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2006/09/28

温かさと涼しさと

 めっきり秋めいてきましたね。
 朝晩のひんやりとした空気が心地よく感じられる季節になりました。

 でも
 わたしが好きなのは
 そんな「朝の爽やかさ」よりも
 むしろ「夜の肌寒さ」。
 うすら寒い秋の夜、
 身体を寄せ合って感じる温かさを心地よく思う
 その瞬間なのです。
 

 不思議なものです。

 涼しさは
 安心や安堵感を生み出しますが
 それは幸福感とは少し違う。

 温(暖)かさにこそ
 浮き立つような幸せや喜びを感じるのは
 何故なのでしょうね。
 
 
 肌を寄せ合い
 ともに体温を補い合う

 その行為そのものが
 ひとにはなくてはならないものだから、
 なのかもしれません。


 ・・・と、
 ここまで書いてしまって気が付きました。

 それでは、
 一年中暑い国の人々は一体どんなふうなのだろうか、と。
 彼らは
 触れあって暖をとる幸せを味わわずに
 その一生を終えるのでしょうか?


 いやいや
 そんなはずは・・・


 ・・・失礼しました。

 温かさの中にこそ人間の幸せがあるなんて、
 それこそ
 北の国のとんだ思い上がり(?)もいいとこのようです・・・

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2006/09/26

平凡からの転落

 ひとの人生というものは、
 幅細い尾根の上を歩いているようなもの

 そんな気が
 随分前からしていた。


 昔観た映画、「シンドラーのリスト」だったか。

 この中で、
 成り行き上
 多くのユダヤ人の命を救うことになった
 怪しげなるドイツ人実業家シンドラーと、
 気分次第で収容所のユダヤ人を
 いとも簡単に殺す強制収容所長ゴース。

 ふたりの間には
 それほどの違いがあるようには思えなかったのだ。


 ふたりとも同じ道を歩いていて
 片方は善への誘惑に導かれ
 片方は悪への誘惑に導かれる。


 ひとたび
 その誘惑に導かれると
 ひとつの善行は次の善行を呼び、
 そうして雪だるま式にごろごろと「善き人」への方にひた走る。
 幅細の尾根から転げ落ちるように
 その道を進むスピードは加速するばかりなのだ。
 そして
 悪の道へ入るのもまたしかり。
 (何と言っても世には圧倒的にこちらへの誘惑の方が多いのだし。)


 最初はほんの気まぐれだった。

 でもそこから始まった
 「善」(あるいは「悪」)が
 いつも世界を変えていくのだろう。


 大方の人間はそれでも、
 平凡の尾根を踏み外さず
 ちょっとした「いいこと」「わるいこと」と
 ブレながもバランスを取ってその人生を全うするのかもしれない。

 が
 もしも
 この平凡という尾根から転げ落ちるときが
 自分に来るとしたら

 どうか
 「善き」側に落ちることが出来ますように

 どうか
 その勇気が自分にもありますように。

 
 いやいや、

 そんなことを思いながらも
 本音を言うなら

 もちろん
 一番願っているのは

 平凡の尾根を最後まで踏み外さないコト

 だったりするわけなのだが・・・
 
 

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2006/09/23

恥ずかしながら・・・

 ええっと・・・

 このブログにも度々登場するうちの子供が
 この度ブログを開設致しました・・・
  
 題して、「シャボンの旅」

 小学生の書くものなので
 まあ、こんな感じですけれど、
 大人にはない
 発見があるかもしれません・・・

 なぁんて、すっかり親ばか振りを曝け出しておりますけれど・・・
 よかったら覗いてやってくださいね。

 どうぞよろしくおねがいします(苦笑)。

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2006/09/21

断ち切れない言葉たち

 例えば
 「○○みたいな」とか
 「○○ってかんじ」とか。

 それから
 「させていただきます」とか
 「一応○○なんですけど」の「一応」とか。
 
 いや、
 そもそもこの「・・・とか、・・・とか」
 という言葉自体もなのですが、

 ひとがそう言っているのを聞いたとき、
 あるいは
 自分自身でそのように話しているとき、
 何とも居心地の悪い気分を味わうのです。


 「みたいな」「ってかんじ」
 それに「とかとか」って
 何を恐れてはっきり言い切ることができないのでしょう。
 「させてもらう」で十分なのに
 「させていただく」なんて
 バカ丁寧過ぎてなんだかかえって慇懃無礼じゃありませんか。
 それに「一応」って何でしょう、
 それは謙遜のつもりですか?
 それとも自分の為し得たことの凡庸さを
 世の人に指摘される前に白状しておいたほうがいいという
 処世の術として使っているのでしょうか?


