表題は、別にトリリンガルでもいいわけなのだが・・・
要は自由に駆使できる他国語をもつひと―ということ。
バイリンガルは
今の日本人の多くの憧れの的である。
実はご多聞にもれず
かつての私も語学の習得には
かなりの情熱を注いでいたときがあった。
その当時は
勤め帰りに週2回語学学校に通ったり、
その授業内容をテープにとって通勤中にヘッドホンステレオで聞いたり、
常にその言語で考えるように意識をむけようとさえしていた。
我ながら結構がんばっていたと思う。
しかし、
こんなに努力を重ねてたつもりだったに
残念ながら私はそれを習得するまでには至らなかった。
結婚して学校に通えなくなった、とか
家事と仕事の両立につかれたから
通信教育はおろかテレビの語学番組を観るのも数少なくなり結局それもやめた、とか
まあそんな理由もあるけれど
今になって思うと
結局のところ「学び続ける理由を失った」というのが
一番の原因だったのだということがはっきりわかってきた。
私が語学を学ぶ理由。
それは一体なんだったのだろう。
「その外国に興味があってよりよく理解をしたいから」という
ごく一般的なものももちろんあったのだが、
じっと心の中を見つめてみるともっと単純で根源的な理由、
「バイリンガルの頭の中というものを体験してみたい」
それがかなり大きな割合を占めていたようである。
日本語を外国語を自由に切り替えながら会話を楽しむ、
外国語で寝言を言ったり、頭の中で意識せずに外国語で考える
そういうのって一体どんな感じなのだろう!
ああ、体験してみたい!!!
でも
どうも語学堪能なる友人たちの話を聞いていると
それは、実に特殊で不思議な感覚でもなく
私のような学習中の人間と同じように
「意識を張り詰め、緊張した状態であることには変わりがない」
ということがだんだん分かってくるのだ。
訓練を重ね語彙を増やすことで反応はより早くなるし、
集中力だってぐっと増していること確かなのだろうが、
乱暴な言い方をさせてもらうと、結局は
程度の差こそあれ外国語は外国語であって
母国語と同じ感覚では使えないということのようなのである。
(もちろんネイティブでバイリンガルとして育ったひとには
これは当てはまらないのかもしれないが)
常人のそれとは全く違う
「バイリンガルの頭」はどうも存在しないらしいということ
今いとも易く流暢に外国語を話しているひとも
つねに努力精進する態度は欠かしていないらしいということ
言い換えれば
語学習得にゴールというものは決してないのだということ
これをおぼろげに悟ったとき
そして、その習得への遠い道程を思ったとき
怠け者の私は「もう語学はいいや」と思ってしまった・・・
ところで
語学学校に行っている頃のこと。
各学期の初めには必ず生徒の自己紹介があり、
そこでは必ず聞かれる質問があった。
それは
「何故この言葉を学んでいるのか?」というもの。
仕事で必要だから、
自分の専攻に必要だから、
という切羽詰った理由ももちろんあったが
多くののひとが私と同じようにこう答えていた。
「その国が好きでよりその国を理解したいから」
趣味として学ぶ語学が必ず挫折するなどというつもりは決してない。
でも、趣味だけをモチベーションとするには
外国語習得はあまりに遠く険しい道のりなのではなかろうか。
実際問題として
「外人の友達が欲しい」ぐらいの動機では
実用としての語学ってなかなか上達はしないものみたいだし。
もしもあなたが思うように進歩しない
語学にイライラしているのだとしたら、
「何故この言葉を学んでいるのか」を
もう一度見つめなおしてみるのもいいかもしれないのでは・・・?
その上で
語学から文化を学ぶという
実用とはまた別の
「語学の形」も生まれるのかも知れませんよ。
とまあ、あくまで挫折者のたわごとに過ぎませんけど・・・