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2006/11/30

・・・だから、なに?

 ・・・文章を書く。

 多分誰にでもあること、
 きっと誰かも思ったこと、

 それを自分の視点で形にしてみる。

 誰ともちがう
 自分らしい切り口で・・・

 そんなちょっとした野心が、胸の中でちらつく。


 が、
 その勇んでいる横で
 別の自分もこうささやくのだ。

 ・・・だから、何?


 ・・・だから、何なの?
      ・・・何だっていうの?

 こんなこと
 書かなくてもわかりきったこと
 陳腐で当たり前な何処にでもある文章
 それを人目にさらして
 自分は一体何を求めているのというだろう。


 常にあるのはこの葛藤。

 結局
 世に存在する全ての創作というものは、
 皆、この葛藤を潜り抜けてきたものなのかもしれませんね・・・


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2006/11/28

一人でも平気な自分

 「学食で一人でご飯なんて食べれらないよー」
 と、その友人は言っていた。
 「覗き込んだウドンの汁に自分の顔が映っちゃっているのを見ると
 たまらなくなるんだよね」

 最近の女子学生さんたちはどうだかわからないが、
 私の頃にはこの彼女のように
 「一人で食事はしない」
 というひとが結構いたような気がする。
 事実私も入学したばかりの頃はそういう人間の一人だった。
 履修の科目も友達と相談して決めていたし、
 帰りも誰かと一緒になれるように気を配って時間割を決めていた。

 でも、いつの頃からかだろうか。
 (おそらくは、つまらぬ行き違いが何回かあった結果であろうが)
 一人でいるのが平気に、
 というよりむしろ好ましく感じられるようになってきたのである。
 それは多分、
 誰かといるのが鬱陶しいとか気詰まりというよりも
 「一人でも平気な自分」というものにナルシスティックに浸っていたのかもしれない。

 「一人の孤独」というものは不思議なもので
 外から眺めているほどは、その渦中にいるのは辛くない。
 そして
 ひとはそれに気付くと、急にその「孤独」の虜になるようである。
 そうなると、どんどんどんどん「平気な自分」は広がっていく。
 最初は一人でも帰れるという程度だったのが、
 一人で講義を受ける
 一人で店に入って食事をする、喫茶店でお茶を飲む、となっていき
 行き着いたところは、
 結局のところご想像どおり、「一人旅」だった。

 一人旅はその孤独への欲求を満たしてくれる格好の遊びなのだ。


 だがやがて、
 一人という自由がかえって重くなり、
 一人で眺める景色が色あせて見え始めてくる時が来る。
 (今回HPにUPした韓国旅行がひょっとしたら私のそれだったのかもしれない。)

 夢の時代は終わりを告げ、現実の生活が始まる。
 一人でも平気、
 と青く尖がっていた私も年を重ね、
 今や家人に囲まれ一人になることはほとんどない。


 ・・・もしも
   今度一人になるときが来たとしたら、

 ふと、そんなことを考えた。

 ・・・それは多分もっと孤独が身に染みるようなそんな状況なのであろう。
 ・・・そのときが来たとして、
   また私は「一人でも平気な自分」に
   ナルシスティックに浸れるであろうか?

 ・・・

 いやはや、
 まだ見ぬ未来に対し、
 自信を持って語るのには

 私は、まだまだ「未熟」なようですね・・・

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2006/11/22

バイリンガルになれなかった理由

 表題は、別にトリリンガルでもいいわけなのだが・・・

 要は自由に駆使できる他国語をもつひと―ということ。
 バイリンガルは
 今の日本人の多くの憧れの的である。

 実はご多聞にもれず
 かつての私も語学の習得には
 かなりの情熱を注いでいたときがあった。
 その当時は
 勤め帰りに週2回語学学校に通ったり、
 その授業内容をテープにとって通勤中にヘッドホンステレオで聞いたり、
 常にその言語で考えるように意識をむけようとさえしていた。

 我ながら結構がんばっていたと思う。

 しかし、
 こんなに努力を重ねてたつもりだったに
 残念ながら私はそれを習得するまでには至らなかった。

 結婚して学校に通えなくなった、とか
 家事と仕事の両立につかれたから
 通信教育はおろかテレビの語学番組を観るのも数少なくなり結局それもやめた、とか
 まあそんな理由もあるけれど
 今になって思うと
 結局のところ「学び続ける理由を失った」というのが
 一番の原因だったのだということがはっきりわかってきた。


 私が語学を学ぶ理由。
 それは一体なんだったのだろう。
 「その外国に興味があってよりよく理解をしたいから」という
 ごく一般的なものももちろんあったのだが、
 じっと心の中を見つめてみるともっと単純で根源的な理由、

 「バイリンガルの頭の中というものを体験してみたい」

 それがかなり大きな割合を占めていたようである。

 日本語を外国語を自由に切り替えながら会話を楽しむ、
 外国語で寝言を言ったり、頭の中で意識せずに外国語で考える
 そういうのって一体どんな感じなのだろう!
 ああ、体験してみたい!!!


