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2006/10/31

ずっと疑問だったこと

 ずっと、疑問だったこと。

 ここのところ連日のようにニュースになる
 「いじめ」による自殺の問題で。

 どんな理由にしろ
 「死にたい」とまで思いつめさせた
 そのいじめた子達は、どんなことを思っているのだろう?


 後悔したりするのだろうか?
 すまなかったと思うのだろうか?
 もう二度とやらない、と心に誓うのだろうか?


 自分ダケガ、イジメタワケジャナイノニ
 ミンナ、ヤッテタジャナイカ、
 ソレナノニ自分バッカリ名指シサレテ、サ・・・

 ダッテ
 アイツ、イラツクンダモン・・・
 ソウイウアイツハ全然悪クナイワケ?


 「後悔するくらいなら
 最初からいじめなんかしやしない」とはどこかで聞いた言葉。


 だから、なくならないの?
 じゃあ、永遠にこのまま?

 
 そうなんでしょうか?

 本当のところが知りたい、のです。


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2006/10/26

好きなもの同士

 「じゃあー、今度の席替えは好きなもの同士でいいよぉ」
 と先生が言ったとする。
 途端、クラス全体には「やったぁ!」という歓声。
 元気のいいお調子者の子など、
 飛び跳ねんばかりの喜びようだ。

 教室の隅にいる私。
 私も一応喜ぶ。
 しかし本当はそんなに嬉しい訳ではない。
 実はほんのではあるが微かな憂鬱を抱えている。
 みんなの手前、嬉しそうな顔をしているだけなのだ。


 「好きなもの同士」

 これは見ようによっては
 なんとも残酷なルールである。
 このルールには常に次の危険が伴うのだ。

 「・・・あぶれたらどうしよう」

 例えば、
 「番号順」とか「くじ引き」とか「先生が決める」などは
 結果がどうであれ
 この「自分があぶれるかも」という心配は決してない。
 「ひょっとしたらニガテな子の隣になるかも」
 そんな危険があるにせよ
 少なくとも当時の私には
 「選ばれない自分」を突きつけられること
 それより辛いことは
 ないように思われたから。


 ときが流れて

 そんなことを考えたこともないような顔をして
 日々笑顔で暮らす私がいる。

 「明るい子」という範疇に
 自分は果たして組み込んでもらっているのか?

 なんて常に心のどこかで心配ていたのに
 それがなくなったのは
 一体いつごろからだったであろうか?


 つい先ごろのこと、

 知人からそのお子さんが
 遠足のバス座席決めの際あぶれてしまった
 という話を聞いた。


 「好きなもの同士でいいよ」

 その言葉に
 微かなため息をついていた
 かつての自分、

 とっくの昔に忘れていた
 その子が感じたであろう同じ胸の痛みを

 今更ながら感じた、午後のことだった。


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2006/10/24

ひとそれぞれ

 例えば討論番組などを観ていて、
 その議論が
 「なんだかかみ合ってないなあ」
 と思うことがある。
 
 まあ、互いに相手の主張をきちんと聞いていないからということも
 多々あるのだが、
 それは
 「原則へのとらわれ方は、人によってその程度が様々だ」
 ということによる場合もまた多いようである。
 
 
 「原則論」、
 というものがある。
 「何事も原則通りに行われなければならないという考え方・議論」
 のことだそうだ。

 そもそも人間とは、
 この原則論が基本的には好きなのかもしれない。
 万民の認める原則に従い
 シンプルに世の中をみることはなにやら精神的にスッキリする。
 そして面白いことに
 それは几帳面で生真面目な人間ほどその傾向にあるようだ。

 ただ、
 残念なことに
 現実の世の中はそんなにシンプルでスッキリしたものではない。
 「盗人にも三分の理」
 と言われるように
 見ようによっては人の数だけ正義はあるかのように思われるし、
 立場が変わると同じ人でも
 考えが180度変わることとてよくある話だ。
 そして
 「ひとそれぞれなんだから、余計なことを言うなよ」という
 その言葉が出てくるボーダーも、
 まさにひとそれぞれだったりするのである。

 先ほど述べた討論においても、 
 そのときそのときの判断、
 そのひとそのひとの考え
 その場その場の状況、
 全て異なる中で行われるがゆえかみ合わないのであろう。
 結果、不毛なる論戦が延々と続くことになるのだ。

 まさにときは多様化の時代。
 そして時代は下れば下るほどその傾向は強まってきている気がする。
 この変化は良いものなのか?
 それとも好ましからざるものなのか?

