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2007/05/31

「トンビは鷹を産まない」

この言葉、かなり以前にどこかで目にしたものだった。
多分素人の方の投書か何か、でだったか。

・・・
それ以来、
結構気に入っているのである、この言葉。

もちろん、
「トンビが鷹を産んだ」という諺をやや揶揄してものなのだろう。
昨今みられる、
子供への期待が過熱する傾向に対する
ちょっとした物言いだったようだ。
確かにね・・・
確かに今の世の中では
本家の「鷹を産んだ」よりもこちらのほうが
より箴言として価値があるような気がする。

・・・・・・

自分の子が、
自分を上回る優れた能力を持つ存在であること、
それは世の多くの親が、
密かにあるいは公然と望むところである。
(かく言う私もまさにそういう親のひとりなのだと自覚している。)

だが、
それによって生まれる過大な期待や失望の
悲喜こもごもを見るにつけ、感じるにつけ、
「トンビが鷹を産む」ことは本当に喜ばしいことなのか?
という疑問が浮かび上がってくるのである。

というのも、
何やらその「トンビ」であるところの親の姿に
卑屈さや哀しさを見せ付けられる気がしてしまうから。
凡愚なる親の自己否定のようなものが
この言葉には潜んでいる気がしてしまうから・・・


やはり、
トンビは鷹を産まない

トンビが産むのは優れていてもやはりトンビだ、

親から子への何かの連続性を見出したい・・・
たとえそれがどんなダメ親と神童のごとき秀麗なる子であったとしても。

そう思うほうが、
より健全な道のような気がする、

より幸せな家庭である気がする、私なのです。

<’07/06/05追記>
本文中にて、
凡庸な親が優秀な子を生む例えの諺として
「トンビが鷹を産んだ」というふうに紹介しましたが、
正確には「鳶が鷹を生む」です。
お詫びして訂正いたします。
きちんと調べずにUPしまして、失礼いたしました。


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2007/05/29

生物と非生物

昔から、
よく考えることなんですが
この世に存在する2種類のもの、
生物と非生物を区別するものって一体何なのでしょうね。

―生物は生きていて、
 非生物は生きていない―

確かに・・・
じゃ、「生きる」って?

ま、学のない私の考えなのですからいい加減なものなんですけど、
つまりは「生きる」ってのは

「自分」と同じものを生み出していく
         (つまり増やしていく)

ってことなんじゃないかと思うわけです。

そう考えると、
生物の持っているとされる最も特徴あるもの、
それは、
「意思」だの「感覚」だの「感情」だのといったような「精神」という言葉で表わされると思うのですが、
そういうのも突き詰めるとこの「自分を増やす」という性格に根ざしているんですよね。
例えば
わが身を生き続けさせようとする「意思」も
痛かったり苦しかったりという「感覚」も生き抜くために編み出した方法で、
悲しかったり嬉しかったり愛しかったりという感情も、他者との良好な関係の下生き抜く可能性を高めるというやはり同じ目的のために作り出されたものと位置づけられる―
(かなり唯物的な考えによると、の話ですよ。
 そうでない考え方も存在することも確かですが
 ここではそれは置いておきましょう。)


では、
非生物のほうは?
そうやってひたすら増え続けようとする私たち生物に対して
どこがどう違うのでしょうね?

・・・

うーん、
そう考えてみると
私にはどういうわけか
「そんな大した違いはないんじゃないか」って気がしてならなくなる。

つまり
彼らは増えないだけなんです。
言い換えると、
増えようとしないだけなんじゃないかなと思うわけなんですよね。

確かに非生物には
「意思」や「心」がないというのが一般的な考えではあります。
が、
「増えようとする」ことだけが意思なんでしょうか?
「増えようとせずそのままの自分であり続ける」っていうのも意思として有りうるのでは?
そして生物に感覚や感情があるように、
その意思を貫こうとする手段として非生物にも
やはり「感覚」や「感情」のような手段・方法が備わっているのかもしれない。
それがどんなものであるのかは、
残念ながら私には想像も付かないですけれど・・・

