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2007/03/27

妖かしの樹

 東京の開花宣言からは、既に数日が過ぎた。

 とはいえ、
 まだ我が家の周辺はまだ二三分咲きのものがほとんど。
 チラリチラリと淡い花弁が頼りなげにくっついている木ばかりである。

 でも
 そういう控えめがちな木々の中にあってただひとつ、
 もう既に八分咲きの大きな桜の木があった。
 その派手さにあでやかさに
 ひときわ人目を引いている木。

 それは
 お決まりのように学校(高校)の正門近くに生えている桜だ。
 この木は毎年のように
 他の桜よりの一足先に盛りを迎える。


 (ふぅーん、なんだろうこの木は。
  若い子の活き活きとした命のエキスでも
  吸い取ってるんだろうか?
  だからこの木だけ
  こんなに早く見事に咲くの?)

 
 たちまち
 生気を抜かれた元気のない病的な高校生達と
 それとは反対に
 はちきれんばかりの桜の花の美しさが浮かび上がるのだ。


 毎朝そんなことを思いながら
 その大木を横目に通り過ぎる私。

 通り過ぎながら
 「桜の樹の下には死骸が埋まっている!」
 という言葉が頭の中を駆け巡る。

 どうやら
 本当に美しいものというのは
 度が過ぎると
 おぞましくすらなるらしい。
 
 人は
 その美しさに
 罪深いまでの理由を押し付けたくなるのか?


 そんな今日3月27日は、
 3×9=27(サンク)でサクラの日―
 その
 おぞましいまでに美しい「さくら」の日―
 だとか、

 いや、知らなかった・・・

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2007/03/22

「mixi読み逃げ」問題の底にあるもの

 こんな記事をみかけました・・・
 題して
 「mixi読み逃げ」ってダメなの?
 (Yahooのトップページから見つけたものだから
  目にした方も多いことと思います。)

 要は

 一部のmixi参加者の間では
 「お友達なのにコメントも残してくれないなんて!」
 という不満が
 「読み逃げ」=マナー違反・常識無さ過ぎ!
 という糾弾につながっているらしい

 という記事のようなのですが。
 もっともこの記事の元となった相談投稿と
 その回答が自作自演の茶番だったという説も浮上しているのだとか・・・
 まあ、事の真偽はともあれ
 いずれにせよこれだけの短時間にこの話題がこれほど盛り上がったのには、
 ソレ相応の理由があったのでしょうね。

 つまり、
 mixiをはじめとするSNSとは、
 相当魅力はあるが
 同時になかなかやっかいな社会であるらしいというイメージ
 (しかも外部から覗けないことがそのイメージを益々増幅させます)、
 それを
 外から面白がってみている連中には
 格好のエサがばら撒かれたと言うのが
 今回の騒ぎの本当の姿なのではないでしょうか。


 例えばmixiへの入会というシステムひとつとってみてもです。
 そもそも招待状がないと入れないなんて聞くと、
 人間なんて勝手なものだから
 別にそこに入る気がなくても何となく面白い気はしないもの。

 「仲間内でなんだかごちゃごちゃやってて閉鎖的でドロドロしていそう。」
 「私は入っていなくてよかった、なんか怖い世界なんだね。」

 そんなイソップの「ぶどうを食べられないキツネ」的な不満解消には
 持って来いの話題だったようです。

 もちろん
 現実問題としては、
 「あしあと」機能(訪問者の履歴が残る機能)に
 正直きりきり舞いさせらる
 小心なる参加者も少なからずいるのでしょう。
 (私も参加したらそうなっちゃうかもしれません。)
 でもその反面
 そんな「mixi疲れ」なんてものとは無縁に
 精力的に交友関係を築いていらっしゃる方や
 己を良く知りSNSの特性を熟知して
 上手く自分の生活に部分的に取り込んでいる方も
 数多くいらっしゃいるはずなのです。
 しかし
 そんなひとたちが楽しく充実したmixi生活を送っているっていうのじゃ、
 周りはつまらない。
 結局
 自分が食べられないぶどうが甘いんじゃ面白くないわけですよね。

 つまり、
 少なくともあんな投稿にとびついて騒いだネット愛好家も
 その騒ぎを大真面目に取り上げて記事にした記者さんも
 その記事を読んでブログに取り上ようとした私も
 同じ穴の何とかってやつかな、と。

 ああ、ネットって本性がむき出しになりやすい

 本当に怖い世界ですねぇ・・・

 自分自身の品性も含め、
 ご用心ご用心。

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2007/03/15

水と空の色の話

 「どうして、空は青いの?
 どうして、海は青いの?
 水も空気も透明なのに・・・」

 あなたは
 そんな質問を誰かにしたことがありませんか?