 でも
 どうも語学堪能なる友人たちの話を聞いていると
 それは、実に特殊で不思議な感覚でもなく
 私のような学習中の人間と同じように
 「意識を張り詰め、緊張した状態であることには変わりがない」
 ということがだんだん分かってくるのだ。
 訓練を重ね語彙を増やすことで反応はより早くなるし、
 集中力だってぐっと増していること確かなのだろうが、
 乱暴な言い方をさせてもらうと、結局は
 程度の差こそあれ外国語は外国語であって
 母国語と同じ感覚では使えないということのようなのである。
 (もちろんネイティブでバイリンガルとして育ったひとには
 これは当てはまらないのかもしれないが)

 常人のそれとは全く違う
 「バイリンガルの頭」はどうも存在しないらしいということ
 今いとも易く流暢に外国語を話しているひとも
 つねに努力精進する態度は欠かしていないらしいということ
 言い換えれば
 語学習得にゴールというものは決してないのだということ

 これをおぼろげに悟ったとき
 そして、その習得への遠い道程を思ったとき
 怠け者の私は「もう語学はいいや」と思ってしまった・・・


 ところで
 語学学校に行っている頃のこと。
 各学期の初めには必ず生徒の自己紹介があり、
 そこでは必ず聞かれる質問があった。

 それは
 「何故この言葉を学んでいるのか?」というもの。

 仕事で必要だから、
 自分の専攻に必要だから、
 という切羽詰った理由ももちろんあったが
 多くののひとが私と同じようにこう答えていた。
 「その国が好きでよりその国を理解したいから」

 趣味として学ぶ語学が必ず挫折するなどというつもりは決してない。
 でも、趣味だけをモチベーションとするには
 外国語習得はあまりに遠く険しい道のりなのではなかろうか。
 実際問題として
 「外人の友達が欲しい」ぐらいの動機では
 実用としての語学ってなかなか上達はしないものみたいだし。

 もしもあなたが思うように進歩しない
 語学にイライラしているのだとしたら、
 「何故この言葉を学んでいるのか」を
 もう一度見つめなおしてみるのもいいかもしれないのでは・・・?
 
 その上で

 語学から文化を学ぶという

 実用とはまた別の
 「語学の形」も生まれるのかも知れませんよ。

 とまあ、あくまで挫折者のたわごとに過ぎませんけど・・・
 


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2006/11/16

「理想の政治」許すまじ

 本日11月16日、
 本国会で審議され世間でも取沙汰されている
 教育基本法の改正案が与党などの賛成多数で衆院通過した。

 これを聞いて
 「さあー大変だー」って気分になんとなくなる私。
 ・・・でもなんで?

 そもそも
 今回の改正案の全容を具体的に知っている人が
 一体、普通の国民の何パーセントを占めていることだろう?
 いや、現行の教育基本法をしっかり読んだことのある人だって
 大しているとは思えないしなぁ。

 テレビやラジオで騒がれているのは
 「愛国心」や「公共に尽くす精神」を養う教育を
 復活させようとするお偉方の思惑、
 そしてそれを対する
 多分革新系らしき識者や教育者の
 「国粋主義復活への第一歩だ!」という危惧ばかり。
 肝心な法案や法律そのものの実態はまるで見えてこないのだ。

 というわけで、
 以下にリンクを貼っておくので
 お時間のある方・この問題に少しでも興味のある方は
 原文に目を通していただきたい。
 基本法は前文・11条・付則からなる
 さして長くはない法律だし、
 改正案とてそれより7条多いだけの18条の法案である。

 教育基本法(全文)
 教育基本法改正案(全文)
 (なお、お読みの際には
 できれば安部総理の顔や日教組などのことを
 頭から追い出したサラの心で読まれることをお勧めします。)

 読んだ上で、再度考えてみよう。
 今の教育基本法ではもう本当に限界が来ているのか?
 改正案に掲げられている理念には
 国粋主義的きな臭さが本当にたちこめているのであろうか?

 ・・・

 いや、
 こんなエラそうなこと言ってる私だが
 実のところは、少しばかり「悔しい」気がするだけなのだ。

 賛成反対と騒いでいるけど、
 結局は他人からの借り物の意見に振り回されているだけなんだろ?
 どうせ一般国民は真剣に考えてなんかいやしないんだから、
 適当にあしらっておけばいいんだよ・・・

 そう言って笑っている誰かの気配を感じるから・・・

 そう言えば、
 「国民に政治を意識させないのが『理想の政治』というものだ」
 なんて言ってた人いなかったっけ?