いずれにせよ、

―何かを為そうとするだけではなく
 その状態を保つという意思もある―

なんてそう思うと
なんだか非生物もまた、
他の生物同様我らの同胞っぽい気がしてきて
親しみが湧いてくるような・・・

または、
がむしゃらに何かを為そうと頑張って行き詰っているような人に
ほっと力を抜かせるいいきっかけにならないかな、なんて・・・

ま、そんなこと考える人は
普通あまりいないのかもしれませんが、

ちょっと考えたりしちゃったんです・・・

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2007/05/25

占いについて思うこと

ちょっと前だったか・・・

続けざまに占いの思い出についてのエッセイを新聞で見かけたことがあった。
2人とも筆者は女性。
すごく当たるという評判の人に占ってもらい、
そのとおりドンピシャリ当たったというような内容だったか・・・

多分お二人とも
普段の生活ではあまり占いには興味のないといった印象の方々だったが、
「やっぱホンモノの占い師は違う」という感嘆が
その文章には表れている。

そう、当たるとうれしいんだよね。

でも、
この占い師さんたちのことはどうだかわからないけれど
占いというものの真髄とは、
きっと

「当たった」ということではなくて
「当たった」と思わせるワザにある

のではないだろうか、
そしてそのワザとは、
高度に研ぎ澄まされたコミュニケーション能力にあるのだ、
と常々私は思っているのである。


占いとはそもそも
心のエステのようなものだ。
カウンセリングより甘口でエンターテイメントなもの。

占いに駆け込む人も多かれ少なかれ何かを抱えている。
その何かについて
自分の求める方への後押しを望んで
手相やタロットや水晶玉を覗いてもらうのだ。

だから
優れた占い師というものは
その人の表情からその思いをよく汲み取り、
読み取った運勢をからめつつも
的確なるアドバイスを与えられる能力をもつ人なのだ。
運勢を読み取る力に優れているというよりは、
その運勢を人の心にに合わせてうまく伝えることができる、
そんな力・・・
その力が、
ああ、あの人は当たるというカリスマ性をその占い師に与えるのだろう。


基本的に私は占いを信じていない。
が、
占いという暗示にかかるという「人の性(サガ)」は侮れないと思っている。
その暗示によって
人が何事かを成し遂げることも可能だとすら思うほどに。
(そしてそれが占い的には「当たった」という事実になる)


でも、
残念ながら今までの人生で
暗示を与えて欲しいというほどの局面に遭遇したことのない私は
結局
占いとは無縁の生活を送ってきている。

多分、これからも・・・・

でも、
あのような「占いが当たって感動した」という体験記を読むと、

そんな感動をしてみたい、

という率直は願いも
捨てきれない、私だったりもするのであるが。


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2007/05/22

おしゃれな生活

おしゃれな生活ってある。

例えば

台所用品の色をビビットに統一したり
作る料理はヨーロッパ風がメイン
(煮込みを「ポトフ」と言ったりする)。
輸入家具にほれ込んだり
乗る自転車は荷台なんぞないクラシカルなやつ
・・・
女性向け雑誌の見開きに大きく写真に載りそうな、そんな生活・・・

でもなんだかなぁ
だめなんだ、
苦手なんだ、そういうの・・・

考えてみれば
若い頃の私だってそういうのに憧れていなかったわけではなかったのだ。
目指していたのは
身奇麗に頭にターバンなんぞを巻いて
テキパキと家事をこなす若々しい奥様だったのに
フタを開けてみればこのとおり。
ほんの少しのお金をケチってケチってッケチりつづけた結果
この雑然とした家の中で
日々の生活にあくせくして暮らしている。
遠のくばかりの「おしゃれな生活」。

そのケチったお金で何をしたというわけでもない。
結局
そういう「おしゃれ生活」には
うわべだけ憧れていても
真からそれを送ることなんぞ
望んでいなかったということ、

