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2007/04/26

にごりの美

最近気付いたのですよ、
濁音の美しさというものに。
私はね、
どうも濁音+ラ行の音に特に弱いらしい・・・

例えば

かずら(=蔓)
おごり(=驕り)
にごる(=濁る)
しぐれ(=時雨)
おぼろ(=朧)

みたいな・・・
なんだか
この手の言葉にはゾワゾワってきちゃうんですよね。
口の中でこれらの言葉を転がしているのは
なかなかの快感なんです。

何故なんでしょう。
音としての耳障りがいいということなのでしょうか?
私自身は一種の快感を感じるのですが、
それがどうも個人的感覚なのか
それともほかの人にもある程度普遍的に感じられるものなのか、
その辺はよくわからないのですけどね。

でも
考えてみると不思議な音です、濁音って。

濁るなんて一般的には決していいイメージではないのに
その濁りが思いもよらない味わいを
その以外の澄みわたった世界に与える・・・
さながらそれは
音の世界での
悪役でありながらいい味を出す名脇役のような存在、
とでもいいましょうか。

まあ
ともかくも

「言葉とは、その音を楽しめる短い短い『音楽』なのだな」なんて、

今更ながら
つくづく思った次第、なわけで。


さて
先ほど掲げた言葉たち
―3つの音で奏でられた音楽―は、

どれだけ
皆さんの心に触れることができたのでしょうね・・・


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2007/04/24

本当に好きな人とは結婚しないほうがいい

「本当に好きで好きで仕方ない人とは結婚しないほうがいい」
そんな言葉を耳にしたことがある。
それも一度や二度じゃない。

言いたいことはわかる。
「好きで好きで仕方ない人」と「結婚する」ことは
その「好きで好きで仕方ない人」を永遠に失うことにつながるから。
どんな大恋愛でも
結婚という日常に辿り着くと
その一番素晴らしい要素―非日常性はゆっくりと抹殺されていく。
残念ながら、
このことはかなりの昔から皆知っていることなのだ。
つまり
その愛を永遠にしたいのなら、
結婚はしないほうがいいということなのだろう。

だからというわけなのか、
既婚者が昔の恋人への想いを大切に抱き続けているという設定は
昔から恋愛モノの定番だ。
そして、
多くの場合、
―これは女性を主人公にしたものに特に顕著なのだが―
その恋人は現在の配偶者より優れた存在として描かれてる。

・・・

ああ、でも

・・・ああぁぁ、すごく、嫌、
  そういう設定はものすごく嫌だ・・・!

貞操観念とか、
道徳的ではないとかいった問題ではない。
その愛に
限りなく利己的なものを感じるからなのだ。

今の私は「本当の私」ではない
「本当の私」はもっともっと素晴らしい私だったはずなのに・・・!

露骨にそうとは言わないまでも、結局はそこに行き着くのだろう?
だが、
その「素晴らしかったはずの貴女」の美しい恋の復活は
私の目には
「昔の美しい自分にしがみつく」
そのおぞましさがとぐろを巻いているようにしか見えない。

いいよ、
そうやって
いつまでも昔の恋を楽しんでいたいのならそうすればいい。
でも私は今を生きたいから。
昔の恋をこっそり懐に潜ませて
時々眺めて楽しむなんて人生はまっぴら。
そんなことするぐらいなら
自分の手でその昔の恋を
日常という真綿で締め殺してしまうほうがよっぽどマシだ・・・


と、いうわけで
その手の不倫恋愛モノは
プラトニック、非プラトニック如何にかかわらず
ものすごく苦手な私、なのであります。

そんな私を
「石部金吉」と

どうぞ笑いたければ笑ってください・・・

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2007/04/19

切り売りされる私生活

雑誌やテレビを見ていて、
著名なる人々がその私生活について語るのところに遭遇するのは、
たいていの場合
私をなんともいえない嫌な気分にさせる。

芸能人・政治家・経営者・弁護士・作家などなど
なんでもいいのだが、
私たち名もなき一般人が興味あるのは
その著名人のオフィシャルな部分
つまり彼の為した仕事内容だけのはず。
それなのに
どうして彼らの私生活を聞き出そうとしする野次馬たちが常にいるのだろうか。
そして
ぺらぺらとそれらを悪びれず語る著名人もまた
後を絶たないのは何故なのか。

彼らもまた私たち一般人と同じ人間であること、
その同じ人間として普通の生活―食事をし排泄もし夫婦喧嘩や子育てに苦労しているということを今更ながら確認したいからなのだろうか。
それとも
そのセレブたちが名声を得た理由を
彼らの日常生活への姿勢から導き出して己が生活の改善の糧にしようとでもしているのか?
または
ただただ憧れる人々のことなら何でも知りたいという
ファン心理のなせるワザにしかすぎないのか?
そういう哀しいまでの情熱ゆえなのか?


