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2007/02/27

エコカーはクールか

 昨日行われたアカデミー賞の授賞式についてなんですが。

 菊地凛子さんが受賞を逃したとか、
 イーストウッド氏の「硫黄島からの手紙」も残念だったとか、
 そういうことよりも
 ちょっと気になったことがありました。

 エコカーなんです。
 こちらの記事にもあるように、
 ハリウッドの大物スターたちがこぞって
 リムジンをやめてハイブリッド車などのエコカーで会場に乗り付けて来たとか。
 いわく、
 燃費が悪いリムジンより、環境にやさしいエコカーの方がクール(かっこいい)-
 ということで地球温暖化対策への重要性をアピールしたらしいんですけどね・・・

 いや、おっしゃりたいことはよくわかります。

 温暖化について僕は意識が高いんだよ、
 注目度が高いスターなんだから
 率先してアピールするのは当然じゃないか
 それに今時リムジンなんか乗って来るやつは
 カッコ悪すぎるぜ

 とそういいたいのでしょう。


 行動することは大事です。
 偽善であってもソレを行うことは
 行わずにシノゴノ文句を言っているよりは
 ずっとマシだとも思います。

 でも、カッコいいんですか?
 皆右にならえのレンタルのエコカーで会場に乗りつけることがそんなに
 カッコいいことなんでしょうか?

 皆さん、世界で最高に注目されている方々なんだから
 もう少し気の利いたアピールは
 できないものだったんですかね。
 (よくインタヴューの受け答えなどで受ける印象からすると
 どっかのキャンペーンに皆でのるだなんて一番つまらないって
 思っていそうな人達とお見受けしていたのに)。


 どうせやるなら、

 やっぱり、スポンサーの意向とかが絡んでいるのかな

 なんて下種なことを庶民に思わせないような
 そういうアピールでないと
 なかなか
 インパクトにはかけるんじゃないかと、
 そんなふうに
 アマノジャクな私としては
 どうしても思ってしまうわけなのです。


 ちなみにこのキャンペーンは今年で5回目だとか。

 それが今年も
 殊更のようにニュースになること自体が
 そのカッコ悪さを強調しているだけなのかも。

 そういう意味では、
 スターの皆さんには
 これは責任のない話なのかもしれませんけどね・・・


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2007/02/22

この国とよその国の違いについて

 誰かが言っていました。

 この国には、
 うまいことやってオイシイ思いをしている人と、
 それからあぶれてるのをやっかんで不満タラタラの人の
 2種類しかいないって。

 だから世の中は変わらない。
 不満タラタラな人も一度オイシイ側に入ってしまえば
 わが身の保身にすぐ回ってしまうから、
 結局は同じなのだというわけなのですね。


 うーん、
 そうなのかもしれません。
 いろいろと周りをみても
 どうも建設的な改善策ってのが
 明確に現れてこないんですよね。


 それでも、
 じゃあよその国はどうなのか、と思うのですよ。
 よその国にはこの2種類以外の人がいるのか、
 ということです。

 残念ながら自分以外の国のことを良く知らないので
 わからないのですが、
 この国にはない普遍的な正義とか平等というものが
 そしてそれによる具体的な解決策というものが
 そこにはあるのでしょうか。
 あるのだとして、
 それはやはり宗教のおかげなのですか?


 卑しい心の私には、
 どうもその辺がよくわからなくて。
 人間の持つ道義という点で
 我が国民が特に劣っているとはどうも思えないですけどね。


 でも

 もしも、
 もしもですよ

 宗教をもたぬ国というツケが
 こんな形できているのだとしたら、
 なんだかそれはそれで
 とても残念・・・

 そんな気がしませんか。


 いや、
 この国の宗教アレルギーについては

 わかってはいるつもりなのですが・・・


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2007/02/20

野望の跡

 昨年の年末からなんですが、
 実はとあるサイトの映画レビュワーになっています。
 
 そちらでもハンドルは同じく「ぞふぃ」としていますが
 このサイトとリンクさせるのは
 ちょっとためらいがありました。

 どうしてなのか。
 つらつら考えてみれば
 つまり全く別のぞふぃとしてそこにレビューを書く自由が欲しかったからなのでしょうね。
 

 でも、
 どうも どこで書いたとしても結局は
 私の書くものは「その色」になってしまうに気が付いたというか、
 ダメですね、
 結局はここに書くような生真面目路線が私にはあっていることを
 今更ながら痛感した次第です。

 というわけで、
 人をクスリとさせる
 気の利いたレビュワーになる夢はきっぱり諦め、
 こちらのサイトにもサイドバーにリンクをすることにしました。
 
 

