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2006/08/22

「最後の誘惑」

 週末に実家へ子供を預けに行って帰ってきた月曜の朝。
 夫は既に出勤して家には誰もいない。
 その我が家のテーブルには1枚のDVDが置いてあった。

 タイトルは「最後の誘惑」

 おおぉぉ!
 ウィレム・デフォー主演の「最後の誘惑」だ!!
 どうやら、
 この前観たいと私が言っていたのを
 夫は覚えていてくれて
 私の留守中に買ってきていたようなのである。

 1988年公開のこの映画を
 まだ若かりし私は友達と観に行ったのだった。
 その当時は
 キリストへの冒涜の映画だとして
 上映禁止運動なども起こったなかなかの問題作であった。

 私はキリスト・イエスの生涯を描いた映画を
 今までに3本観たことがある。
 ミュージカルの舞台を映画化した「ジーザス・クライスト・スーパースター」
 それから受難を極めて正確に描いたという「パッション」
 そしてこの「最後の誘惑」。
 ひょっとするとこの3本のなかではこれが一番好きな映画なのかもしれない。

 人間イエスの苦悩を描いたとされる、
 この作品のことはずっと心に引っかかりながらも、
 再見することもなく記憶の片隅に押しやっていた私。
 ここに来て急に夫との会話に上ったのは
 やはりこの春の話題作「ダ・ヴィンチ・コード」の影響なのかな、
 などと思いながらワクワクして
 その夜、夫が帰宅するまでの一人の時間をその観賞に充てる。

 いやあ、やや長すぎるきらいもあるが
 大筋記憶どおりの見ごたえある作品であった。


 そもそも
 福音書に書かれている主イエスの生涯には、
 ほとんど「迷いや悩み」のようなものはなく、
 完成された「神の子」の姿がそこにはある。

 しかし、
 ほんのすこし、
 人としての彼の苦しみ、悩みが垣間見れるような発言も無くは無い。
 ゲッセマネの祈りの際の
 「この杯をとり除いてください・・・」(マタイ26章39節)とか、
 十字架の上の
 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マルコ15章34節)とか。

 その言葉が多くの人を悩ませる。
 主にもやはり迷いがあったのではないか?との疑念。

 実は聖書に通じた方の解説によると、
 それらの言葉には微塵の迷いも後悔もないとなっている。
 「この杯をとり除いてください」の後には、
 「しかし、わたしの願うようにではなく、
 あなたのみこころのように、なさってください。」
 となっていて自分の救世主としての役割を全うすることにいささかの躊躇もないのだし、
 「なぜ私をお見捨てになったのですか?」については
 詩篇に描かれている罪人の祈り(詩篇第22編第1節より)からの引用であって、
 見捨てられたのは主ではなく、罪人である人間のほうだということなのだ。
 その見捨てられた人間を救うための「あがない」として
 十字架に付けられているのを主は自覚されている。
 その主が、父である神を「自分を見捨てた」と恨んでいる訳ないのである。

 しかし映画公開当時、
 まだ若かった私はそんなことを知る由もなく、
 神の子である主イエスにも人の部分があり、
 その人としての恐怖や葛藤に苦しんだのだな、と思ったものだった。
 そしてその苦しみゆえに
 よりキリスト・イエスに対し親近感を感じたと言うか、
 その苦しみ・迷いゆえに余計その「あがない」が価値あるもの、
 人類を救ってくれる力をもったものとなった、と考えたのである。
 (正直この映画のどこが冒涜に値するのかがわからなかったぐらいであった。)


 哀しいサガなのだろうが、
 人間は「どれだけの犠牲を払ってくれたか」ということを
 感謝の尺度に用いてしまう生き物なのかもしれない。

 そして
 私自身がキリスト教に入信したのは
 痛みや苦しみを払ってまで犠牲になってくださったこと以上に、
 主ご自身が恐怖や迷い、苦悩の末にこの道を選ばれ歩んでくださったことへの
 驚愕と感謝ゆえだった。


