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2007/07/31

所詮、参議院でしょ

遅ればせながら日曜日の選挙結果についてなのだが・・・

一部マスコミなどでは「歴史的自民惨敗!」みたいにすぐにでも安倍政権が崩壊するかのように書きたてているところもあるが、
実のところ私の周囲ではこんな雰囲気が大勢を占めているのである。

自民惨敗って言ってもねぇ、所詮参議院だから・・・

これって私の周りだけのことなのか?


勿論、惨敗したという自民党内部には
負け惜しみ的気分もあってこんな発言をしている人もいるのだろう。
だが、逆の野党側にしても
今は「民意を得た」なんて息巻いるが
腰を据えての政権交代への第一歩ととらえている人なんて
本音では数は知れているのかもしれない。

そして
肝心の国民も、
「政権から自民が離れるなんてことまでは希望はしないが、
いい気になっている自民にお灸をすえてやらなきゃな。
それには(直接政権には影響ない)参議院選はもってこいだよ」
と考えている人が実のところ大方を占めているのではないか?

そう、参議院って結局のところ「所詮参議院」なのである。

「良識の府」だとか言われているのかもしれないが、
所詮は
「存在意義がわからない」だの
「無用に議員の数を増やして財政を圧迫している」とか陰口も後を絶たず
多くの国民にとっては
調子に乗った与党の懲らしめるために存在するだけの存在なのだ。


あるマスコミの弁に、

このまま、衆院の解散総選挙に持っていけるかが、野党の腕の見せ所である

なんて言葉があったが、本当にそうなのだろうか?
本当にそんなに甘いものなの?政権交代って?
正直私には
今もし衆議院選挙で民意を確かめたところで
与野党が逆転する可能性などそれほど大きくないように思える。
(まあ今の3分の2というお化けみたいな安定多数は勿論失われるのだろうし、
それはそれで相当、与党にとっては打撃であるのだろうが・・・)

こう考えてみると、
参議院ってなんだか野党に似ている。

日本人にとっては、
所詮は参議院、所詮は野党、なのだ。

所詮、与党である自民党とその支配する衆議院あっての存在。

それが日本の現状ではありませんか、ね。

残念ながら・・・

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2007/07/27

「能力を最大限に引き出す」必要って本当にあるのか?

かなり前のことですが、
子供の幼稚園選びの際に説明会に参加したある園でのこと。

そこは
「子供の能力を最大限に引き出すこと」が教育方針の園で、
漢字の学習や
鉄棒や雲梯(ウンテイ)を時間を決めてサーキットで挑戦していく
というカリキュラムをウリとしているようでした。

やや妖しげなサラリーマン風のいやに若い園長の熱心な説明を聞きながら
ただ単に
「延長保育があるから仕事はじめられるか、場所も近いしな・・」
なんていう理由でその場で聞いていた私は
当然場違いな思いにいたたまれぬ気分になっていたのです。
ふと横を見てみると
隣に座るスーツ着用の上参加していたご夫婦は熱心にその説明に聞き入っている、

(うーん、こういう人たちが通う園だったのだな、ここは・・・)

思いっきり普段着でオマケに自転車でつっかけてきた私には、
もちろん肌に合わないので
そこに子供を通わせることはなかったのですが、
考えてみると
この「能力を最大限に引き出す」という教育教材広告の決まり文句に
真正面から対峙したのは、
このときが初めてだったのかもしれません。


「能力を最大限に引き出す」

子供の能力は無限の可能性を秘めています。
その能力を十分に引き出して上げるのは親御さんの務めですよ・・・

確かに、そうなのかもしれません。
子供だっていろんな知識を持ったり
鉄棒や雲梯ができるようになることはうれしいことだし、
何より自信につながる・・・

でも私にはそれはなんだか気が進まないのです。
だって能力って、
そんなに引き出されようが、
一生その人の内面に隠されたままでいようが、
あまり関係ないんじゃないですか。
表面に出るものであれば
そんな漢字のフラッシュカードなんて使わなくたっていずれは出てくるものだろうし、
例えその努力を惜しんだために鉄棒がの逆上がりが出来ずに終わったとしても
30歳も過ぎれはそんなことどうでもよくなってくるものじゃないですか。
それより
ぼんやり影をを見つめたり
ぼーっと外を眺めたり
ただ出鱈目に地面に線をひっぱったりしている時期には
それを思い切りやらせてやるほうが
その子の精神衛生上より好ましいのでは?