身につかなかったということ、だ。


だから、

というわけではないのだが、
そういうおしゃれな生活を綴った文章は
未だになんだか苦手、

スープの話より味噌汁の話のように
庶民的生活感のある文章のほうがいいなぁ

なんて思ってしまう私は
単なるやっかみの強い
根っからの田舎モノ、のようです。

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2007/05/17

算数についての後悔

先日放映されたテレビ番組にて。
お笑い芸人である聞き手と地球外生物が発生しうる天体を研究する科学者の会話

科学者:哲学ってのは難しい、
     それに比べれば科学なんて簡単です。
     誰にでもわかる・・・
聞き手:そりゃ(科学者である)先生にとってはそうでしょうが、
     我々一般にしてみると哲学も科学もどちらも同じですよ。
     同じように難しい。
     カントの純粋理性批判もアインシュタインの相対性理論も
     何言ってんだか、サッパリ、です。
科学者:でも少なくとも皆が認識し納得できる『現象』という土台の
     上に科学は立っています。
     だが哲学にはそういうものがない。
     だからいまだに一人の哲学者の思想をめぐっての
     解釈本なんかが数多く存在するわけです。
     そういう学問をするのはいやだったんですよね。
     僕は誰もが理解し納得できるような学問がしたかった。

とか、なんとか・・・


誰もが納得できる学問、だって。
確かに、そう言われてみればそのとおりだ。
そもそも「誰をも納得させること」を目的としているのが学問というものなのだろうから。
言い換えれば、
それが出来ないものは単なる空想や思いつきに過ぎず学問とは言えない。
そういう意味では
自然科学はその目的への到達の度合いが最も進んでいる学問であるのかもしれない。
(それに比べると哲学などの人文科学はまだまだ道は遠そうである。)

更に加えて言うと
その土台となる「現象」が数に置き換えられて表わされたこと、
即ち数値化されたことにより自然科学は
一層「誰にでも開かれた学問」たらしめたと言えるのだろう。
数とは、言語をも越えた、
驚くほど広範囲に亘る人類共通の概念なのだから・・・


たとえば、前述の相対性理論。

話だけ聞けば「光と同じ速度で動けば時間がゆっくり進む」なんて
荒唐無稽であることこの上ないが、
それが計算によって裏打ちされたことにより
初めて単なる思いつきや空想を超えて「理論」となりえるのだ。
残念ながら私たちが世間一般で目にするのは
その計算の裏打ちをすっ飛ばしての
あたかも最初から出来上がっていたかのような理論。
これでは申し訳ないが、
いまひとつ
現実としての実感も
それを発見したときの驚愕も伝わってこない。
なんだかSF小説の延長のようにしか思えないのも無理からぬ話だ。


あーあ、もっと数学がよくわかっていればなぁ!!
もっともっと、
世界のルールが、その全貌がわかってくるかもしれないのに!!


そうやって考えてみると、
数学という学問―数という概念は、
実はものすごく貴重なものであることに気が付く。
数とは
私たちの生活に根付いた身近なものでありながら、
無限なる世界をも表わすことができる唯一の概念だったのだ。・


なんてなことに今更ながら気が付いた私。

「いや、
もっと真剣に算数、やっときゃよかったな・・・」
と、後悔しきり・・・

6つの歳に
計算ドリルを毛嫌いしたツケが
今になって
こんなふうに回ってくるとは思わなかった。

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2007/05/15

砂糖衣の魅力

以前、
「最も身近にある毒」という甘味のについての文章を書いたことがあったが、
甘いものは正直私にとっての大好物だったりする。

クリーム、餡、ジャム、蜜などなど・・・
甘さにもいろいろあるが
私がなんとなくいつも気になるのは、砂糖衣。
そう、お菓子などにかけられた砂糖のコーティングだ。

それ自体は決してオイシイ!!って唸らせるようなものではない。
むしろ甘ったるくてウンザリしている人もいるかもしれない。
そういう、お菓子の中でもクリームや餡などに比べるとイマイチ主役になり切れないような存在なのだが、これがいい。
特にとろりと落ちかかったしずくの固まりなど見ると
幼い日に読んだ絵本「お菓子の家」の屋根が連想されたまらない気分になる。

色とりどりに着色されて
お菓子を華やげてくれるからなのか、
過度にも感じさせる甘みゆえなのか。
余計なものが入らない
もろに砂糖ってところもいいのかもしれない。
ただ甘いだけってところ、
昔の子供は甘みに飢えていたしなぁ・・・

でも今は飽食の時代だ。
甘いもの、おいしいお菓子はたくさんある。
子供も砂糖だけの甘さなんてさして魅力を感じないのかも、
などと思っていたらなんと驚いたことに
わが娘が半年ほど前だったか、
お菓子作りに余った砂糖をひとさじなめていいかと聞いてきたことがあった。

