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2007/01/30

「寂」と「淋」と・・・

 ・・・「さびしい」って書くときに、

 「寂しい」と「淋しい」、
  あなたはこの2つ、どちらを多く使っています?

 実は
 私はほとんど100%「寂しい」のほうを使っていたのですが、
 先日コメントを下さった方の「淋しい」という文字を見て・・・
 そこでハタと気が付いたような次第なのです。

 この「淋しい」と「寂しい」が
 同じ「さびしさ」をあらわしているとは
 なんとなく思えない・・・


 淋しい、淋しい、淋しい・・・

 ・・・なるほど。

 「寂」がなにやら翁の枯れたさびしさを感じさせるのに対して、
 こちらの「淋」はもっと女性的な情感が込められている気がしますね。
 ヒダの多いウェットな感じでとでも言うか・・・

 そんなことから派生して
 さまざまな同音類義の文字を思い浮かべてみたのです。

 例えば
 「なみだ」の「涙」「泪」「涕」
 「みどり」の「緑」「碧」「翠」
 「からす」の「烏」と「鴉」とか、

 そうそう、「思う」と「想う」もそうですね・・・


 そのほかにももっといっぱいあるかもしれない類義文字。

 「正しい意味や使い方をしっかり把握しているのか?」
 と尋ねられればきわめてあやふやだったりもするのだけど、

 そうですね、
 演歌で流す「なみだ」は「泪」のほうが似合いそう・・・とか
 3つの中では「碧」が一番透明感を感じるな・・・とか
 「ギャアギャア」鳴くのは「烏」よりは「鴉」だろう・・・とか
 そして、
 ラブレターに込める「おもい」は「想い」に違いない・・・と、


 そんな
 自分のイメージの文字の世界に遊ぶのは

 これで
 結構楽しい空想ごっこになるんですよ。

 ま、結局
 暇ってことなんでしょうけど・・・


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2007/01/25

コメントやTBを公開する真意とは

 ちょっと前なのですが、
 「blog のここが嫌い」という記事を「高樹洸のWebColumn」さんで拝見しました。
 2年ほど前の記事なんですけれど・・・ね。

 ・・・うーん
 この内容って
 ひとによっては辛らつに受け取られるのかもしれませんね。
 でも、
 少なくとも私には拒否反応よりは頷くことのほうが多くって。
 それはやはり私自身もまた、
 この「コメントやトラックバック(以下TB)公開し共有する」ということに
 疑問のようなものを感じているからなのだと思うのです。
 (いや、
  この筆者のご指摘のような
  ドロドロの人間関係が生まれる心配があるからとか
  というんじゃないのですが。)


 「コメント・TBを不特定多数の人々に公開し、それを共有する」

 そのもっともそれらしい理由というのは、
 やはり「そのテーマに対する闊達なる議論への発展のため」
 っていうのがまず挙げられるのでしょう。
 blogの持つ特色、コミュニティ性というやつですね。
 でも
 本当はそんなご大層な理由ではなく
 実はもっと簡単で単純な理由、
 付けられる側もつける側も
 手軽に「自己アピール」ができるっていうのが
 この現代の「blog花盛り時代」をささえているのではないでしょうか。

 だって考えても見てください。
 「メールにて感想を送る」というのは
 作家に送る一読者のファンレターよろしく
 云わば自分の片思いの告白文でしかありません。
 それに対しblogへの公開されたコメントは
 送る側にしてみれば自分の意見の公への発表を意味しています。
 オマケに自サイトをリンクして付けるから、いい宣伝にもなる。
 ひょっとしたら自サイトを気に入ってくれる誰かの目に
 留まるきっかけになるかもしれません。
 そんなこと考えると
 出す側としたらやっぱりメールでこっそりより
 コメントで公開してもらったほうがいいですよね。
 (実際私だったら
  よっぽどのことがない限り
  メールで感想は出さないと思います)

 今度はもらう側のほうを見てみましょう。
 もらうほうにしてみても、
 メールでひっそりファンレターをもらうより
 コメント欄という掲示板に掲げるほうが
 自分のサイトが読者に何らかの反応があることを
 (こう言っちゃあなんですが)
 誇示することができる。
 読者の反応はちゃんとあるんだよ、
 活発なやりとりのあるサイトなんだよ、ってな感じにです。
 (大分意地悪な見方ですけどね―苦笑)