 そんな不遜を許さぬためにも
 とにかく今日は私も、

 自分自身の意見と考えを

 少しみつめることにしてみます。

 ・・・
 だって、
 すべての判断は
 そこから始まるんでしょうから、ね。


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2006/11/14

訛りの魔力

 たとえば、何かの文章を読んだとしましょう。
 言うまでもなく
 そこからはいつもさまざまな出来事・書き手の考え・感情が伝わってくるのですが、
 常になく「おやっ」と思うことがあります。

 それはその文中に会話が出てきて
 そこに微かなお国訛りが垣間見られるとき。

 ああ、この方は○○の方だったのだなぁ

 でも
 筆者のお住まいの地域は実はもうせんから知っていることも多いのです。
 それにもかかわらず、
 その会話文を目にする度に
 私はいまさらの如く上記の軽い驚きを感じるのは何故なのでしょうか。
 多分、
 それはその言葉がその文章にも驚くべき変化を
 与えるから。
 それまでは
 平面的で字面以上の世界を持たなかったその文章を
 立体的で具体的に―色や香りすらもつ生生しいものに、
 一瞬のうちに変えてしまう、
 あたかも、
 文章から登場人物たちが湧き上がってくるかのように、です。

 つまり
 お国訛りとは、それだけ不思議な魔力を持つ言葉なのですね。


 ああ、いいなぁ・・・

 残念ながら
 東京近郊のベットタウンに生まれ育った私には
 無味乾燥な共通語があるだけ。
 はっきり言ってツマラナイものです。

 一度でいいから私も
 「・・・してよか?」とか
 「あかんなぁ」とか
 「・・・してまって」や
 「どこさ行ぐ?」って言ってみたいもの
 (ごめんなさい、めちゃめちゃですね―汗)。


 というわけで、
 私もネイティブ東北人の夫を前に
 ちょっとした真似ごとをするのですが、
 それはあくまで身内である夫にしか披露できないレベル。
 とても他のネイティブの方の前では喋れたものではありません。
 おそらく一生喋れないでしょう。
 (彼らの言葉と私の言葉では
 音の出てくるところからして違っているようにすら思えます。)

 そこで、
 ネイティブのブロガーの皆様にお願いがあります。
 その記事中に会話を、
 できれば喋ったそのままの会話をたまには載せていただきたいのです。
 臨場感が増すこと請合いますよ(笑)。


 でも、
 話し言葉をそのまま書くって意外と気恥ずかしいもの、
 それは、
 今回書いてみて実感致しました・・・・

 ですので
 それでもよかったら、ということで

 どうぞよろしくお願いします・・・

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2006/11/09

お月様の「こよみ」

 今朝の天気予報にて。
 「・・・本日は小春日和の1日となることでしょう。」
 そのとおり、
 まことにさわやかな日和となった本日11月9日。

 恥ずかしながら、
 私が小春が秋の陽気をさす言葉だと知ったのは
 大分大きくなってからのことだったと思います。
 それまで
 暖かく過ごしやすい日ならいつでも
 「小春日和」というものと思っていたものでした。
 
 ところでこの「小春」という言葉なのですが、
 小春(ショウシュンと読む)とは陰暦10月の異称とか。
 てっきり二十四節気の1つかと思っていたのですが、
 まるで違うものだったのですね。


 陰暦
 ―月の満ち欠けがその基本になっている暦―

 地球が太陽を周る周期による太陽暦とは違い、
 そのせいか、
 神秘的というか、妖しげというか・・・

 当然といえば当然なのですが、
 月の満ち欠けと地球の公転周期はピタリと割り切れるわけではないから、
 純粋な陰暦と季節とはズレていってしまう運命にあります。
 それを補う為に公転周期に基づく二十四節気が生まれ、
 そのズレが大きくなってくると
 閏月を入れて補正したとか。

 でも
 そんな面倒なことをしてまで
 月に暦の基本を求めたのは何故だったのでしょうか?
 約30日間にも及ぶ時間周期を
 具体的な対象で実感するのには
 満ち欠けする月は、
 大変好都合だったのかもしれませんね・・・

 さて、
 このところ
 ここらあたりでは
 とってもきれいに見える月。

 満月からは
 もう3日ほど欠けてしまいましたけれど、
 再び
 マンションの谷間に
 あなたの金の姿が拝めることを願いつつ

 今宵もまた

 神秘の世界に
 浸らせていただきますね・・・
 


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2006/11/07

「フラットライナーズ」

 週末「フラットライナーズ」っていう映画を観ました。

 いわゆるB級ものらしく
 SFなんだかホラーなんだかサスペンスなんだか、
 (それともひょっとしてヒューマン?)
 なんて感じの、まあどっちつかずの映画。
 それほど有名な作品ってわけでもなさそうです。