思うに、
著名人というものは皆
多かれ少なかれ私生活を切り売りして暮らしている人々なのだろう。
もちろん中には
それに反発しオフィシャルな自分だけを売り物にしたいと
純粋に願っている人もいることだろう。
だが、そういう願いを叶えられるのは極稀なことであり、
よほど才能あふれる者にしか許されない。
それほど一般人というものはある意味妬み深く
そして覗き見が大好きなのだのだから。
だから
その覗き見趣味を逆に利用して
その世界で生き残ってやろうと考える著名人がいるのだってうなずける。
そして、
そうやって生きている人のほうが
頑なに自分の本業だけに固執している人より、きっと多い・・・


テレビのスイッチをひねると
今日も映る
「得々と我が生活を語る」
よく知っているようで実は全く知らないその人の姿

だが、
うずたかく積まれた
その「私生活」の押し売りに

正直うんざりさせられている一般人は

決して私だけではないと思うのだが・・・


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2007/04/17

傘屋にて

傘を買った。
折り畳みではなく長いやつ、
柄がくるんと曲がっているいわゆる「こうもり傘」というやつだ。


傘はね、
思い切り派手なのがいいよね。
雨の憂鬱を吹き飛ばすような、ね

そう友人は言っていた。
彼女が持っていたのは緑の地に目の覚めるような大きなヒマワリ模様のとても奇抜なものだった。
それにつられて私の買った傘は
黒地に赤や黄色の色とりどりの花々の模様。

あんたの傘も派手ねえ

そう言って彼女は笑った。
そんな派手なもの、エキセントリックなものを選んでも
下品にはならない。
・・・
それが若さの特権だということも意識しなかった時代の話だ。


それから20年近く過ぎ、
今傘屋で私が手に取るのは淡い色合いもの。
ガラは大きな白い花模様にすぐ決まったが
地の色がなかなか決まらない。

クリーム地にするか?
いやガラが白い花なんだしちょっとおとなしすぎやしないか?
それとも空色地?
空色地も若い子ならいいけど今の私が持ったら本当に地味になってしまうし。
でもピンクはいかにも40代の女が選びそうで嫌だし・・・

さんざん迷った挙句選んだのはサーモンピンク。
結局40女の選ぶ色を選んでいる私。
ピンクと言ってもサーモンだから、と言い訳を考える。


本当はピンク大好きなのに。

若い頃は
それが好きな色だなんて恥ずかしくて知られたくなかった。
中年の今も
「衰えを隠す色」というイメージを拭えずなかなか身につけられない。

・・・

では、
せめてうーんとおばあさんになってからピンクの日傘差していても
下品にはならない・・・
そんな女性を目指して
今から
ちょっと精進してみましょうか・・・

と、
傘屋にて思うそんなこと。

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2007/04/12

国民の本音

ネットというものに触れるようになって、3年。
最初は
各個人がマスコミを通さずしかも匿名にて自分の考えを掲げることのできる
この新しいメディアに随分驚かされたものです。

ありていにいうと
いわゆるタカ派で民族主義的な思想の人が
この国には私が思っていた以上に多くいるらしい
ということ。


マスコミというものは
基本的に政府を批判する立場にあるもの(これも随分妖しいところであるが)だから、
多少の各社の右左の傾向はあったとしても
極端な国粋主義を匂わせるような意見は
そこでは取り上げられることはほとんどありません。

でも
ネットではそうしたフィルターを通さずに
直に自分の意見が載せられる、
だからそういう意味では
掛け値なしの「国民の本音」がここにはあるのでしょう。

そしてそこにある、数々の次のような発言。
(それらが今
これまでの私の「日本人観」を大きく揺るがせているのです。)

どこの国だって
自分の国を誇りに思っているし
その自分の国を悪し様に批判することは
相手が誰であれ許してなどいないじゃないか。
これこそがグローバルスタンダードなのであって
今までの戦後の日本こそが異常だったんだよ。
いくら日本が敗戦国だからって
一体いつまで卑屈になってればいいというのだ?

なるほど。
その通りなのかもしれない。
私が思っていたのは
結局左よりのマスコミによって
刷り込まれた異常な国日本だったのかも。


でも、
でも、ごめんなさい・・・

私には
柔和で気弱で遠慮深く
周りと上手くやっていこうと四苦八苦している人々が
まだ
この国の主流を占めていると信じたい気がするのです。

そんなことではダメだ!
そんなことでは悪意の国に飲み込まれてしまうんだよ!