 ホントのところ
 送る側にしろ送られる側にしろ
 そういう自己アピール(自己顕示?)が主たる目的なのに
 「闊達な議論」のためなんて大義名分がちらついたりして・・・
 いや、
 ドップリそれに漬かっている自分だからこそ感じるんですが、
 そういう「偽善」っぽい匂いがなんだか妙に嫌で・・・・ 
 さらに加えると
 そう思いながらも、
 反応の激減を恐れて
 コメント・TB欄を外すこともできない自分がまた嫌で・・・


 というわけで、
 今日の更新の際にも
 結局は公開設定を何も変えることもなく、
 ひとり悶々としているわけなのです。
 (ためしにメールコメント欄を右サイドバーに作ってはみたのですけど、
 あまり意味ないです―汗)

 そんな私に必要なのは、

 「自己顕示が目的って当然でしょう?
  それのどこか悪いの?」

 という開き直りなのかもしれません。

 実際、
 そういうふうに早く一皮剥けたいものなのです、が・・・


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2007/01/23

クラッシック

 「古典が好きなんです」

 などというと語弊があるかもしれない。
 高尚さを気取っているわけではもちろんない。
 要は、
 現代モノがダメなだけなのだ。

 新聞などの
 新しい作家、新しい小説を取り扱った書評欄を読むのは好きだ。
 結構楽しんでいる。
 ただ
 そこに記述されている書物を取り寄せて読むなどというのはほとんどない。
 芥川賞や直木賞といった話題の受賞作品であっても、だ。


 何故か?

 期待していないからではないのだ。
 むしろその逆でつい期待してしまう、
 それを裏切られるのが嫌だから・・・

 だから、
 私が手にするのは
 中学生や高校生が読むような
 文学作品
 ―名作と言われるような評価の定まった作品。
 その中で自分が気に入ったものだけを
 繰り返し繰り返し読む。
 幾度も幾度も・・・

 それが安心なのである。


 古典ークラッシック―とは、
 時代を越えて生きるものという意味・・・

 そんなことを
 以前どこかで耳にした。

 それに当てはめてみるならば、

 さしずめ
 現代作家を広く旺盛に読む方々は
 その書物がクラッシックとなるかを見極めんとする能動的な人々で、
 
 そうしない私は
 時代というろ過装置を通過したものだけを
 享受する
 モノグサ者と言えるのであろう。

 ・・・仕方ない。
 だって
 私にとっての読書とは

 好奇心を満たすというよりは、
 安らぎや安定を与えてくれるもの

 いわゆる
 なじみの本たちとの
 馴れ親しんだ会合・・・

 なのだから・・・


 というわけで、
 
 またも手にする本は
 自分の書棚の中から取り出すモノ。

 今年この書棚に何冊の本が追加されるかも
 未だ全くの不明、なのである。
 
  
 

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2007/01/18

マイナス×マイナスの話

 昔いた会社の後輩の話なんですけど。

 その子が言うには

 ―マイナスにマイナスをかけるとプラスになるって
   どうしてもわからない―

 んだそうなんです。


 うーん、マイナス×マイナスですか・・・

 実は私も数学は得意ではありません。
 でもその私でも、
 マイナスの数をX倍にするってことならば感覚としてわかります。
 (そのマイナスの度合いが倍増されるってことですよね。)

 ただその反対のプラスの数ををマイナス倍にするってなると、
 いやはや、最早私の頭も既に?マークでいっぱいです。
 だいたいマイナス倍ってどういうことなのでしょうか?
 
 そこで登場するのは掛け算の交換法則。
 「掛ける数と掛けられる数を入れ替えてもその積は変わらない」というもの。
 つまりその法則によれば、

 (-2) × 3 = -6 であれば
 3 × (-2) = -6 であるはずということになる。

 これにより、
 「マイナス倍する」ということは「掛けられる数」の符号を逆にする
 ということになり、
 結果、
 マイナスにマイナスを掛けることはその積がプラスになる
 ということに結びつく。

 めでたしめでたし、です、・・・一応は。
 でも「マイナス倍ってどんなもの?」っていうのは
 どうなったのでしょう?
 
 どうも私には、
 ―マイナス倍とは実感できるものではなく
 数学という人の頭での中で数を管理する
 概念の世界にしかないものであり
 その概念を構成する法則が生み出した虚構のもの―
 ぶっちゃけた話、

 その法則の辻褄合わせによって生まれたようなもの

 って気がしてなりません。
 (こんなことを書くと
  数学というものをよくご存知の方には憤慨
  あるいは失笑を禁じえないでしょうが・・・
  実際数学というものはそういうもので、
  そんなことにイチイチ難癖つけてるようでは
  先に進まないのです。)
 
 とまあ、
 私はそんなふうにいい加減ながらも
 割り切ってこの法則を受け入れたわけですが、
 そのように受け入れられずにいるひとも
 世の中にはそこそこいるみたいです。