 明らかに
 「聞き苦しい」と分かっているのに
 ついつい使ってしまうこれらの言葉たち。

 本当は使わない方が
 ずっとスマートで感じがいいはずなのに、
 何故か切り捨てることができない。

 長い間の習慣でしょうか?
 それとも周りに気を使い
 同じくぼんやりやんわりした物言いをし、
 過剰なまでの敬語を互いに使いあう
 周囲に同調するためなのでしょうか?
 
 
 常にまわりの目を気にする
 そんな心の弱さ。
 
 そうと分かっていながら断ち切れない自分の後ろめたさ

 まあ結局
 そのあたりが
 実際の聞き苦しさ云々よりも問題のようです。

 この
 「居心地の悪さ」の大半は
 そこから来るのかもしれません。

 せめてこの場では、
 それらを断ち切ってしまいたいもの・・・
 
 つくづく、
 そんなことを感じます。

 (「感じたりします」とは
 今日は書けませんね、さすがに―苦笑)


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2006/09/19

ミッキーの正体

 「ディズニーランドのミッキーはさ、
 やっぱり何人かいるんだよ。
 そうじゃないとあんなにいろんなとこに出てこられないはずだもの。」

 小4の娘がそう言ったのは、昨日の朝食後のこと。
 「最近ディズニーランド行っていないね」
 という話題からふぃに湧き出た言葉であった。
 
 「えっ?
 でもディズニーランドって地下通路がすごい張り巡らされていて、
 ミッキーたちはそこを通って
 いろんなとこに出てくることができるらしいよ?」
 などと、
 内心の動揺を隠しながら
 私はとぼけて言ってみる。
 が、それに対し、
 「だってパレード中にだって
 レストランのショーに繰り返し出ているじゃない?
 そんなの絶対一人じゃできないはずだよ。
 あれはきっと誰かが着ているんだよ!」
 ときた。
 

 ああ、ついに気付いてしまった、か・・・。

 ミッキーが何人もいるということは
 つまりニセモノのミッキーが存在することを意味する。
 そしてそれはいずれは、
 あそこにいるミッキーが全て着ぐるみのニセモノであることに
 自ずと繋がっていくのだ。
 
 外国にだってディズニーランドがあることぐらい
 10歳の彼女も既に知っているだろう。
 そこにいるミッキーたちを差し置いて
 あの浦安にいるのだけが本物だとはさすがに思えないはず
 (おまけに日本語しゃべっているし)・・・。
 
 まあ、
 今はまだ
 そこまで考えてはいないようだが、
 ・・・・
 いや、
 案外気が付いているの、か・・・?


 彼女が幼児のころから
 1年に1度ぐらい訪れる東京ディズニーランド。
 当然3,4歳のころは着ぐるみのミッキーを本物だと思っていたようであった。
 そして親もそう信じてくれることに喜びを感じ、
 その夢を守ろうとした。
 サンタクロースを信じるように
 ミッキーも本物だと信じ続けて欲しいと・・・
 
 しかしそれとて限界がある。
 よくよく考えてみれば
 上記のようなことだって
 もう既に気が付きそうなものだ。
 それに、学校の友達に何か聞いているかもしれないし・・・

 
 そのとき、
 それまで黙っていた夫がふいにこう言い出した。
 「認識が世界を創るんだから・・・」
 (・・・ちょっと、10歳の子供に何を言い出すのやら!)

 「だから、
 ニセモノと思った瞬間にそのミッキーはニセモノになっちゃうよ。
 ニセモノのミッキーに
 お前は一生懸命手を振ったり大声で呼んだりできるの?」

 ・・・

 「・・・そうだね」
 と娘は笑った。
 照れ笑いのような笑顔、だった。


 この笑顔をみて私も考えた。
 

 考えてみれば
 私たち大人も同じなのかもしれない。
 
 パレードに向かって手を振る私たち。
 誰も
 着ぐるみの中の大汗かいているダンサーさんに向かって
 手を振っているのではない。 
 刹那的ではあるが、
 私もまた
 ミッキーを本物と思っていたのだ。
 一緒にいる子供の
 喜ぶ顔見たさの演技から出たことかもしれないが、
 それもまた
 歴然とした事実、であった。

 ・・・結局、
 ミッキーが何人いようと、
 そして
 それが着ぐるみと気付いていようといまいと
 関係ないことなのかもしれない。


 例えば
 「サンタクロースって本当はいないんだね」
 そういわれる日が
 近い将来きたとしても(またこなくても)
 
 「そんなこと
 たいした問題ではないのだ」、

 そんな根拠の無い
 しかし確固たる自信が

 自分の中で
 みなぎるような気がした瞬間、であった。
 

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2006/09/15

「心」はどこに?

