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2007/02/15

想像力による幸せ

 昨日読んだエッセイは、ホタル族の話だった。
 
 愛煙家の筆者がベランダで吸うタバコについて書いたもの。
 家族に迷惑がられ、
 自分の家でありながら自由に喫煙することもできずに、
 寒い冬の夜や雨がそぼ降る夜であってもベランダでタバコに火をつけるホタル族。
 だが、彼が言うにはホタル族というものは、
 世間一般のそんなイメージのような哀れなものでもないらしい。

 もちろん多くのホタル族たちは
 この室内禁煙令を最初はしぶしぶ承諾したはずである。
 筆者とてその一人であった。
 だが、今となっては部分的室内での喫煙を許可されたとしても
 やはりベランダで吸うことを選びたいという心境に至っているらしい。
 何がその変化をもたらしたのか?
 それは、
 外で吸うタバコは室内のそれよりうまく、
 そして何より「タバコを吸う」ことを言い訳に家族の喧騒の渦から逃れられる、
 こんな理由からなのだ。

 例えば、
 子供が物をガチャンと落としたとする。
 妻が金切声を上げる。
 そういった喧騒と同じ室内にいれば
 イライラさせられるに違いのない自分なのに
 窓を一枚隔てたベランダからだと、
 何故かその騒ぎも微笑ましい。
 余裕をもって眺められる。
 この家庭に自分も属していることに
 幸せをしみじみ感るのだ・・・
 いわく、
 「家は外から眺めて幸せに浸るもの」
 といったところであろうか。


 そんな内容の文章を読んだ私が
 ふと思い出したのは、
 ほんの5年前の自分のことを。

 当時私は子供を幼稚園の延長保育に預けて、
 今の仕事に就くために製図の学校に通っていた。
 肌はガサガサ、
 髪の毛は枝毛だらけになるような
 ナリフリすら構うことができない目の回るような忙しい毎日。
 (夫も当時多忙を極めほとんどアテにはできなかった)。

 朝晩の分刻みの忙しさの中では
 子供が可愛いとか一緒にいて楽しいという感覚ははるかに遠のく。
 それに代わって頭を占めるのは、
 ちゃんとやることをやらなきゃという意識。
 そしてそれが上手くいかないとき(ほとんどがそのときなのだが)の八つ当たりは当然のごとく子供に向かう。
 ガミガミ母さん、そんな言葉がピッタリ当てはまるような当時の私。
 だが、そんな私であっても
 唯一「やさしいおかあさん」になれるのが、
 子供を迎えに行き連れて帰ってくるその自転車の上での時間だったのだ。
 行きは
 「ああ、早く会いたいなぁ・・・
 (お迎えを知ったら)どんな顔で跳んで来るかな」
 という幸せな思いでいっぱいになりペダルをこぐ。
 そんな気持ちで迎えた子供たちとの帰り。
 このときだけは、
 和気藹々とした空気が流れるのはごく自然なことだった。

 いわく、
 「子の可愛さは離れてみて実感できるもの」
 といったところであろうか。
 そう、ホタル族のお父さん同様、
 その渦中ではなく
 一旦外に出たからこそ私はその「幸せ」を感じられたのである。


 そこで私は考えた。

 (ということは、だ・・・
  「幸せ」っていうものは
  包まれて浸るものでもあるのだろうが、
  そこに向かって思いを馳せて浸るものの方が
  圧倒的に多いのかな・・・)

 言うなれば、
 前者が「感覚のもたらす幸せ」であるのに対し、
 後者は「想像力のもたらす幸せ」というところなのだろう。


 人間にとって、
 欠かせない能力である想像力。

 それは実は、
 コミュニケーション能力とか予測能力といった
 極めて社会的で実利的な目的のためだけではなく、

 「大いに幸せを感じる」という
 より個人的で観念的な目的のためにも
 必要不可欠であったとは・・・


 うーん、
 こう考えてみると

 みなさん、
 想像力って本当に侮れないものなのですね。


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