 よかったら、
 覗いてみてください。

 ひょっとしたら
 無理して笑いをとろうとしている
 私の「野望の跡」がみられるかもしれませんよ(苦笑)。

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2007/02/15

想像力による幸せ

 昨日読んだエッセイは、ホタル族の話だった。
 
 愛煙家の筆者がベランダで吸うタバコについて書いたもの。
 家族に迷惑がられ、
 自分の家でありながら自由に喫煙することもできずに、
 寒い冬の夜や雨がそぼ降る夜であってもベランダでタバコに火をつけるホタル族。
 だが、彼が言うにはホタル族というものは、
 世間一般のそんなイメージのような哀れなものでもないらしい。

 もちろん多くのホタル族たちは
 この室内禁煙令を最初はしぶしぶ承諾したはずである。
 筆者とてその一人であった。
 だが、今となっては部分的室内での喫煙を許可されたとしても
 やはりベランダで吸うことを選びたいという心境に至っているらしい。
 何がその変化をもたらしたのか?
 それは、
 外で吸うタバコは室内のそれよりうまく、
 そして何より「タバコを吸う」ことを言い訳に家族の喧騒の渦から逃れられる、
 こんな理由からなのだ。

 例えば、
 子供が物をガチャンと落としたとする。
 妻が金切声を上げる。
 そういった喧騒と同じ室内にいれば
 イライラさせられるに違いのない自分なのに
 窓を一枚隔てたベランダからだと、
 何故かその騒ぎも微笑ましい。
 余裕をもって眺められる。
 この家庭に自分も属していることに
 幸せをしみじみ感るのだ・・・
 いわく、
 「家は外から眺めて幸せに浸るもの」
 といったところであろうか。


 そんな内容の文章を読んだ私が
 ふと思い出したのは、
 ほんの5年前の自分のことを。

 当時私は子供を幼稚園の延長保育に預けて、
 今の仕事に就くために製図の学校に通っていた。
 肌はガサガサ、
 髪の毛は枝毛だらけになるような
 ナリフリすら構うことができない目の回るような忙しい毎日。
 (夫も当時多忙を極めほとんどアテにはできなかった)。

 朝晩の分刻みの忙しさの中では
 子供が可愛いとか一緒にいて楽しいという感覚ははるかに遠のく。
 それに代わって頭を占めるのは、
 ちゃんとやることをやらなきゃという意識。
 そしてそれが上手くいかないとき(ほとんどがそのときなのだが)の八つ当たりは当然のごとく子供に向かう。
 ガミガミ母さん、そんな言葉がピッタリ当てはまるような当時の私。
 だが、そんな私であっても
 唯一「やさしいおかあさん」になれるのが、
 子供を迎えに行き連れて帰ってくるその自転車の上での時間だったのだ。
 行きは
 「ああ、早く会いたいなぁ・・・
 (お迎えを知ったら)どんな顔で跳んで来るかな」
 という幸せな思いでいっぱいになりペダルをこぐ。
 そんな気持ちで迎えた子供たちとの帰り。
 このときだけは、
 和気藹々とした空気が流れるのはごく自然なことだった。

 いわく、
 「子の可愛さは離れてみて実感できるもの」
 といったところであろうか。
 そう、ホタル族のお父さん同様、
 その渦中ではなく
 一旦外に出たからこそ私はその「幸せ」を感じられたのである。


 そこで私は考えた。

 (ということは、だ・・・
  「幸せ」っていうものは
  包まれて浸るものでもあるのだろうが、
  そこに向かって思いを馳せて浸るものの方が
  圧倒的に多いのかな・・・)

 言うなれば、
 前者が「感覚のもたらす幸せ」であるのに対し、
 後者は「想像力のもたらす幸せ」というところなのだろう。


 人間にとって、
 欠かせない能力である想像力。

 それは実は、
 コミュニケーション能力とか予測能力といった
 極めて社会的で実利的な目的のためだけではなく、

 「大いに幸せを感じる」という
 より個人的で観念的な目的のためにも
 必要不可欠であったとは・・・


 うーん、
 こう考えてみると

 みなさん、
 想像力って本当に侮れないものなのですね。


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2007/02/13

ほれたとは女のやぶれかぶれなり

 表題の古川柳は
 さる雑誌のなかで見つけた言葉。
 今から17,8年前か、
 とある女性筆者が
 恋愛指南として書いたエッセイ中で紹介していたものだ。


 その概要は、

 恋愛の上手な女というものは
 決して自分から迫ったりはしないものなのだ。
 彼女たちは、
 意中の相手には自分が好意があることをさりげなくほのめかし
 相手に告白をさせる手段をとる。
 逆に言うと
 ほのめかしても告白してこない相手というのは
 たとえこちらが告白してもダメだということ知っているのだ。
 が、それにもかかわらず
 「ほれた」と言わずにはいられない女もいる。
 彼女たちは一縷の望みを託して告白に踏み切る。
 だがその告白は、
 ほぼダメだという状態を決定づけるだけのこと。
 その最後通告を自分自身にするのと同じ、
 まさに、
 「ほれたとは女のやぶれかぶれなり」ということなのだ。


