「ディズニーランドのミッキーはさ、
やっぱり何人かいるんだよ。
そうじゃないとあんなにいろんなとこに出てこられないはずだもの。」
小4の娘がそう言ったのは、昨日の朝食後のこと。
「最近ディズニーランド行っていないね」
という話題からふぃに湧き出た言葉であった。
「えっ?
でもディズニーランドって地下通路がすごい張り巡らされていて、
ミッキーたちはそこを通って
いろんなとこに出てくることができるらしいよ?」
などと、
内心の動揺を隠しながら
私はとぼけて言ってみる。
が、それに対し、
「だってパレード中にだって
レストランのショーに繰り返し出ているじゃない?
そんなの絶対一人じゃできないはずだよ。
あれはきっと誰かが着ているんだよ!」
ときた。
ああ、ついに気付いてしまった、か・・・。
ミッキーが何人もいるということは
つまりニセモノのミッキーが存在することを意味する。
そしてそれはいずれは、
あそこにいるミッキーが全て着ぐるみのニセモノであることに
自ずと繋がっていくのだ。
外国にだってディズニーランドがあることぐらい
10歳の彼女も既に知っているだろう。
そこにいるミッキーたちを差し置いて
あの浦安にいるのだけが本物だとはさすがに思えないはず
(おまけに日本語しゃべっているし)・・・。
まあ、
今はまだ
そこまで考えてはいないようだが、
・・・・
いや、
案外気が付いているの、か・・・?
彼女が幼児のころから
1年に1度ぐらい訪れる東京ディズニーランド。
当然3,4歳のころは着ぐるみのミッキーを本物だと思っていたようであった。
そして親もそう信じてくれることに喜びを感じ、
その夢を守ろうとした。
サンタクロースを信じるように
ミッキーも本物だと信じ続けて欲しいと・・・
しかしそれとて限界がある。
よくよく考えてみれば
上記のようなことだって
もう既に気が付きそうなものだ。
それに、学校の友達に何か聞いているかもしれないし・・・
そのとき、
それまで黙っていた夫がふいにこう言い出した。
「認識が世界を創るんだから・・・」
(・・・ちょっと、10歳の子供に何を言い出すのやら!)
「だから、
ニセモノと思った瞬間にそのミッキーはニセモノになっちゃうよ。
ニセモノのミッキーに
お前は一生懸命手を振ったり大声で呼んだりできるの?」
・・・
「・・・そうだね」
と娘は笑った。
照れ笑いのような笑顔、だった。
この笑顔をみて私も考えた。
考えてみれば
私たち大人も同じなのかもしれない。
パレードに向かって手を振る私たち。
誰も
着ぐるみの中の大汗かいているダンサーさんに向かって
手を振っているのではない。
刹那的ではあるが、
私もまた
ミッキーを本物と思っていたのだ。
一緒にいる子供の
喜ぶ顔見たさの演技から出たことかもしれないが、
それもまた
歴然とした事実、であった。
・・・結局、
ミッキーが何人いようと、
そして
それが着ぐるみと気付いていようといまいと
関係ないことなのかもしれない。
例えば
「サンタクロースって本当はいないんだね」
そういわれる日が
近い将来きたとしても(またこなくても)
「そんなこと
たいした問題ではないのだ」、
そんな根拠の無い
しかし確固たる自信が
自分の中で
みなぎるような気がした瞬間、であった。