 先日書いた
 「Oh!my sweet heart!」
 に頂いたnofumoさんのコメントから、
 またもつらつらと「心臓」や"heart"という言葉について考えてみた。

 そもそも
 「心臓」とは一体いつ誰がつけた名称なのだろうか。
 よくわからなかったのだが、
 ただどうも昔のひとは「心」は「心臓」にあると考えていたらしく、
 心が存在する臓器だから「心臓」となったのかもしれない。

 「辛くなると胸が苦しくなったり
 緊張したり興奮すると動悸が激しくなる、
 つまりそれはこの胸の奥にある何かが『心』であるからなのだ!」
 そう考えることは、極めて自然なこと。

 そして現代になり、
 私たちは「心」が「心臓」にはないことを
 既に知ってしまっている。

 「心臓」とは
 細胞を代謝させるための血液を循環させる
 言わばポンプのようなものである。
 確かに生命を左右するような重要な臓器であるが、
 「心」や「魂」がここにあるわけではない。
 感情が高ぶったり、落ち込んだとき感じる胸の内の変化は
 脳からの指令で起こるもの。
 むしろそういう意味では「心」は
 「心臓」ではなく「脳」と密接な関連があると言えのだろう。

 加えて
 「近年の神経科学の発展により、
 心の状態は脳の物理的状態と密接な関連がある
 という事が明らかになってきた」(Wikipedia-「心」より)そうである。
 今や
 「幸福感を感じるのは
 『快』の感覚をもたらす神経伝達物質の存在による」
 ということも多くの人に知れ渡っている。
 こうなってくると、
 かつての「心臓」のように「脳」に「心」の在り処を求めたくなってくるのも道理だ。

 いや、
 単に在り処なのではなく、
 脳こそその「心」そのものであるのかもしれない。
 「唯物論」においては
 「心」はまさにそのように
 「大脳の活動などといった物質的現象のみの所産である」
 という考え方をされている。
 そして
 この考えに異を唱えるとしても、
 「心」を「脳の現象」以上のものであるとして
 その正体を解明するのは、
 あまりにも難しくどこから手をつけていいのかすらわからない状態なのだ。
 (「意識のハード・プロブレム」


 ただ、

 わかっているのは、
 こんなにも「心が何なのか」をもとめようしている
 私たちの強い強い欲求がある、ということ。

 だって、
 “my sweet heart (愛しい人)”
 というように
 “heart”―「心臓」そして「心」は、
 それを失えば生きていけないほど大切なものなのだから・・・


 そして、

 「心」はどこに?

 という疑問は、
 目に見えぬその「大切なもの」を探すという

 私たち人間に課せられた
 永遠の課題なのかもしれない・・・
 

 でもほんと、

 一体どこに・・・あるのでしょう、ねえ

 あなたのも私のも、
 この「心」って、ほんとに・・・


 
 

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2006/09/12

Oh,my sweet heart!

 今日、
 私は自分の「心臓」をはじめて見ました。

 定期健診でひっかかったのですよ。
 心電図、「精密検査の必要有り」って。

 で、
 大きな病院に行って、
 エコーというので診てもらったのです。
 これ、子供がお腹にいたとき以来の体験。

 ドーナツ型の一部を切り取ったような画面に
 モノクロでガサガサの画像。
 妊娠中に何度も見たような映像ですが
 そこに映っているのはmy babyではなくmy heart、
 うっすらと見える私の心臓なのでした。

 トクントクントクン

 でっぱったりひっこんだり。
 一生懸命動いているんですよね。
 何だか哀しいほど健気。

 考えてみれば
 この子、
 もう40年以上片時も休まず動いている。

 私が
 走っているときも
 眠っているときも。
 それから、
 喜んだり悲しんだり、
 片想いの人に偶然会ってトキめいたり
 また誰かにものすごい憎悪の感情を向けているときも。