結局は

「ちょっとでも他の子より抜き出よう、そのほうが後々得だから、な・・・」

という親の思惑以外の何物でもない・・・
それで
その子のぼんやりする時間は奪われ続けるのです。

余談ですが、
そういう親の抜け駆け心を煽る商品は本当に後を絶たないですね。
例えば「脳ト○」。
オトナが遊びで自分の脳年齢を話のネタにするぐらいならいいんでしょうが、
他のゲームよりはマシだなんて思って買い与えている親御さん方、
本当にそうなんでしょうか?

そもそもゲームの一番の問題っていうのは、
ほかの事をやる時間を全て奪ってしまうというところなのだから・・・

だから遊びなら遊びとはっきりさせるほうがまだ良心的。

「勉強にもなりますよ」なんて
甘い言葉でつろうなんてあまりのあざとさに
なんだか胸が悪くなるような気がするのは、
私だけなんでしょうか、ね・・・


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2007/07/24

「青春という言葉は嫌いだ」

そんな詩を書いていた子がいた。
高校1年生のときのクラスにいた子。
コミカルな二枚目半といった役どころの男の子で、
当然クラスの人気者。
十分「青春」を満喫してるように見えていた彼が
そんな詩を書いていたのには
私はちょっとびっくりした。

彼は書く。

「青春」という言葉はきらいだ
いい加減なヤツが
いい加減な自分を肯定するために
使い古された言葉だから・・・

そして続けて、

そんなヤツと一緒ではないと
必死で言い訳する自分が見え隠れするから・・・

とも・・・


この詩を読んだとき私は
彼は
「青春」という言葉を隠れ蓑に遊びまわる連中への苦々しさゆえに
貶められてしまったその価値を悼んで
この詩を書いているのか、と思った。
だから
(本当は好きなんでしょ、「青春」。
だって君は青春しているもの・・・)
と心の中でつぶやいたものだった。


私も「青春」という言葉が嫌いな子供だった。
彼がいうよりももっともっと深く根本的に
私は「青春」が嫌いだったはずだ。
何故なら、
世に言われるような
特別なる時期である「青春」とは
自分は無縁の存在だと思っていたから。
だから
殊更のように叫ばれる「青春」を忌み嫌ったのである。
青春なんて言ったってなんてことはない
普通の一時期に過ぎないはず、
だから「青春」なんて名前などつけるからおかしくなるのだ。
そんな言葉には私は騙されないぞ・・・


時は流れ青春は過ぎ去った、
多分、彼のも私のも・・・。

過ぎ去った今になって思うのは
彼も私も
きっと同じぐらい「青春」が好きでそして嫌いだったのだろう
ということ。


失ってみて
初めて分かる「青春」という言葉の意味。

この言葉は、
その最中にいる者全てにとっては
きっと嫌われ、
もてあまされる存在以外の何者でもないのかもしれない。


その後遺症をいまだに引きずっているのだろうか?