 いやいや、
 ソレを良し悪しで判断しようとしていること自体
 この私が原則論にとらわれている証拠なのだろう。

 ただ、
 良し悪しはともかく
 はっきりいえることはいまの状況は極めて不安定だということ。
 言い換えれば
 その不安定な自分を支えるために
 ひとは原則を求めるていると言っていいのではないか。

 そして
 その不安定さに打ち勝ってこそ
 本当の自由、そして真理は、
 見えてくるものなのかもしれない。

 だから、
 やはり私は
 例え頑固者と言われようとも
 偏屈と思われようとも
 自分の信ずるところにおいては原則論者であり続けたい、
 そんなふうに思うのである。
 
 どんなことがあっても

 「ひとそれぞれだから」

 なんて言葉には
 決して逃げないで、だ。

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2006/10/19

「雄弁は銀、沈黙は金」

 表題は、昔母から教えてもらった格言。
 
 極めて日本的な言葉だと思っていたのだが、
 なんとこれはイギリスの思想家トーマス・カーライルの言葉だとか。
 (原文は"Speech is silver, silence is golden."―「衣装哲学」より)。
 
 いや、びっくりした。
 「言葉が神である」という西洋人、
 なにかコトが起こると使われる
 “Excuse me”(直訳:私を正当化しなさい)という言葉があらわすように
 まず「言葉による自己弁護」が生活の基本に根付いているような人々。
 そんな彼らが
 雄弁よりも沈黙を尊ぶなどということは
 有り得ないことのように、
 今の今まで私は思っていたのだから・・・

 そして今
 その驚愕をもって
 まじまじとこの言葉の意味を見据えてみる。
 YAHOO辞書―大辞泉によると
 「雄弁は大事だが、沈黙すべきときを心得ていることはもっと大事だ」。
 とのこと。
 (するとどうやら
  今まで私が思っていたような「語りすぎるな」の意味合いとは
  全く別のことを言っているのだということが
  なんとなく分かってきような気がしてきた。)

 ・・・

 ううむ、「沈黙すべき『とき』」か・・・

 そう、そうなのだ。
 多くの人が悩み苦しむのは
 この「沈黙すべき『とき』」の見極めなのだろう。

 「これぐらいは常識だし言わなくても大丈夫だろう」
 「多分自分の考えは相手に伝わっているだろう」
 「さっきそんなこといったしクドくなるし、な」

 多くの場合この国では、
 「常識」とか「推測」とか「気配り」など
 極めて不確かな要素により「沈黙すべき『とき』」が選ばれている。
 でも、
 本当にそれでよいのだろうか?

 ちょっと前に目にした文章にはこんなことが書かれてあった。
 「ストレスというものはほとんど全て
  相手に具体的な要求をせずに期待だけした結果、
  発生するものである」

 本当は

 手伝って欲しいのに、
 まめな連絡を待っているのに、
 そちら側に非があると自ら認めて欲しいのに、

 
 それをあからさまに要求したり主張するのははばかられる。
 ・・・だからしない。
 ・・・・・・そしてストレスを溜め込む。
 ・・・・・・・・・そのストレスが人間関係のゆがみを招いていく。

 やっぱりそれじゃダメじゃないか!
 それが「沈黙すべき『とき』」ではいことは、明白だ。
 では
 いったいいつが『そのとき』なのだろうか?


 ・・・

 いろいろ考えてみるに
 私は、
 唯一絶対に「沈黙すべき『とき』」があることに気が付いた。
 
 ひょっとしたら、
 カーライルの言っているところの
 「沈黙すべき『とき』」とは、
 そのたったひとつのとき、
 
 「相手がまさに自分に話をしているとき」だけ
 
 なのでは?
 