 「最後の誘惑」、
 この映画は入信間もない私の心に
 大きな確信を与えた作品だったということ

 そのことを
 今あらためて思い知らされた昨夜のDVD観賞であった。


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コメント

おーとさん、再度の書き込みをありがとうございます。

おーとさんがご自身で納得のいく人生を歩まれますよう、お祈り申し上げます。
そこにキリストが少しでも介在するようなことであれば、これほど嬉しいことはありませんね。
それは普段から伝道なんてひとごととしている私の、良心の呵責から来るささやかな願いなのかもしれませんが。
・・・・いや、失礼致しました。

投稿: ぞふぃ | 2006/08/29 12:40

ぞふぃさんの温かいお言葉、身にしみます。ちょっと救われた気分になります。感謝です。
真剣に信仰を求めていた(求めている気になっていた)のは遥か昔の青春時代のお話で、今では快楽主義の無能な罪人であります(笑)。ただ、信心は無くとも、今でもキリストを比較的身近に感じることができるのは、ありがたいと思ってます。
再び教会に通える日々がやってくるとすれば、我が人生の終わりを意識して総括して振り返れるようになった時点なのかなぁ、なんて思ったりします。

投稿: おーと | 2006/08/28 23:11

おーとさん、こちらへの書き込みもありがとうございました。

うーん、こんなことを申し上げてもいいのやら・・・私は本当にけしからぬ信者であって、正直なところこのブログ上でその信仰を語るなどなど出来るような者ではないのですよ。
教会に所属はしていますが、それだって胸をはれるような関りでもないし。

一方おーとさんはとても真摯に「信仰を求められている」のですね。今までと同様、これからも「求め」続けてくださると大変うれしいです。そしてそれで十分なのだと思います。
信仰とは、必ずしも教会に属すことが最低条件なのではなく、求め続けることだと私は思うから。

もちろん、その結果教会の門を叩いてくださればこんなにうれしいことはありませんが、そのために安心して形骸化した信仰に陥るくらいなら求道し続ける非クリスチャンもままでいるのほうがずっとよい、と信者の癖にとんでもないこと考えている私なのです。

投稿: ぞふぃ | 2006/08/28 17:51

ぞふぃさんやゴトウさんの入信に関するお話、興味深いです。私は中高生時代にラジオ放送からキリスト教の世界に入り、通信講座で教えを学びましたが、住んでいたのがクソ田舎で近くに教会も無く、それに親に知れたら勘当されそうでしたので、ずっと「大学に入って下宿したら教会に通うぞ~」と心に秘めていたのでした。でも一人ぼっちで何年も思いを温めているうちに私の信心はどんどん昇華していってしまって、晴れて教会通いができるようになった頃にはどうも教えがしっくり心に入らなくなってしまったのです。結局教会通いは数ヶ月で断念することになってしまったんですが、もっと早くクリスチャンの方々と交流できていれば入信できたかも知れない、と今でも思ってます。

投稿: おーと | 2006/08/27 00:57

ゴトウさん、こんにちは。
私も「ジーザス・クライスト・スーパースター」は印象に残っています。
「へぇーこの歌もここから生まれていたのか!」ってのがごろごろありましたね。私がよく覚えているのは、マグダラがイエスの足に香油をぬるとき歌っていた歌かな。
あ・・・こう書いているうちにこっちもまた観たくなってきました(笑)。
コメントありがとうございました。

投稿: ぞふぃ | 2006/08/23 12:42

ぞふぃさん、私もちらっとテレビで『最後の誘惑』観たような記憶があります。個人的には『ジーザス・くらいスト・スーパースター』のほうが印象に残っています。ヘロデ王の歌とか。

>「しかし、わたしの願うようにではなく、
 あなたのみこころのように、なさってください。」
は、「これじゃあんまりだ」と後世に付け加えられたと聞いたことがあります。それもあんまり。

私もぞふぃさんと同じで、人間イエスが悩み苦しんだところに共感します。「天の父」だけだったらキリスト教に改宗してなかったでしょうね(笑)。

投稿: ゴトウ | 2006/08/22 22:21

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