 ストーリーは
 心臓停止状態を人為的に作り出し、
 それによる臨死体験をしようとする医学生たちの物語。
 で、
 もちろん私が興味があったのは
 その死後の世界についてだったのではありません。
 その臨死体験によって
 揺すり起こされた彼らの心の中の闇の問題、
 そちらのほうがメイン・テーマだということを聞いたので
 このDVDを借りようと思ったわけだったのでした。


 先日、
 私は「ずっと疑問だったこと」という記事で
 いじめた側の心はどうなっているのだろうか
 との問いかけをしました。

 多分
 彼らは思い出しもしない、
 罪の意識すらない、

 多くのひとが皆そう思っていることでしょう。
 私も事実そう思っていました。
 やられたほうだけが
 一方的に恐れ恨み、
 心に深い闇をもつものなのだろう、と。

 しかし、
 この映画ではそれが違っていた・・・
 臨死状態が
 記憶の奥底に隠されていた
 かつてのいじめっ子であった彼らの罪の意識を解き放ち、
 その罪をあがなうことで救いを求めていく、
 そういう展開になっていくのです。

 そんなバカな、映画の話だろ?
 十何年も昔にいじめた子のところにわざわざ謝りにいくヤツがどこにいる?

 本当に・・・。

 でも、
 昨日この映画へのレビューの中で、
 昔いじめた子のコトを繰り返し今でも思い出すという人を見つけ、
 この映画で青年が赦された時、自分もまた「救われた気」がした、
 と記しているものを読んだとき、
 私は不覚にも涙が出そうになりました。

 ・・・だって私もまた
 そんなような「どこにでもある」いじめを受けていた時期があったから・・・


 多分私をからかった人たちの中に
 そんなことを思っている人は誰もいないはず。
 こう書いているこの人だって、
 映画の感傷にひたって多少オーバーに書いているだけかもしれない

 それでも、
 そう一瞬でもちらっとでも思ってくれるひとがいた、

 それで十分なのかもしれません。

 これで、
 多分これから先もずっと消えることはないだろうと思っていた
 恐れからも、恨みからも、
 解放してもらえた・・・


 30年来の胸のつかえがようやく落ちたような、

 昨日は
 そんな日、でした。

 いい日、だったのでしょう、ね?

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2006/11/02

もしも年齢及び性別が不詳なら

 夕刊を開き、
 いつものエッセイコーナーに目を通す。
 そんな時、
 ふと、何気にその文面から
 筆者の情報が入ってきて驚かさせることもある。

 例えば、
 「あれ、『妻の実家』って?
 ○美って名前だからてっきり女の人かと思っていたのに・・・
 じゃあこの人、男だったんだ?!」
 という具合に。

 私は基本的に文学界に詳しくないから、
 執筆されている方のことをほとんど知らないで読んでいる場合が多い。
 したがって、上記のようなお間抜けな勘違いは結構あるのだ。

 それでも性別のほうはそうそう間違えることもない。
 が、年齢となると
 これがなかなかわからない。
 文章の色合いには、
 筆者の考えや性格が現れることはあっても、
 年齢が現れるのということは意外とないから。
 それこそ文章中の具体的な情報が書かれていないと
 わからないことって多いのだ。

 「フムフム、3年前に生まれたばかりの甥がいるのか・・・
 ってことは、私より大分若いのかな?」
 「『戦後の間もなく』なんてあるんだから、じゃ私より随分年上なのだな。」

 なんて感じ。
 不思議なことに
 文章を書いているひとのことが
 こんなふうにさりげなくわかるというのは
 なんだか妙にうれしいかったりするものだ。


 振り返って自分を見てみる。

 自分の性別、年齢、家族構成、
 それからどこに住んでいるのか、などなど。
 もうそれらはことごとくこのブログで紹介済みだ。
 
 読んでくださる方のためにも
 もう少し秘密の部分を残しておいても良かったかな・・・
 なんてつまらぬことを考える。

 ・・・実は、
 「ぞふぃ」は男でした
        昭和一桁生まれでした
        家族はおらずひとり
        離島に住んでいます・・・なんて。

 ・・・やはり無理なうそはやめときましょう(苦笑)。


 でも、もしも・・・

 私が己のことには触れず、
 ただ考えや思いのみを書き綴っていたとしたら、
 私という書き手は
 読み手の目に一体どう映る?
 どのような想像を掻き立てる?

 それにはとても興味がある。

 今更、
 それが試せないのは
 なんだか勿体無い気がするぐらい

 なぁんだ、

 結局自分が楽しみたいだけ、ってことのようですね。


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