 先ほどの後輩の子の言葉の続きを聞いてみるとしましょう。

 「わからないけれど、
  でもそんなことウダウダ言ってもしょうがないから・・・
  とりあえず教えられたとおりに機械的に答えを書くんだけど、
  実はその計算をする度に、
  『コレは絶対オカシイ!!』と今も心の底では思っている・・・」

 
 彼女のようなひとは結構いるのかもしれません。
 そういえば、ジブリの映画の「おもひでぽろぽろ」でも
 主人公が、
 「分数で割ることが掛け算になるってのは納得できなかった・・・」
 と自分の子供時代のことを振り返るシーンがあったりしましたね。

 このひとたちのことを
 屁理屈にこだわって損している、とか
 あるいは自分の不勉強(失礼!)を棚に上げて言い訳にしている、とか
 そんなことを言う人もいるかもしれません。
 でも
 「その感覚が実感できないとそれを理解できない」ってのは
 それはそれで仕方ないような気がします。
 無理のないことです。

 むしろ、
 
 おかしい、おかしいと思いながらも
 それでもなんとなく世の中に流されていく・・・
 でもそれを心の底では否定し続ける

 そうした処世の術に隠された
 その強情さと
    柔軟さと・・・
 
 それが私には、
  
 人間の純粋さと
 人間のずるさが
 複雑に入り混じって見えてくるような・・・
 
 なんだかそんな気がして
 妙にうれしくなり
 彼らにエールを送りたくなる・・・

 ・・・

 そんな気がするのは、私だけなのかもしれませんが・・・

 

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2007/01/16

「転ばぬ先」よりも

 ・・・
 正月気分もすっかり抜けると、
 そこは
 受験の最後の追い込み時期であった・・・

 そんなご家庭も多いのでは?
 もちろん、うちにはまだ無縁の話であるのだが。

 だがそんな風に思いながらも、
 気心の知れた親同士の会話などに
 ふとした拍子に上るのは
 「塾や受験」といった話題だったりするのである。
 (まったく、
  ついこの間まで「離乳食」や「おむつはずし」について
  話していたっていうのに、
  次から次と大変なことだ)


 子供の数が少なくなり、
 尚一層の子育ての重要性が声高に語られるようになって既に久しい。
 そして、
 そんな今多くの親たちは大いに迷走している。
 その迷い根幹にあるのが、
 「遅れをとってはならない」という意識。

 このまま
 手をこまねいて何もしないでいれば
 必ず将来の苦労するのは必然。
 だから今、この時期に苦労しておくのだ。
 将来オトナになってから苦労しないため、
 将来「こんなはずじゃなかった」と後悔しないため・・・

 だから
 高校で受験するよりは中学で、
 中学で受験するよりは小学校で、と
 子供が苦労する時期はどんどんどんどん早くなる・・・


 でも、ちょっと待って・・・

 今苦労しておけば将来楽になるって言うけど
 その保証は一体どこにあるというのだろうか?

 優秀な学校で落ちこぼれないためには
 尚一層の努力は必要なのだし、
 優秀な人が集まる職場でひとかどの働きをしていくためにだって
 のほほんとなんかしていられないはず・・・
 つまり将来楽になるなんていうのは、
 その子の努力と能力次第であり
 絶対大丈夫などという保証はどこにもない。
 そんな不確かなものに期待するよりもむしろ
 ずっとこの苦労が続くことを想定したほうが現実的なのでは?
 
 だからこそ
 その苦労をその子がこの先ずっと背負っていけるのかという冷静な判断、
 背負っていけないようであるのなら
 背負えるものを一緒に探してやりそれに代えてやる、
 その努力こそが
 保護者たるものの務めなのではないだろうか?


 「転ばぬ先の杖」、という言葉がある。

 私はこの言葉がはっきいって好きではない。

 なんだか、
 賢いというよりは小賢しい。
 もっとぶっちゃけるとズルいという気にすらなる。
 
 そのような
 「転ばぬ先の杖」よりも
 「転んでも起き上がれる力」こそを
 子供には身につけさせるべき、だなんて

 そんなこと
 blogなんぞで、もっともらしい顔をして書き連ねるなんて

 ちょっといいカッコしすぎでしょうか、ね?

