験したことも無い我々以下の世代には軍用機や迷彩服を単純に「カッコ良い」と思う人達がいます。中国や韓国に靖国参拝を批判されて、感情的に「よその国のことに口出しするな」と思う若い人も多い筈です。自衛隊や憲法改正や靖国参拝を批判される謂れが無いのであれば、しっかりした根拠を示して国際世論に理解を訴えていくべきなのに、政治家は誰も努力をせず、国民も思考が停止している… 危険な兆候だと思います。

投稿: おーと | 2006/08/19 13:42

ぞふぃさん、本当におっしゃるとおりだと思います。名誉ある死なんてない。せっかく生を受けたのに、それを全うできない死は悲しみをもたらすだけですね。
私の祖母の弟は中国で戦死しましたが、祖母は1度も靖国神社に参拝に行ったこともないですし、そもそも弟の戦死を話題にもしませんでした。それだけ悲しみが深かったのだと思います。

どうか直接戦争や戦争を体験した人を知らない子供たちの世代にこの思いが受け継がれていくように!

投稿: ゴトウ | 2006/08/18 21:19

この記事へのコメントは終了しました。

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