・・・溌剌とした少年少女が
活躍する青春モノ・学園モノは

実は
今も苦手な私、なのである。


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2007/07/19

T○UTAYA品揃え哀歌

私は決して映画ツウな人間ではない。
「ごくフツーのちょっと映画好き」というどこにでも転がっている程度のものである。
だから愛蔵版DVDだのビデオなんてものを所有しているわけもなく
もっぱら愛用しているのはレンタルショップなのである。
そんな私がDVDを借りるのは
レンタルショップ大手のT○UTAYA。
しかし
この私が使っている近所のT○UTAYAは悲しいほど
最近品揃えが薄くなっているのだ。

最初は
「なーんかこの店行くたんびにジャンルの棚の位置違うじゃん!」
って程度の不満だったのが、
最近はそのジャンル自体も消えてしまい
いわゆる名画も歴史モノも「クラッシック」みたいな感じでまとめられてしまっている。
いわゆるコスチュームものとかダンスものが好きな私は
入店と同時に時代物コーナー目指してまっしぐらに突き進んでいたものだが、
そこはある日忽然と姿を消して海外連続ドラマコーナーになってしまったのだ。

海外連続ドラマ・・・!

これこれ!これが私の時代劇を追っ払った張本人である。
レンタル屋には映画は何でも置いてあるなんて思ったのは今や昔の話で、
公開時話題性の多かった新作や準新作といった映画はちょっとは数多く置いておいてやってもいいが、
ごくたまーに思い出したように借りられる映画は置くのは一つで十分。
それも劣化すれば補充などせすにどんどん廃棄されていく。
そして、
空いたスペースには
リピーターが見込める連続ドラマがずらーりと並ぶわけだ。

はぁぁ・・・

というわけで、
最近はめっきりふらりとレンタル屋を覗くことのなくなった私。
だって、
どこにどんなふうなものが置いてあるのか全然分からないから
適当に棚を眺めていて
「ああ、そうそうこれ見たかったんだよねー!!」っていう偶然の出会いなんて夢のまた夢になってしまったから・・・
実際それがレンタル屋に足を運ぶ楽しみの一つだったりしたわけなのに、
今では、
「そっかー、今日は半額デーか・・・じゃ何か借りるか」
と借りるものをあらかじめ決めて
入店と同時に店員さんに場所を聞くのである。
そして
店員さんのオンライン検索をドキドキしながら待ち、
「すみません、当店にはおいてありません」という言葉を聞くさみしさたるや、
あーもう会員やめちゃおうかなとすら思うくらいなのだ。

もちろんこれはT○UTAYAさんだけに限ったわけでなく、
どこも一緒なのかもしれない。
考えてみればレンタル屋さんも厳しいのだろう。
ダウンロードとかケーブルテレビとかライバルはどんどん増えていくばかり。
衛星放送も番組が増えたから話題の映画も数多く無料で提供されてしまうわけだし、
それなのに
客と言えば半額デーを狙ってやってくるチンケな私のような客がほとんどだったりするわけだから、
手堅くリピーターを確保し大量に借り手のある
連続ドラマに縋る気持ちも分からないではない。

結局
映画なんていつでもどこでも見られるなんていっても
そうそう見るわけでもない。
だから
偶然のテレビ放映などの幸運を噛み締めながらでの鑑賞のほうが
実は味わい深くていいのかも・・・

なんて一応思ったりもしたのだが、

ああ、でも
そうはいっても
「ジーザス・クライスト・スーパースター」
「愛と哀しみのボレロ」はもう一度観たかったし、
「王妃マルゴ」を借り損ねていたのは痛かったなあ・・・(涙)

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2007/07/17

イチロー選手のインタビュー

何を今更!という話で恐縮であるが・・・
今日の話題は
MLBで日本の誉とも言える活躍をしているイチロー選手のことである。

その実力については最早誰も文句の付けられるようなものでもなく、
一部の人間にとっては「尊大だ!」という不快感に繋がる彼の態度も
別に
彼的なユーモアを含んだ「サービス」の一種なのだろうと解釈すれば決してめくじらを立てるほどのものではない。
確かに、
インタビュアーの質問の幼稚さ―
特にコレコレこういう答えを導かせたいという誘導尋問っぽい質問は
傍で聞いている素人である私ですら「あーあ」と思うものが多い。
だからそういう質問への彼のややシニカルな答えは、
当然と言われこそすれ非難されるものじゃない、と私も思う。

