表題は、昔母から教えてもらった格言。
極めて日本的な言葉だと思っていたのだが、
なんとこれはイギリスの思想家トーマス・カーライルの言葉だとか。
(原文は"Speech is silver, silence is golden."―「衣装哲学」より)。
いや、びっくりした。
「言葉が神である」という西洋人、
なにかコトが起こると使われる
“Excuse me”(直訳:私を正当化しなさい)という言葉があらわすように
まず「言葉による自己弁護」が生活の基本に根付いているような人々。
そんな彼らが
雄弁よりも沈黙を尊ぶなどということは
有り得ないことのように、
今の今まで私は思っていたのだから・・・
そして今
その驚愕をもって
まじまじとこの言葉の意味を見据えてみる。
YAHOO辞書―大辞泉によると
「雄弁は大事だが、沈黙すべきときを心得ていることはもっと大事だ」。
とのこと。
(するとどうやら
今まで私が思っていたような「語りすぎるな」の意味合いとは
全く別のことを言っているのだということが
なんとなく分かってきような気がしてきた。)
・・・
ううむ、「沈黙すべき『とき』」か・・・
そう、そうなのだ。
多くの人が悩み苦しむのは
この「沈黙すべき『とき』」の見極めなのだろう。
「これぐらいは常識だし言わなくても大丈夫だろう」
「多分自分の考えは相手に伝わっているだろう」
「さっきそんなこといったしクドくなるし、な」
多くの場合この国では、
「常識」とか「推測」とか「気配り」など
極めて不確かな要素により「沈黙すべき『とき』」が選ばれている。
でも、
本当にそれでよいのだろうか?
ちょっと前に目にした文章にはこんなことが書かれてあった。
「ストレスというものはほとんど全て
相手に具体的な要求をせずに期待だけした結果、
発生するものである」
本当は
手伝って欲しいのに、
まめな連絡を待っているのに、
そちら側に非があると自ら認めて欲しいのに、
それをあからさまに要求したり主張するのははばかられる。
・・・だからしない。
・・・・・・そしてストレスを溜め込む。
・・・・・・・・・そのストレスが人間関係のゆがみを招いていく。
やっぱりそれじゃダメじゃないか!
それが「沈黙すべき『とき』」ではいことは、明白だ。
では
いったいいつが『そのとき』なのだろうか?
・・・
いろいろ考えてみるに
私は、
唯一絶対に「沈黙すべき『とき』」があることに気が付いた。
ひょっとしたら、
カーライルの言っているところの
「沈黙すべき『とき』」とは、
そのたったひとつのとき、
「相手がまさに自分に話をしているとき」だけ
なのでは?
まず相手の話を聞く、そして自分も恐れず話す。
どちらも根気強く・・・である。
うーん
すべては私の個人的推測なのだが
「沈黙は金」
少なくとも、
それは「主張する手間を惜しむ」言い訳にはならない
そんな格言であることだけは
確かなようである。