 まず相手の話を聞く、そして自分も恐れず話す。
 どちらも根気強く・・・である。


 うーん
 すべては私の個人的推測なのだが

 「沈黙は金」

 少なくとも、
 それは「主張する手間を惜しむ」言い訳にはならない

 そんな格言であることだけは
 確かなようである。

 

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2006/10/17

わが親愛なる葵上

 「葵ちゃん」という名前がある。
 昨今の女の子につける名前としては人気あるもののようだ。
 (さる生保の調査によると昨年は人気ランキング4位、その前は8位だとか)
 そういえば娘の同級生にも何人かいた気がする。

 この「葵」という字、実は私大好きなのだ。
 なかなかいい字面である。
 「あおい」という読みもまたよい。
 華やかな中にもすがすがしさを感じる。
 「あお」という寒色系の色を連想させるからであろうか。

 この字が特定の植物を指し示すものであることは周知のこと。
 が、実は植物にうとい私は「こーんな感じの花かな・・・」っていう程度の認識しかなかった。
 今回調べてみて、
 多種多様な花々が皆「葵」という名称をつけられているのに驚いたぐらいである。
 まず
 多くのひとが思い浮かべるのは
 美しい「タチアオイ」そして徳川家の家紋である「葵の御紋」なのだろうが、
 そのほかにも「ゼニアオイ」「ウスベニアオイ」「ハノアオイ」と数多く存在する。
 「タチアオイ」によく似た「フヨウ」「ムクゲ」も「アオイ科」に属す花だそうだ。
 他にもアオイ科ではないが、お馴染みのゼラニウムも「テンジクアオイ」という別名を持っているらしい。
 葵の御紋はフタバアオイ(別名カモアオイ)という植物の葉がモチーフ。
 この植物はカモアオイという別名からも分かるとおり
 京都賀茂神社の大祭「葵祭」の呼び名の由来となる花なのである。
 
 葵祭となると思い起こされるのは源氏物語の「葵」の帖。
 光源氏の最初の正妻が「葵上」と呼ばれるのは
 この葵祭での騒動を中心とした帖の名前からに他ならない。
 彼女はこの帖で六条御息所の生霊にとり付かれて命を落とすのだ。
 夫である源氏とようやく心を通わせられるかと思った矢先のことであった。

 誇り高いがゆえに
 年下の美しい夫に素直になれなかった不器用なひと。
 そんな葵上は私が源氏物語でもっとも好きな女性である。
 そして
 その彼女の呼び名であるがゆえに、
 私の心の中の「葵」という字には
 タチアオイの華やかさと「あお」という音のすがすがしさの他に
 頑なではあるが凛とした哀しいほどの潔癖さが加わった・・・


 さて、
 この葵上の呼び名のもととなったフタバアオイとは
 いったいどんな花なのだろうか?
 私の想像通りの
 華やかですがすがしく凛とした美しい花なのだろうか?

 ・・・・

 調べてみると
 フタバアオイはアオイ科ではなくウマノスズクサ科に属するもので、
 あのタチアオイとは似ても似つかぬ
 こんな地味なものであった。


 唖然としながらも
 この素朴な紫褐色の小さな花を眺め続ける。

 華やか、ではないが、
 すがすがしく凛とした花、
 そんな印象―

 我が親愛なる葵上も
 案外御簾の向うでは素朴な人柄だったのかもしれない、な・・・

 不思議なことに
 この花が大輪の花ではなかったことが、
 私に
 
 「葵上」を
 そして「葵」という字を

 ますます好きにさせてしまったようであった。


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2006/10/12

のろけたい・・・

 突然だが、私は
 自分がかなり小意地の悪いタイプなのかな、
 と思うときがある。
 うーん、いや嫉妬深いと言ったほうが適切か。

 まず、
 これは35を過ぎた辺りから顕著になったのだが、
 誰か他のひとに憧れるということが
 ほとんどなくなってきた。
 
 もちろん世の中はこの私などより優れた人々で満ち溢れている。
 それはよくわかっている(つもりだ)。
 でも
 「そのひとに憧れたところで
 私がそのひとになれるわけでもないのに・・・」とか、
 決して今の自分に満足しているわけでもないのに
 「でも私だってそんなに捨てたモンじゃないし・・・」とか
 まあ、図々しいことこの上ないのだが
 そんなアマノジャクな心がムクムクと膨らんでくるのを抑えられないのだ。
 結果、
 「私は私」というふうに安易に落ち着いてしまう。
 向上心の欠落?
 もう今更自分を変えようなどいう努力をやめたということか?