ああでも、
それでも
私はイチロー選手のインタビューを見るのが苦手である。
「出たじゃない、出したんです」
なんていうオールスター後の発言など
もう何度も聞いたためか
チャンネルを変えてしまいたくなるぐらい辛かった。

・・・・

・・・何故なのだろうか。

そういう彼を見ていると
なんだか辛くなってくるのである。

いっぱいいっぱいのところで頑張っている
そのめいっぱいな様子が
彼を取り囲むいつもピリピリとした空気に現れている。
笑顔でチームメイトと談笑しているときですら
なんだか
「ムリしてんじゃないかな」
というふうに見えてしまうぐらいに、
彼の周りには常に異様な緊張感が存在する
―少なくとも私にはそう見えてしまう・・・

だからこそいい成績が出るのだと言われれば
返す言葉もないのだし、
そうやって常にぎりぎりのところで限界に挑戦するのが彼の生き方で
それ以外の生き方をしろと言われたところで、
そんなことはできないものなのだろうが、

そんな
張り詰めた人の姿を見るのって
結構ツラくないですか?
そんなこと思うのは私だけなのでしょうか?


というわけで
先週は夫がハシゴするスポーツニュースを
隣で見ているのが辛かった。

彼の姿は
その素晴らしいプレーだけで十分。
それが
実際いちばんノビノビと自然に振舞っているように見えるのだし、

案外
イチロー選手自身も
それを願っているんじゃないですかね。


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2007/07/12

トラックバックとコメントを受け付けなくなって・・・

このサイトがTB、コメントの受付を終了して早一ヶ月以上。

アクセス数などの減少などの影響を予想していたが
今のところ変化はないようである。
(閉鎖的なサイトでありながら足を運んでくださる方々、
 本当にありがとうございます。)

また、

何故、受け付けなくなったのですか?

という質問も特にない。
自分が思っているよりも
他人はそんなことを気にしていないということなのかもしれない。
または、
ちょっとは疑問に感じながらも
そのようなことは聞くだけ野暮と思っている方々が多いということなのか・・・

不便をお掛けしてしまっているなぁ
と反省することもあった。
当ブログの記事に2回ほど
TB(こちらこちら)を送ることを考えられたそうなのに、
オフにしているため
「自分の記事に気付いてもらえるか・・・」との不安を抱かれたようだ。
(すみません)

その申し訳なさに実は
「TBだけでも承認後公開という形で受け付けるのを復活させようか」
とも思った。
いや、そんなことをするくらいなら
コメントだって受付ればいいじゃないか。
ちょっとした感想のメールも極わずがに頂いたのだが、
やはりメールを書き送ることは、
コメント欄で気軽に書き込むより敷居は高いのだろうな
という思いも改めて感じたことだし・・・
・・・
それもしかり。
迷いはいまだに続いているのだ。

つまりは
一体どうしてTBとコメントを受け付けなくなったのか?
それをはっきりさせたほうがいいのだろうか・・・


・・・

という訳で
言い訳がましいのですが、
それについて
プロフィールの欄を少し変更してみました。

この件に関して興味のある方はどうぞご覧ください。

そうでない方は・・・
「ケッ、なんだよつまらん」と思って、
別のページへさっさと飛んでいただけるとありがたいです・・・(汗)


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2007/07/10

「ギルバート、口を開く」に胸高鳴った昔

このギルバートというのは、
ご存知L.M.モンゴメリの代表作「赤毛のアン」シリーズに出てくる青年のこと。
多くのアンシリーズファンのご多分に漏れず、
彼は少女時代の私にとっての夢の男性像であった。
そもそも私にとって
「赤毛のアン」シリーズを読んでみようと思ったきっかけというのが、
「どうも、この主人公のアンという子はどんどん成長していって、
幼馴染のギルバートとかいう青年と結婚するらしい」
ということを知ったことだったのだし・・・