 ・・・
 実は
 昨日子供に読んでやったの中に
 ペンギンが海の色を尋ねられるシーンが出てきたのです。

 「当然、青だよ」と答えるペンギンに
 質問したクジラ先生は
 「じゃあバケツに海の水を汲んできてごらん」
 と言います。
 汲んできた海水の色は・・・もちろん透明。


 これを読んで私も思い出しました。
 かつての子供の頃
 私も同じことを疑問に思っていたということを。
 そして
 それを尋た母からは
 「水も空気も実はうすーい青色をしているから」
 というかなりいい加減な答えをもらっていたことを。


 気になり始めると
 どうにも

「水や空気の色」が実際のところ何なのか
 そして
 なぜ海や空は青く見えるのか

 が、
 知りたくてたまらなくなりました。


 で、思い立って調べてみることに。

 すると、
 海の色が青いのは
 よく言われているように
 「青い空が映っているから」なのではなく
 赤い色の波長の光は
 微量ながら水の分子に吸収されるという
 事象によるものなのだとか。

 赤い光が吸収されれば、
 補色である青緑色の光が取り残されてしまいます。
 (赤い光と青緑の光は一対で
 この2色で白色光を構成しているから
 突然の赤色光の吸収でそれまでの白色光は青緑光へと
 僅かながら変化するわけです)
 その青緑色の光が水中のごみやプランクトンに散乱された結果、
 海のような大量の水は青く見えるというわけなのです。
 (詳しくはこちらを参照)


 では空の色は?
 空もやはり同様で、
 空気中の青い色の光(短波長の光)が
 空気中の塵やホコリ水蒸気などあたり散乱することで
 空を青く見せているのだとのこと。
 ちなみに
 上空高度の高い空ほど
 短い波長の光(紫や紺)が散乱しているそうで
 高い山の頂や飛行機から見る空がより濃い青をしているのは
 そのためなのだそうです。
 夕日が赤く見えるのも
 昼間の光に比べて夕日の光は大気の厚い層潜り抜けて
 私たちの目に届くためだとされています。
 即ち短い波長の光(青系)がどんどん散乱して
 散乱しにくかった長い波長の赤い光のみが地上に届くから
 ということです。
 (こちらはここを参照しています)


 うーん・・・
 そう考えてみると、
 母の教えてくれた「水も空気もうすい青色」という理由も
 あながち出鱈目でもなかったのかもしれませんね(苦笑)。

 少なくとも
 空気はともかく水は
 淡い淡い色とはいえ「青色」の光を
 反射させているわけですから。
 そもそも色というものは
 その物質が吸収しなかった波長の光(色)を
 反射させていることにより
 我々が知覚しているもののようですし。
 そういう光をその物質そのものが反射しているのではなく
 水中に含まれる微粒子に反射しているってのが
 水と普通の物質の違うところなのでしょうが。

 それから空については・・・
 これはちょっと事情がちがうのかもしれません。
 空気の厚みによって
 地上に届く色(我々に見える色)が違うと
 言うことなら
 空気の色が薄い青であるとは言えないですものね。
 地球の大気がもっと厚い層をもっていたら
 黄色とか赤に近い色の空になる可能性もあった
 ということですよね。
 地球の大きさや引力のことを考えると
 今と違う大気圏の厚さなどというものは
 全く考えられないことですが
 よその天体にはそういう空を持つものも
 あるのかもしれません。


 それにしても
 空にしろ海にしろ
 青もしくは青緑の色でよかった、と
 なんとなく思います。
 いや、
 全くの合理的な根拠のない感想なのですが。
 つまりは
 
 青い海や空以外はどうも落ち着かない
 
 という
 極々習慣的な
 感情に過ぎないとは思うのですが・・・

 そういえば
 火星の空は赤いんですか、ね・・・

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2007/03/13

ゆびさき

 ・・・指先が語る
    ということがある。

 その指先をみているだけで
 涙がうっすらでてくるほどの感動。
 (まさか本当に泣きはしないけど)

 細くてしなやかな指が
 品物を包んでくれたり
 リボンを結んでくれたり
 カードを配ったり
 食べ物を切り分けたり、する。

 ただそれだけのこと、
 ごく普通のことをやっているだけなのだが、

 その指は
 まるでマジシャンのように
 柔らかくなめらかで「完璧」だ。


 そういう
 手を
 指を
 見つめるのは、本当に心地よい。

 心を
 その手で撫でられるかのように

 安らかで、

 それでありながら

 ざわざわと
 心を揺すぶられる・・・・ 

 
 