ううむ、砂糖の人気侮り難し・・・!
そういえば、メリー・ポピンズも歌っていたっけ。

♪ひとさじの砂糖があるだけで
苦い薬も飲めるのよ
ただちょっぴり砂糖があるだけで
楽しくなるわ♪
(「お砂糖ひとさじで」byミュージカル「メリー・ポピンズ」より)

砂糖は今も昔も子供の憧れの味、魔法のひとさじなのだ。
砂糖と聞いただけでなんだか楽しくなるようなそんな不思議な力が
この調味料には秘められている。

そう考えると
砂糖衣の魅力もまた、
砂糖そのものの魅力に通じるものなのかもしれない。
甘さを凝縮した、
洗練されてはなくむしろどこか野暮ったいが
でもとても懐かしいその味・・・

そんなわけで、
いまだに砂糖衣がけのお菓子を見ると
食指が動きそうになる
私なのである。

・・・それについては
  ノスタルジーが多分に入っているきらいは
  無きにしもあらず、なのだが・・・


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2007/05/10

第一の人

・・・
思えば、
そういう存在になったことは
それまでの人生ではほとんどなかったのだ。

学校時代のグループで行う
理科の実験も
クラスのぺットのお世話も
家庭科の調理実習も
私の役割は遠巻きにその様子を見ているだけ、
ただ汚れた皿を洗うようなその程度
つまり後片付けがいいとこだったから・・・

だから、
いざ子供を妊娠したとき
自分が中心になってこの子を育てるという実感がなんとなくわかなかったのだ。

きっと誰か
―たとえば実母とか義母とかといった少なくとも私より気の利いた達人―が、
その赤ん坊の可愛らしさに我慢できず
手を差し伸べてくることだろう。
私はそれを遠巻きに眺めながら
ちょっとは育児らしきものをさせてもらえるかもしれない・・・

そんなことを
妊娠後期になって大きなおなかを抱えた私は
ぼんやりと考えていたのだった。


しかし、
現実は違った。

赤ん坊を育てると言うことは
クラスのペットのお世話や
家庭科の調理実習、理科の実験と違い
思っていたよりも他人の手がどんどんと差し伸べられるものではなかったのだ。
何といっても
赤ん坊自体が常に母親を求め、他の人間を拒絶する。
(「まあかわいい!」といって赤ん坊を抱き上げようとしても
母親以外では大泣きされるのが関の山、
というとんでもない報いを受けることすらある。)
そして
それを知る多くの賢明なる隣人たちのおかげで
私は「我が子を育てる」ということにあたり、
初めて「第一人者」となった。

この小さな命が私を選び、第一人者にしてくれたのだ。


よく

「親になる」ということは「人を成長させる」ことだ

と、そう言われるが、
それは多分「忍耐力や責任感が身につく」という意味だけではないのかも。
それだけではなく、
どんな目立たない人間であっても

「何者かにとっての第一人者たりえる」

という自信を、
与えてもらえるからなのではないか、

なんてそんなことを
子育てが一段落した今ごろになって、遅まきながら考える・・・

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2007/05/08

一卵性母娘をねらえ!

日曜の夜テレビで観た「母の日」商戦のレポート

びっくりしました。
いやぁすごいんですね、今や「母の日」のプレゼントって・・・
高級なドレスやアクセサリーでコーディネートしてもらってのカメラマンによる記念撮影だとか
贅沢なホテルでのエステ&豪華な食事だとか
で、これらの商品のキーワードなのが「母娘二人で」ってとこで、
贈り主である娘も一緒に楽しめるというところが
また消費者の心を掴んでいるようなのです。

思うに、
こんなに贅沢なプレゼントが売れているっていうのは
「母」というイメージが一昔前と今とでは大分違っているからなのかもしれません。
豊かな時代に育ち「自分のために生き始めた」女性たちが
子供を育て上げ、
その子供たちから受ける感謝のプレゼントなわけですから、
中途半端なものじゃ「気持ちだけで結構よ!」ってことに
なり兼ねないのでしょうね。
そんなわけで
テレビ画面のレポートに映る「プレゼントを受けている母」は
娘と姉妹に間違われかねないような美しく生き生きとした母親像ばかり。
それは今の時代理想の母のひとつの姿なのでしょう。