 とまあ、そんな感じだったか。

 うーん・・・
 当然、私は恋愛下手だったから
 この文章に出会う前にも
 既に何回かの「やぶれかぶれ」を演じ、
 結果敢無く撃沈され続けるという日々を送っていた。
 なるほど、
 そういうわけだったのか。
 考えてみれば、
 相手が自分に好意を抱いているかなんて
 何も言われなくともなんとなくわかるもの。
 わかっていながら、
 素知らぬ振りをされていること自体が
 既にその答えであったのに
 それに気付かず告白に踏み切るなんて
 なんと自分は馬鹿だったのだろう・・・


 でも、

 あれから十何年もたった今、
 よくよく考えてみると、
 自分は好んでその「やぶれかぶれ」をやっていた気もしてくるのだ。

 せっかちで
 何でもすぐ白黒つけたがる性質だからだろうか。
 私は「告白という行為」を
 その緊張感とともに
 かなり楽しんでいた気がする。
 だからその結果は
 とりあえずどうでもよかったのかもしれない。
 ま、そんな計画性の無さが
 不毛なる恋愛経歴を産んだのだと言われれば、
 そのとおりなのであろうが・・・


 明日はバレンタインデー。

 この日が
 女性からの告白の日だなんていうのは
 もはや小中学生の間のみの話なのかもしれないけど

 この日に
 あちらこちらで行われるであろう
 私のような無計画の女たちの「やぶれかぶれ」に
 先輩として
 ささやかなるエールを贈りたいものである。

 もちろんそれは、
 彼女たちの恋愛成就には
 全く役には立たないものではあるのだろうが・・・


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2007/02/08

入籍しない理由

 先日、こんな文章を読んだ。


 書いているのは、
 結婚はしているが入籍してないという女性。

 その事実婚という形は、
 それはそれで十分考えた末の結論であるのに、
 その結論に批判的な意見を受けて今更ながら凹んでしまったこと、
 そして「そんなことで凹む自分」に更に凹まされた―

 そんなことが綴られた文章であった。


 ごく自然に、
 結婚イコール入籍とつながってしまった私には
 想像もつかない悶々たる想い。

 どうして、彼女は、
 いや彼女だけではない多くの人々は
 「入籍しない」というその選択をとったのだろうか。
 さまざまな偏見やこころない批判を受けることも承知の上で。

 彼・彼女たちにとっては、「入籍」は意味の無いことだから?
 いや、
 彼らにとっては
 「敢えて入籍しない」ということにこそ意味があるからなのだろうか?

 無意味な「入籍」と
 「入籍しないこと」への意義。

 表裏一体のようにもみえることだが、微妙にこの2つは違う。
 もちろん2つとも
 どの事実婚選択者にも存在するものなのだろう。
 ただ違うのは、
 どちらにより多くのウェイトをかけているかということだけなのだ。
 そう考えてみて
 前者の姿勢に妙な力が抜けた自然態を感じ、
 後者のほうにより世間に対するアピールのようなものを感じるのは
 私だけだろうか?


 どちらにしても
 入籍に意味を見出し
 それを何の疑問もなく受け入れた私には無縁の話だが、

 もしも
 私が事実婚を選ぶ人間であったとしたなら、

 前者のような自然態の姿勢が、
 自分の中でよりウェイトを占めるひとでありたい、と
 そんなことを考えた。

 「そちらがより正しい」とかいう話ではなく、
 「そのほうがより無理なく生きられるかな」という理由から。

 ・・・

 多くの事実婚選択者もきっとそうなのだろう。

 そうじゃなけりゃ、
 そんなことやっちゃいられない。

 他人と違う道を歩める力は、
 多分、努力とか意義とかから生まれてくるものではなく
 その道しか歩めない自分だからこそ生まれてくるものだから・・・

 願わくば
 前述の彼女もそういう一人でおられるように。

 それならば、

 きっとその道は
 この先も続いていくのだろうから・・・


 <追記:2/6の記事に関連して・・・>

 「ダーウィンの悪夢」に描かれていた
 グローバリゼーションによる生活破壊への抵抗になるかは微妙ですが
 「フェアトレード」という活動があることを今日あらためて知りました。
 いや、以前から知っていたのに
 いまひとつ関心を抱かなかったというのが正直なところです。
 ・・・今回、より耳を済ませて
 その活動の詳細を聞いてみると
 「見えない血で汚れた我々の手」を少しは
 きれいにしてくれるかもしれません・・・
 エコライフを心がけると同時にやってみる価値ありそうですね。