 精密検査の結果は、
 「何の問題もなし」でした。
 
 午前休を取って、
 検査費を払って、
 手に入れた一安心。

 でもそれプラス
 今日は
 
 私の中で私をずっと支えてくれた
 影の功労者に出会うことが出来た
 
 そんな
 貴重な日となりました。
 
 ・・・ちょっとうれしかった、です。

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2006/09/07

違和感

 昨日の慶事の報から一夜明けた。
 
 シンノウサマ、ゴタンジョウオメデトウゴザイマス

 夕べの夕刊をめくってみると
 カラー刷りで喜びのご一家の写真が大きく載り、
 その軌跡が特集されていた。

 ・・・・
 これで多分
 本流はこちらの方に流れてくる、
 つまり
 我らの未来の象徴として
 今後この御一家が
 きっと大きくクローズアップされてくるのであろう。

 そのことを予想するにあたり
 なんとなく、なんとなくねぇ・・・
 (結局昨夜はほとんどテレビを観る気にはなれなかった。)

 オメデタイコトナノニ、スミマセン・・・

 しいて言うならば
 それは、違和感・・・?

 多分、
 慣れていないだけなのだ。
 この御一家を象徴として見上げるのに。

 昨日はその最初の日。

 だから慣れなくて当然なのかも。
 きっと
 だんだん当たり前になる、
 その日を待っていればいい。
 
 今はそれだけ、だ。


 大体、
 誰々がお可哀想・・・とか、
 誰々はあまり好きじゃない・・・(失礼!)とか
 そんなことどうして思うのだろう(苦笑)。

 そんな、
 どちらにせよ
 会ったことも無い方々なのに・・・


 では、あらためて

 新しいお命の誕生、心よりお喜びもうしあげます。
 

 

|

2006/09/05

冷たい人間

 つい先日のこと。

 愛読しているエッセイコーナーに掲載されたある文章が
 とんでもないことになっているということを
 Linさんのこちらの記事で知った。

 「子猫殺し」と題されたそのエッセイ、

 「・・・飼い猫の避妊手術への疑問からそれを敢えてせず、
 その結果生まれてくる子猫たちを自分は殺している・・・」
 そんなある作家の告白が書かれたものであった。
 (詳しくはこちらを・・・
 こちらのブログに載せられていた紙面の画像です。
 決して私の要約文でその内容を判断して下さらないよう
 お願い致します)

 生まれたばかりの小さな命を自らの手で絶つ。
 それも崖に落とすというショッキングな方法で。
 その事実に
 多くの人があからさまな不快感と感情的な糾弾を
 その筆者にネット上で向けているらしい。


 それを知ったとき私は唖然とした。

 このエッセイ、私、読んでいる・・・
 でも、そのこと今の今まで忘れてた・・・
 読んですぐ、
 反感も共感も持たずに、忘れていた・・・

 帰京後のバタバタとした日であったし、
 斜め読みできちんと読んでいなかったのかもしれない。
 でも「子猫殺し」をやっていることは読み取っていたし、
 その理由も言われてみれば
 確かに見覚えがある内容だった。

 いや、
 正確には何も思わなかったわけではない。
 ただ考えたのは
 「こういう思考をするに至った作家の環境
 ―タヒチという国、動物の死骸が道路にごろごろあり、
 その死というものが少なくとも日本より身近にある環境―
 (これはその前のエッセイに作家自身が書いているのだが)
 がそういう文章を載せる決意をさせたのかな・・・」
 ということだけだった。
 そこには作家の行為・考えへの肯定も否定もなかった。
 
 
 よくよく考えればこんな残酷な猫殺しに、
 嫌悪感を感じなかった自分の冷たさ・鈍感さに驚きも感じる。
 冷たさについては、
 同じくこのテーマを扱った
 やまぎさんのこんなに優しい文章を読んで尚更そう思った。
 「そんな自分でよいのか」という良心のうずきも無いわけではなかった。

 が反面、
 それでいてその鈍感さを「冷静さ」と解釈し、
 「それでよいのだ」という別の声もあるのだ。
 そして結局、
 私はどうしてもそれを押しのけることが出来なかったのである。


 そうか、

 私はこんな冷たい人間なのだ。
 

 とりたてて動物好きではなく、
 ペット・ブームには冷ややかな視線を向けている。
 動物から野生を取り上げた人間社会の恩恵にどっぷりつかりながら、
 尚かつ自らはその生死に直かに関る度胸もない、
 つまり
 多分生涯ぺットは飼えないであろう、人間。

 それが私、なのだ。
 
 
 そのことがわかっただけでも、
 このエッセイに出会ってよかったのかもしれない。
 
 多分これからさき、
 「ペット云々」という話が出たとき

 きっと私が思い出すのは、
 
 まずこのエッセイと、
 それに続く論争のこと

 そのことであろうはずなのだから・・・・


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