 が、
 しかしである。

 ひとつだけそんな私が今も渇望するモノがある。

 それは
 惚気(のろけ)られる、というワザ。

 誤解しないでいただきたい。
 のろける人間はこの世に多々いる。
 そしてその「のろけ」の大多数は、
 聞いてる方に言わせりゃ「けっ」てなものだったりするわけだ。
 だが、
 ごく稀にではあるが、
 「へぇーいいなあ」と本当に素直に聞きたくなる「のろけ」も存在するのである。
 ここで私が言っているのは、
 そういう「のろけ」の出来るいわば達人のワザ。

 まず、気取らない。
 そして、正直に語る。
 さらに、自信を持って、びくびく相手の反応を見ない。
 最後は(これが決定的に私には欠落しているのだが)、
 ユーモアのスパイスをきかせてサラリと、だ。

 ああ、何故そんなに悪びれもせずのろけることができるのですか?
 それは
 天から与えられた無垢の心を持っているからなのでしょうか・・・


 実は夫にいまだにベタ惚れの私。

 この世に生のあるうちに
 一度でいいから
 ひとを共感させる「のろけ」を一席ぶってみたいもの


 ・・・

 今日の文章は
 そんな私の屈折した「のろけ」披露の場と化してしまいました。


 「けっ」と思った多くの方々、
 ・・・本当に、失礼いたしました。

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2006/10/10

「良識」とは?

 「言論の自由」と皆が言う。

 それは、
 守られねばならない基本的な権利。

 しかし
 その反面その自由な意見を語ることによって生ずる
 負の部分もあることを私たちは知っている。
 その率直な意見を受けた側の
 衝撃、不快感、心の痛みなどなど・・・

 だから
 多くの良識ある人々は
 大抵のことには口を閉ざし、心の中で思うだけ。
 
 その結果
 なんと多くの真摯な意見もまた、
 日の目を見ずに消えていったことだろうか・・・


 これはただのフィクションなのだが・・・
 
 21年前の単独機では世界最大の航空機事故―
 その犠牲者の悲惨さに涙を流す多くの読者に、
 そして彼らにその涙を流させるマスコミに、
 疑問を投げかけた投書があった。
 それは
 「自分の身内の取るに足らない普通の事故死と
 世紀の大事故による死は決して同じものではない。」という
 同じはずの命がこんなにも明らかに差別されていることへの不満を
 ぶちまけたものであった。

 もし、
 こんな投書が実際にあったのだとしたら・・・
 でもそれを載せる新聞は多分一紙たりとてなかったことだろう。
 悲惨な大事故の犠牲者と
 その死に悲嘆にくれている遺族を鞭打つような
 意見は決して取り上げるべきではない、
 たとえそれがある意味真実を述べていたとしても、だ。
 なぜかって?
 決まっているだろう、
 それが良識というものだから、さ・・・
  
 その良識を踏み外したがゆえ、
 小説では投書を載せた記者は左遷されることとなる。
 
 
 全く違う話にはなるが、
 ちょっと前に世間を賑わした事件があった。
 動物愛護に関る問題だったか・・・
 (それに関しては以前書いたこちらを参照ください)
 新聞のような公の場でそのようなことを告白する作家への抗議が
 ヒステリックなほど膨れ上がっていた。
 そして、それはそんな文章を載せた新聞社へも
 同様だったのかもしれない。
 
 ひょっとしたら
 あのエッセイを載せた責任者も何らかの罰を受けたのであろうか・・・
 
 
 先週土曜に放映された「クライマーズ・ハイ」を観て以来、
 私が考えるのは
 どうしてもこんなこと。

 >全然違う話だよ、
 >おかしいんじゃないか?

 
 そういわれるのも百も承知なのだが・・・
 
 「良識」って一体何なのか・・・
 それは、
 もちろん社会生活を送るにあたり必要なものであるのはわかるのだが
 もっと底の知れないような
 何かでもあるような気がしてならない・・・
 

 そんな考えが

 ずっとこのところ
 私の頭の中から離れないのである。

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2006/10/05

「一見(イチゲン)さん」の貴方へ

 どうも、こんにちは。
 ・・・えっと、
 はじめて来てくださった、のですか?
 それともよく覗いてくださる方?
 いずれにせよ、こんな地味なサイトによくいらっしゃいました。
 ありがとうございます。
 
 あの、
 初めての方なのだとしたら
 ひょっとして
 ちょっと検索してひっかかった、のでしょうか?
 そうだとして、思ったようなものではなかった?
 ・・・すみません。
 見てのとおりここは
 「ナンデモナイコトヲ大仰ニ書キツラネテイル」
 そんなサイトなのですよ。
 まあ、blogなんてのは大抵の場合そんなものですけれどね。
 (いや、いや、別に他の方を批判しているわけでもないんですが。)
 
