算数についての後悔
先日放映されたテレビ番組にて。
お笑い芸人である聞き手と地球外生物が発生しうる天体を研究する科学者の会話
科学者:哲学ってのは難しい、
それに比べれば科学なんて簡単です。
誰にでもわかる・・・
聞き手:そりゃ(科学者である)先生にとってはそうでしょうが、
我々一般にしてみると哲学も科学もどちらも同じですよ。
同じように難しい。
カントの純粋理性批判もアインシュタインの相対性理論も
何言ってんだか、サッパリ、です。
科学者:でも少なくとも皆が認識し納得できる『現象』という土台の
上に科学は立っています。
だが哲学にはそういうものがない。
だからいまだに一人の哲学者の思想をめぐっての
解釈本なんかが数多く存在するわけです。
そういう学問をするのはいやだったんですよね。
僕は誰もが理解し納得できるような学問がしたかった。
とか、なんとか・・・
誰もが納得できる学問、だって。
確かに、そう言われてみればそのとおりだ。
そもそも「誰をも納得させること」を目的としているのが学問というものなのだろうから。
言い換えれば、
それが出来ないものは単なる空想や思いつきに過ぎず学問とは言えない。
そういう意味では
自然科学はその目的への到達の度合いが最も進んでいる学問であるのかもしれない。
(それに比べると哲学などの人文科学はまだまだ道は遠そうである。)
更に加えて言うと
その土台となる「現象」が数に置き換えられて表わされたこと、
即ち数値化されたことにより自然科学は
一層「誰にでも開かれた学問」たらしめたと言えるのだろう。
数とは、言語をも越えた、
驚くほど広範囲に亘る人類共通の概念なのだから・・・
たとえば、前述の相対性理論。
話だけ聞けば「光と同じ速度で動けば時間がゆっくり進む」なんて
荒唐無稽であることこの上ないが、
それが計算によって裏打ちされたことにより
初めて単なる思いつきや空想を超えて「理論」となりえるのだ。
残念ながら私たちが世間一般で目にするのは
その計算の裏打ちをすっ飛ばしての
あたかも最初から出来上がっていたかのような理論。
これでは申し訳ないが、
いまひとつ
現実としての実感も
それを発見したときの驚愕も伝わってこない。
なんだかSF小説の延長のようにしか思えないのも無理からぬ話だ。
あーあ、もっと数学がよくわかっていればなぁ!!
もっともっと、
世界のルールが、その全貌がわかってくるかもしれないのに!!
そうやって考えてみると、
数学という学問―数という概念は、
実はものすごく貴重なものであることに気が付く。
数とは
私たちの生活に根付いた身近なものでありながら、
無限なる世界をも表わすことができる唯一の概念だったのだ。・
なんてなことに今更ながら気が付いた私。
「いや、
もっと真剣に算数、やっときゃよかったな・・・」
と、後悔しきり・・・
6つの歳に
計算ドリルを毛嫌いしたツケが
今になって
こんなふうに回ってくるとは思わなかった。
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