でもなんかなぁ・・・
なんかイマイチなんですよね。

同じ「着飾って贅沢な非日常を楽しむ」のなら
娘よりも配偶者と一緒に、
っていうふうにはならないんですかね。
若いカップルではなく
程よく年を重ねた男女が一緒に余暇を楽しんでいる姿は
ものすごいお金を掛けていなくても
それだけでなんだかとっても素敵に私には見えるんですけどね。
仕事人間で余暇の楽しみ方も知らない無粋な「お父さん」とじゃ
せっかくのプレゼントも価値が半減しちゃうってことなんでしょうが、
娘と張り合って着飾ってきゃいきゃい喜んでいる姿は
いくらスマートで美しい人であっても
第三者から見ればそんなに羨ましいものにも映らない。
どっちかっていうと
「ああいうふうになってもなぁ」
っていう否定的な感情のほうが先に立っちゃいます。


結局、
熟年カップルが仲睦まじくしている姿が魅力的に見えるのは
それだけ希少価値だからってことなんでしょうが・・・
そういう意味では
娘と、または同性の友達とつるんで楽しむのは
ある程度のお金とヒマがあれば誰でも出来るわけで、
そんなあたりがその価値を貶めているのかもしれません。

もっとも
プレゼントを贈る側(娘)も受け取る側(母)も
そして多分蚊帳の外の方(父)も
この形が一番気楽で楽しめるんでしょうけどね。
もちろんそんな当事者さんたちは
他人の目なんか気にする必要は全然ないわけなんで
自分たちが楽しく感謝の心を楽しめれば
それはそれで、十分なのでしょうが・・・

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2007/05/01

自分の子が欲しい訳

何故、人は自分の子を欲しいと思うのだろうか

そんなことを考えた。
ちょっと前にあった代理母による出産をめぐる裁判などをきっかけに・・・

子供への我が命の伝承か、
もしくは子供を育てることで生まれる喜び・幸福感を得たいがゆえか・・・


もしも自分に子供が授からなかったら、
一体自分はどうしたのだろう、とも考えた。
もちろん
経済的に許される限りの実子を得る手段を試すことだろうが
庶民の経済力では知れている。
だから残された道は以下の2つ。
即ち
1.あきらめて子供のない夫婦だけの人生を送る
2.誰か養子をもらってその子を育てる

多分、
本当に子供が欲しいのなら2の養子という道を選ぶべきなのだろう。
だが、おそらく私が選ぶのは1のあきらめるという選択。
何故?
そんなにも自分の血にこだわっているというのか?

いや、そんな
自分の血や遺伝子にこだわっているなんてことはない。
むしろ人の子を育てる自信がないから
だから養子は育てられない、
と言ったほうがいいのだろう。

自分の生んだ子であれば
いやおうもなく、
たとえどんな子であろうと
例え悪魔のようなことをしでかすような人間なってしまったとしても
その責任がついて回る。
その責任を負う覚悟もできている
(というより逃れることができないことを知っている)。
だが、自分の子でなかったら?
・ ・・ごめんなさい、
そこまでの覚悟できる自信が、私にはない。

逆に言うと
血のつながりのような
そんな絶体絶命の追い詰められた状況が、
多分私のような弱い人間には必要なのかもしれない。
ひとりの人間を育て一人前にするという
大仕事の前に怖気づいて逃げ出したくなるような
そんな私のような人間には。
そのこと自体が、
既に「血の繋がりにこだわっている」というのであれば
なるほど、
私は確かに
「血にこだわっている人間」以外の何者でもないのだろう。


さて、
ここで初めの
「何故人は自分の子を欲しいと思うのか」という疑問に戻る。

何故自分の子が欲しいのか?

多分自分の命の伝承
―それが無意識の本能の奥底にしっかり染み付いており
でもそれじゃあまりに露骨だから
「人の子を育てる自信がない」とか
「絶体絶命の崖っぷちに立たされなければその覚悟はできない」などと
言い訳しているだけの気もしてきた。


本能は
理性よりもずっと強い

単にそういうことなのかもしれない・・・


<お知らせ>
5/2夜より6日まで帰省のためネットを離れます。
帰ってきたらまたどうそよろしくお願いします。

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