 でも、
 手前味噌ですが、
 こんなサイトでも足繁く通ってくださる方もいらっしゃるようで、
 それは本当に嬉しいことなのです。
 ありがたいことです。
 そして
 皆さんたまに
 うちのささやかなコメント欄に足跡を残していってくださいます。
 実際ここのコメント欄は
 そういう方たちからのものが大半を占めているのですよ。
 
 
 この間、
 何気なくその一覧をまざまざと眺めておったのです。

 そして思ったこととは、
 結局、
 ネットというこの「後腐れのない希薄で危うい関係」にも
 仲間意識というか小さなコミュニティーが存在するのだな
 なんてこと、
 そんな今更ながら分かりきったことだったのです。
 笑っちゃいますがね。
 
 
 不思議なのですが、

 そのコミュニティーがないと哀しくて寂しくてどうしようもないくせに
 何故だか
 そこを抜け出て
 もっとオープンに開かれた
 世間の荒波にも揉まれたくなる・・・
 ありていに言うと
 貴方のような「一見さん」にも足を止めてもらえる、
 そんなところを目指したくなる・・・
 
 そういう衝動にどうしようもなくかられるときがあるのです。

 ・・・・

 ごめんなさい。
 
 こんなことを読ませられたところで、
 困ってしまうのでしょうけれど・・・

 でも、
 今日は来てくださってありがとうございました。
 ・・・おまけに最後まで読んでいただいて。
 
 また
 なにかの間違いで
 もしも来てしまったなら、
 そのときは早々に切り上げてくださいな(笑)。
 

 ・・・
 では、お元気で。
 
 さようなら。

 

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2006/10/03

「良妻」っていいですか?

 実は前々から疑問思っていたことなのだが・・・

 世の既婚男性にとっては、
 自分の配偶者が「良妻」と評価されるのは
 うれしいことなのだろうか?

 
 最近、
 テレビの歴史物ドラマなどを観てみていると
 夫婦を中心にしたものが増えてきたような気がする。
 だいたいは彼らの出世街道を描いたもので
 その奥方はたいていの場合いわゆる「良妻」、
 賢く愛情深く人間的にも優れた人として登場する。
 そしてその才覚を活かして夫を陰ながら支えるのだが、
 大方の場合その夫より賢く描かれているのだ。
 そこには、
 夫よりやや高い視野に立ち
 そこから大局を見つめ的確な手を打っていく妻、
 その妻にいいように転がされて
 結果として成功していく夫、
 そんな相関図が浮かび上がってくる。

 まあ奥まったところにいる昔の女性にスポットライトを当てるのだから
 その奥方が夫より賢くないのではまるで目立たなくなってしまう。
 手柄を立てるのは夫であっても
 それを立てさせたのは妻であるというふうにしないと
 夫婦共同の業績には繋がらない。
 だから制作側も脚色上そうせざるをえないのかもしれない。
  
 しかし、である。
 「女房のおかげで出世した」なんてイメージを持たれた
 ご夫君の心中は如何ばかりか・・・
 きっと、「良妻」をもらったそのご夫君は
 ことあるごとに「凡庸なる自分」を自覚させられ、
 ずいぶん辛い思いをされたのだろうなあ
 などと
 ついつい私はどうでもよい同情をしてしまうのだ。
 (全くの余計なお世話なのだが)

 そう考えてみると
 まことにシニカルな見方かもしれないが、
 「良妻」という言葉には
 「その夫は凡庸」という含みすらあるように感じられてならない。
 そういうのは、
 プライドの高い男性にとっては
 我慢のならないものではないのか?


 そこで最初の疑問にたどり着く。
 果たして
 「自分の配偶者が『良妻』と評価されるのは
 うれしいことなのだろうか?」
 と・・・


 結局
 「良妻」っていうものも
 その夫にとっては「悪妻」と同じように始末が悪い
 そんなものなのではないか?

 そんなどちらかに偏った関係ではなく
 互いに丁丁発止とやりあうことのできる
 五分五分の関係で
 その結果「悪妻」だと言われる方が
 むしろ好ましいパートナーなのではなかろうか?
 
 
 もちろん、
 一見不釣合いな凡夫と賢夫人(またはその反対)の夫婦でも
 当の本人たちにとっては
 互いに補い合う「破れ鍋に綴じ蓋」のような
 関係に他ならないのかもしれないのだが。

 だから、
 こんな心配は
 全くの無用のもの、

 すなわち
 「賢い良妻」になれない私のやっかみのようなもの

 そう言われたとしても
 何の反論もできないのですけれど、ね・・・
 
 

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