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2006/10/24

ひとそれぞれ

 例えば討論番組などを観ていて、
 その議論が
 「なんだかかみ合ってないなあ」
 と思うことがある。
 
 まあ、互いに相手の主張をきちんと聞いていないからということも
 多々あるのだが、
 それは
 「原則へのとらわれ方は、人によってその程度が様々だ」
 ということによる場合もまた多いようである。
 
 
 「原則論」、
 というものがある。
 「何事も原則通りに行われなければならないという考え方・議論」
 のことだそうだ。

 そもそも人間とは、
 この原則論が基本的には好きなのかもしれない。
 万民の認める原則に従い
 シンプルに世の中をみることはなにやら精神的にスッキリする。
 そして面白いことに
 それは几帳面で生真面目な人間ほどその傾向にあるようだ。

 ただ、
 残念なことに
 現実の世の中はそんなにシンプルでスッキリしたものではない。
 「盗人にも三分の理」
 と言われるように
 見ようによっては人の数だけ正義はあるかのように思われるし、
 立場が変わると同じ人でも
 考えが180度変わることとてよくある話だ。
 そして
 「ひとそれぞれなんだから、余計なことを言うなよ」という
 その言葉が出てくるボーダーも、
 まさにひとそれぞれだったりするのである。

 先ほど述べた討論においても、 
 そのときそのときの判断、
 そのひとそのひとの考え
 その場その場の状況、
 全て異なる中で行われるがゆえかみ合わないのであろう。
 結果、不毛なる論戦が延々と続くことになるのだ。

 まさにときは多様化の時代。
 そして時代は下れば下るほどその傾向は強まってきている気がする。
 この変化は良いものなのか?
 それとも好ましからざるものなのか?

 いやいや、
 ソレを良し悪しで判断しようとしていること自体
 この私が原則論にとらわれている証拠なのだろう。

 ただ、
 良し悪しはともかく
 はっきりいえることはいまの状況は極めて不安定だということ。
 言い換えれば
 その不安定な自分を支えるために
 ひとは原則を求めるていると言っていいのではないか。

 そして
 その不安定さに打ち勝ってこそ
 本当の自由、そして真理は、
 見えてくるものなのかもしれない。

 だから、
 やはり私は
 例え頑固者と言われようとも
 偏屈と思われようとも
 自分の信ずるところにおいては原則論者であり続けたい、
 そんなふうに思うのである。
 
 どんなことがあっても

 「ひとそれぞれだから」

 なんて言葉には
 決して逃げないで、だ。

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