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2007/03/08

「人格」へと向かいたがる

 例えば
 誰かの言葉や態度とか、
 またはその人の生み出す文章・楽曲・絵画などといったもの
 ―言葉や態度を含めて
 「その人の外に向かって放たれた表現」とでもいうか―
 それに初めて遭遇したこととしましょう。

 当然そういう場合
 共感や反発、あるいはそのどちらでもない無関心などの反応が
 こちら側にはあるわけなのです。
 そしてさらにその人との縁がそれきりにならなければ、
 彼のそうした「表現」との遭遇は繰り返し続きます。
 これが数多く度重なるほど
 私たちは知らず知らずのうちに
 ある変化をしているように思えるのです。

 すなわち、
 はじめは
 その仕草や言葉・作品といった
 「表現」自体が評価対象であったのに、
 次第に
 それを生み出した「その人」そのものが、
 その判断の対象となるということ。

 簡単に言うと
 素敵な仕草をする人と出会い
 最初はその仕草に見とれていたのが
 その人への憧れに変わっていき
 最後には
 その人の持っているものまで神々しく見えてくる・・・みたいな。


 そういった変化が一体いつ起きたのか、
 具体的にその一線を越えた時、というのを
 自覚しているという人もあまりいないでしょうけど、

 どうも私たちには

 このひとの作品だから深いとか
 このひとの仕事は信用ならないとか
 このひとの言葉だから許せるとかまた反対に許せないとか

 その評価の対象を
 人そのものに結び付けていくような傾向があるようです。

 言葉が、
 仕草や態度が、
 作品が、
 その人の人格を表しており、
 その精神の現れであるのだから当然なのかもしれません。
 でも、
 あまりいい傾向とは思えませんね。

 人格へ向けられた思いというのは
 どういうわけだか
 理性的というよりも感情的になりやすいものだから。
 冷静な評価や判断が
 理不尽なほどの愛憎に取って代わられる
 そんな危険をはらんでいるとも言えそうです。


 そんなふうに考えると
 日々
 私たちが知らず知らずに越えていた一線というのは

 実は
 恐ろしいほどの
 深くて厳しい一線なのかも・・・

 そんな気がしてきました。


 できれば
 いつまでたっても

 人は人、
 その「表現」はその「表現」で別物

 と思っていられればいいのでしょうが、

 それはそれで
 薄気味悪いほどの冷静さがないと
 不可能なものなのかもしれません。

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2007/03/07

上手い表現

 「最近の巷の歌は
 ブログにでも書き綴られているような
 身勝手なものが多い中で、
 久しぶりに聴き応えのあるものに仕上がってる」

 とかなんとか。
 そんな言葉が流れてきた。
 それは
 この頃発表されたある新曲のことを評価してのもののようだった。

 何の歌か、
 そして誰の歌か
 それらは全く覚えていないのだが、
 いやはや

 「ブログにでも書き綴られているような」

 とは・・・
 あはは
 全く上手い表現である。


 身勝手さ、だって。
 なにを今更・・・という気もする。
 が、
 それに気がつき始めると
 書くことが辛くなるのも事実。


 そういう訳で、
 筆ならぬ
 キーボードを叩く手がやや重い、この頃だ・・・

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2007/03/01

遅れてやってくる

 それを目にしたのは随分昔のことだ。

 幸せは遅れてやってくる
     遅れてやってくる


 ・・・・
 ここには幸せはなく
 それでもいつかは来るはずと待っていた。

 でもある日
 ついに待ちきれず
 幸せを探しに出かけてしまう。
 家も何もかも捨てて・・・

 すると
 幸せはやって来たのだ。
 自分のいないそのあとに。

 幸せはようやくやって来て、
 誰もいない家にたどり着く

 最早からっぽのその家に・・・


 とても
 悲しい話なのだけど
 でも何故か心が癒される。


 そういえば
 同じひとの言葉に

 「幸せとは
 不幸の川の底で
 きらきら輝いている砂金のようなもの」

 というのもあったけど・・・

 本当に
 そうなのかもしれない。

 幸せとか喜びというものは
 そもそも
 悲しさとか辛さのなかにしか
 存在しないものなのかも・・・・


 うきうきと全ての生き物たちが湧き立つ
 そんな弥生のはじめ、
 春うららの日。

 なのに
 そんなことを考えるとは

 ちょっとどうかしている・・・

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