という声も十分届いているのですが。

・・・
どうも
既にどうしようもなく
私は何者かに洗脳されてしまっている・・・

それだけなのかもしれませんが。

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2007/04/10

緑のクマちゃん

昼休みに入ったいつものパン屋さんにて。

お気に入りのものを選んでレジに進むと
そこに淡緑色のクマが置いてあった。

幼い子がだっこするには
ちょうどいい大きさのぬいぐるみ。
新しい飾りなのかと思ったら、
「おとしもの」というメモが付いている。

「ずいぶん大きな落し物ですね」と私が笑いながら言うと、
店のご主人も「そう」と笑顔で返す。
「でも人形だから、持ち主がやってくるのが楽しみでしてね。
 人形の落し物はなんだか、気懸かりなもので・・・」

なるほど、
「人形」はヒトガタとも読める。
そんなふうに読むと
なんだか急に生々しい気分になってくるから不思議だ。

「そうですね、
顔があるからかしら。」

そういいながら
ここで言うところの「顔」とは「心」や「命」と同義なのだ、私も思う。


きっと
持ち主は訪れることだろう。
落としたクマちゃんがそこに置いてあるのを見つけ、
大喜びをするのだろう。
それが待ち遠しいという顔をするご主人。


私も明日、
そこにクマがいないのを見て
その場に居合わせた彼と
同じ気分を味わうはず。


店を出ると
日差しが眩しかった。
風が
少し温かく感じられるのは
この日差しのせいだけではないようだった。


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2007/04/05

自分から生まれ出る他者

・・・
自分の身体の中に
自分ではない何者かがいること。
そして、
やがてその何者かは自分の中から出てきて
自分とはまったく別の人生を歩み始めること。

子を身ごもり、
産み、
育てたことのあるひとなら
誰もが皆少なからず
その尋常ではない事象に
驚愕や畏怖の念を抱くことだろう。

自分以外の遺伝子をも受け継いでいるその存在は、
己の体内に宿っているとはいえ
その芽吹きの時点で
既に母体にとっては完全なる他者なのである。


もしも、
もしもであるが、
ヒトが無性生殖する生物だったとして、
自分とソックリの分身のごときものをわらわらと生み出すものだったとして、
その生まれた分身たちは
その母体にとってやはり他者なのであろうか。
コピーのごとき存在であっても?

いや、それはそうだろう。
いくら同じ遺伝子を持つウリ二つの生物であったとしても
その精神はその個体それぞれに宿るのであるから。
(一卵性の双生児を見てみるがいい)。

そういう意味で言うと
「他者であるか否か」という概念とは
「自分の精神の支配する範囲かそれ以外か」
ということなわけである。
(よくSF小説に出てくるような
自分のクローン人間を造ることで
世代を超えて不老不死の命を獲得しようという考えは
この理屈によると根本からおかしいことになる。)

言い換えると
他者とは世界を構成する要素であって、
その世界を唯一認識できるのが
他者ではないこの「自分」であるのだ。


で、今日4月5日。

11年前のこの日、
私の体内から私の世界にまたひとり、他者が生まれ出た。

そうして、
私は母となったわけなのだが、
この「子を産む」という行為は、
生物体としての私にとっては
「命を次世代に継承した」ということになるのであろうが、
精神としての私にとっては
より複雑なる社会を構成する仲間を迎えたということになるのであろう。

今日で11歳になる母としての私。
もちろん
まだまだ未熟者の部類、である。


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2007/04/03

「好き嫌い」の市民権

「好き嫌い」って言葉を聞いて、
あなたはどんな感覚を覚えますか?

これは私だけの感覚なのかもしれませんが、
なんとなくネガティブな表現のような気がしません?

感情というものは
理性に比べるとどうもあまりいい印象を受けていないもののようです。
「好き嫌い」なんてのは
その感情の大元、その根源にあるようなものですから、

そういう極めて主観的なものは
判断の基準にすることは極力避けるべき

とか、

あらわに表に出すのは憚られてしかるべき

というのが、
世間では常識となっているのではないでしょうか。
言わば、
「好き嫌い」というものには公の場での権利、市民権が欠けているというか・・・
(全くの趣味とか嗜好の世界は置いといてですよ)


でも、
それはあくまで表向きの話であって
実は私たちの心の中にあって最も大きな影響を与えているのは、
この「好き嫌い」なんでしょうね。

私なんぞ結構頑固なものだから、
一度キライになってしまうと
それを見直してスキになるなんてことはほとんど皆無です。
反対の「スキ」から「キライ」は結構あるんですけどね、
まあ、それだけ排他的な人間であるということなのかもしれません。
で、一度キライになってしまうと
あとはその「嫌い」を理性の下にひた隠して
生きていくしかない・・・

そういうふうに
理性ではいかんともし難いもの、
自分自身ですら
その理由が見つけることできない場合すらある「好き嫌い」なわけですが、

実はたまには、
もう少し自分の内面に素直になって
この「好き嫌い」にも市民権を与えてやってもいいのでは、
なんてちょこっと思ったりもするのです。

それはやはり危険すぎる?
声高に「好きだ」「嫌いだ」と騒いでいる人間を見るのは
傍目にもあまりいいものじゃありませんからね。
それこそ「嫌悪感」をかきたてられます。
なるほど、
つまりそういう
「互いに過剰にかきたて続けるという連鎖」が、
感情というものがクセモノといわれる所以なのかもしれません。

でも、少なくとも

「好き嫌い」という感情が理性よりも劣ったものである

かのような錯覚だけは、
取り去ってやりたいような気分の昨今なのであります。


以上、
昨晩の東京都知事選政見放送をダラダラ見ながら思ったこと、
やっぱり判断には「好き嫌い」が大きく影響しそうです(苦笑)。

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