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2007/02/06

「ダーウィンの悪夢」と「不都合な真実」と

 ・・・夕べ、ふと思いついて夫に聞いてみた。

 「あのさ、
 いまやっている映画でさ、
 『ダーウィンの悪夢』『不都合な真実』と、
 どっちか観なきゃいけないって言われたら
 どっち観る?」


 「観なきゃいけないって言われたら」
 と、
 私は言った。
 「観たいのは」とは、尋ねなかった・・・


 「ダーウィンの悪夢」と「不都合な真実」

 これらは両方とも、
 今私たちが直面している問題を取り扱ったドキュメンタリー映画だ。
 ひとつは
 グローバリゼーションの名の下行われている生活破壊が描かれ
 もうひとつは
 化石燃料に依存しきった現代文明がおこなっている
 地球規模の環境破壊の危機的状況が説かれている。


 その私の問いに対する夫の答え。
 「・・・『不都合な真実』のほうかな。
  『ダーウィン・・・』のほうは観た後の凹む度合いが
  ものすごそうだから、
  観に行くにはちょっと勇気がいるよ。」

 観に行くにはちょっと勇気がいる・・・

 ・・・スミマセン、
   私モマタ ソノ勇気ガアリマセン・・・


 観に行くべき、
 だけど、観に行きたくない映画・・・
 そういう映画なのだ、この「ダーウィンの悪夢」は。

 言いかえれば
 それは
 こちらのほうに、
 よりやりきれない真実が含まれているということを
 無意識のうちに感じとっているから
 と言えるのかも。


 豊かで便利な生活をおくるごく普通の善男善女、
 その私たちが実はその生活をおくること自体で、
 既にその手を
 数々の見えない多くの血で汚していること
 それを目の当たりにするのは
 かなりきつい。
 それに比べれれば
 まだエコライフを心がけることで
 救われた気分になる
 「不都合な真実」の扱う問題のほうがまだマシだ。
 (それだって十分自己満足を抜け出ていない気も
 しないではないけれど・・・)


 だが、

 きついからと言って
 逃げ回っていても仕方が無いのだし
 また
 覚悟を決めて観に行ったとして
 それで終わり、というものでもない。


 いつかは
 観るかもしれない、
 いや、きっと観るであろう「ダーウィンの悪夢」。

 それまでは、
 臭いものにフタをし続ける
 自分と向かい合う日々がただ流れる・・・


 そんな自分でいいのか?

 という自問は
 常についてまわる、というのに、だ。
 

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2007/02/01

やつらは商売人である

 今話題になっている柳沢厚生労働相の「産む機械」発言。
 国会、マスコミ、または一般の世間でも「ケシカラン!」という
 怒りの声が満ち満ちています。

 で、ちょっと興味をもって「産む機械」で検索をしてみました。
 するとこんな文章が・・・
 「『産む機械』と『怒る機械』。柳沢大臣の発言で怒っているのは誰?」


 読んで「なるほど」と思いました。
 どこにかっていうと、
 議員が怒るのは商売の一環ってトコ。
 もちろんマスコミが
 自身が怒ったり他人(一般人)の怒りを煽ったりするのだって
 同じだというトコです。


 柳沢氏が仮に
 「女は『仕事だ』『生きがいだ』なんて言っていないで
 子供を産むことにもっと身を入れろよ!
 そもそも産む性なんだから!
 男にゃ産めないんだからしょうがないだろ!」
 っていう考えの持ち主だとして、
 まあそういう人は少なからずいるものです(残念ながら)。
 でも「政治家としての彼」の非難されるべき点は
 その考えではなくむしろ
 そんな本音(もしくは本音と受け取られてもしかたない態度)を
 さらけだして自分の商売敵に格好のエサをばらまいてしまったことなのではないでしょうか。

 ですから、
 「まあ、こんな考えの男のだったのね!あきれた大臣だこと!」
 という怒り方はどんなものかと。
 それよりは
 「こんなこと喋っちゃうなんてどういう了見かしら!
 大臣としての自覚に欠けるわね!」
 というほうが
 まだ冷静に物事を見ていると言えるのではないでしょうか。

 政治家にしろ、マスコミにしろ、
 「正義だ」「義憤だ」なんて旗を立てていたところで
 すべての行動は商売の一環。
 ビジネスなわけで。
 その彼らと
 ビジネス抜きで対峙する我々一般庶民は
 まずそのことをしっかり頭に叩き込んでおく必要がありそうです。


 考えてみれば
 納豆の捏造問題も
 そしてそれを今必死で暴き立てているのもしかり・・・


 そろそろ
 そんなのにはもう惑わされないぞ、

 っていうところ、
 多くのやつら商売人たちに見せてやりたいモンですよね。


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