 ココログは本日16日午後3時より明日17日の午後3時まで
 メンテナンスに入ります。
 その間コメント及びトラックバックは頂くことはできなくなりますので
 ご了承のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

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2007/01/11

心の過去帳

 ヘッセの小説で「春の嵐」というのがある。

 最初に読んだのはもう20年以上昔のこと。
 足の悪い音楽家の話なのだが、
 ヘッセの中では多分一番好きな作品で、
 今も繰り返し読んだりするほどだ。

 その中で
 美しいテナー歌手である友人がこんなふうに語るところがある。

 「ほんとにうれしいな(中略)
  ぼくは君をひそかにもう過去帳にのせていたんです。」

 
 この「きみ」とは主人公の音楽家のこと。
 どうもこのテナー歌手は
 「この友人関係は終わってしまった」と思っていたのに
 主人公がまた訪ねて来てくれたのを喜んで
 そう語っていたようなのだが、
 それにしても「過去帳」とは・・・!
 また特殊な言葉で訳したものである。

 私は最初、
 読んで字のとおり「過去の人の名簿」という意味もあるのかと
 思っていたのだが、
 実際きちんと調べてみると
 過去帳とは
 「寺で、檀家(だんか)・信徒の死者の
  俗名・法名・死亡年月日・年齢などを
  記入しておく帳簿(YAHOO辞書より)」のことで、
 それ以外のものではないようなのである。
 ・・・
 「春の嵐」はドイツ文学なのに
 思いっきり日本的な言葉というわけだ。

 もっとも
 原語であるドイツ語がどのような言葉で書かれているのかは
 なんとも言えない。
 ひょっとしたら欧米にも
 寺ではなく教会などで管理している過去帳
 (英:the death register)
 のようなものが存在し、
 それをそのまま訳しただけなのかもしれないし・・・

 いずれにせよ
 実際の死者の名簿に例えるあたり
 この「過去帳」という言葉は、
 「過去の友とは、既に自分の心にとっては『終わった人』」と
 とらえているようで、
 なんともシビアな感を受ける。
 そして
 敢えてそのようにシビアに扱わざるを得ない
 過去帳の持ち主の寂しさのようなものが伝わってくるのだ。
 それだけにこのテナー歌手にとっては
 「心の過去帳」からの復活を意味する主人公の来訪が
 ことのほかうれしかったのだろう。


 さて、
 これに近いことが
 私の身近にも年に一度、年の初めにある・・・

 それは疎遠になった友からの年賀状を受け取るとき。

 1年間音沙汰無くとも、
 賀状を出し
 また受け取ることによって
 心の過去帳への本記載がまた先延ばしになる・・・

 そうやって
 先延ばしにしていることもまた、

 つかず離れずのひとつの友情の形、

 なのかもしれない、のだが・・・

 互いにまだ過去帳に載せられていないことが、
 そして
 互いが「載せるには戸惑いのある存在」なのだということが、

 それだけでも
 十分心温まる「年の初め」を私に与えてくれる、のだ。
 
 ・・・ありがとう
 

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2007/01/09

孝行息子

 7日に夫の実家から帰京した。

 今年は
 北国にめずらしく雪のほとんどない正月で
 過ごし易い日々だったのだが、
 我々が発つ日から大荒れの吹雪に急変。


 雪深い山村に老母をひとり残して去らねばならぬ

 そんな辛さがあったのか、
 「一度も雪掃きすらやってやれなかった」と
 しきりと後悔する夫。
 そんな彼を見るにつけ
 心に浮かぶのはこんな言葉だ。

 孝行息子―

 一緒に暮らしてあげられないという負い目があるとはいえ
 彼の親孝行ぶりはなかなかなものである。
 老いた両親のため古い家を新しく建て直し
 長期の休暇は全て実家に戻って親の手助けに費やす。
 週に一度は必ず実家に電話を入れ、
 様子を伺いその心配事の相談相手となる。
 義父が亡くなり義母ひとりの生活になってからは
 一層そのいたわりは増すばかりだ。

 優しく思いやりがあり常に親のことを心配している・・・
 そんな彼のことを、
 世の人は皆
 いい息子だと
 微笑みをもって見るのであろう。

 だが、
 その中でただひとりそれを複雑な思いで見つめる者がいる。
 それは、私―
 その「孝行息子」の妻たるこの私なのだ。


 ・・・

 「家族なんてもんは
  結局は愛情の奪い合いなんです」

 とは、
 ジョージ秋山氏の「浮浪雲」だっただろうか、
 母(嫁)と祖母(姑)の仲を
 うそをついてまで取り持とうとする子を
 その父がいさめるシーンで聞いた言葉。


 義母と私は決して不仲というわけではなく
 上手くやっているほうだとは思うけれど・・・

 ややもすると
 愛情をかき集めて
 独占しようとしてしまう私には

 いやはや
 この言葉は、
 身につまされますなぁ・・・


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