実は
それ以前にも赤毛でソバカスの空想好きの少女アンのことを
私だって知っていた。
男の子と間違えられて孤児院からマシュウとマリラの兄妹の元へやって来たこと、
リンドのおばさんを怒らせた癇癪の話、
またはダイアナとの友情―その幼い妹を看病して救った話などは
学習雑誌で読んでいた。
だが、
それらは残念ながら
さほど夢中になるような話とは思えなかったのである。

だが、
ギルバートなる人物に興味を持ち
改めて学校の図書室にあるアンシリーズ10冊を次々と読んでいくと、
これが夢中になるほど面白い。
特にアンがギルバートと絡むシーンは本当にドキドキさせられた。
(アンの乗った小船が沈没しかけて彼に助けられるところや、
 マシュウからもらったふくらんだ袖の服を着て舞台に立ったとき
 ギルバートがアンの落とした花を密かに拾った話とか)
というわけで、
私のとっての「アンシリーズ」はギルバートの存在なくしてはありえないものだったのである。

そしてその極めつけがこの「ギルバート、口を開く」の章。
赤毛のアンシリーズ第3巻「アンの愛情」の中ほどのストーリーで、
ここでギルバートはアンに最初のプロポーズをするのだが、
手痛い拒絶にあうという筋書き。
で、
このプロポーズのシーンを
自分の部屋で一人コタツに当たりながら読んでいた垢抜けぬ中1の小娘(=私)は
自分がプロポーズされたかのごとく耳まで真っ赤になって
(その暑さで汗までかいて)
心臓をバクバクさせていたのだった。

当時の私といえば、少女マンガなどもそれなりに読んでいたし、
そんな告白のシーンはそこで目にしたこともあったはずだ。
もちろんアンシリーズなわけだから
ハーレクインロマンスみたいな
ものすごいロマンティックな文章が連なっていたわけでもない。
(ハーレクインは読んだことないのであくまでイメージだが)
だから今になって思うと
何故アレほどドキドキさせられたのか本当にわからないのだが、
それは即ち私という娘がギルバートという青年にそれほど夢中になっていたということの証拠なのかもしれない。


・・・だから、

だから
少し前のことだが
赤毛のアンシリーズについてのこんなレビューをアマゾンで目にしたとき
私は愕然としてしまった。
それは「アンは何故ギルバートを好きになったのか?」題された次のようなもの。
(以下引用文です)

「・・・最近読み返したところ、アンがギルバードを好きになった背景が全く見えないのにびっくり。
どきどきするような感情のたかぶりが感じられません。
隣の席に座ったこと、ギルバードが成績優秀であること、顔立ちが綺麗であること、礼儀正しいこと、はわかりますが、個性的な魅力には欠けた男性かも。
3高を求める現在女性と同じようです。
モンゴメリは家庭の事情もあって、若い頃を遊んでクラス余裕はなかったそうですから、経験不足が筆の走りを鈍らせるのかも。・・・ 」

・・・

大抵のレビュワーが、
口を揃えてこの作品を誉めそやしているのとは対照的なかなり辛口の評価。
でも、
いや、だからこそこの方の視点にはとても鋭いものが感じられる。

ううーん、
確かにこの方の書くとおり
ギルバートという人物像は
少女マンガの描く「理想の彼」のような存在であり、
または韓流を代表とする恋愛ドラマの相手役というにぴったりの
つまり
「ちょっと冷静に眺めてみると
表面的なところ以外『どこがいいの?』という役どころ」
なのかもしれない。
(ちなみに「アンの愛情」では
さらに王子様としての性格が色濃く現れているロイ・ガードナーなる人物が現れるが、
「住む世界の違うちょっと退屈な王子様より
身近でくつろげて気の合う幼馴染(=でもあくまでルックスは良い)
のほうが本当の運命の人だった」
という話は実は少女マンガの定番中の定番である。)

その後、
アンと結婚後のギルバートは果たせるかな
ますます退屈な男性振りを露呈していくように見える。
アンの夫としてまさに「たまに登場しては花を添える」程度の役回り。
どんどん自信をつけ美しく理想に近づくアンの忠実なる崇拝者であり続けるギルバート。
その扱いは
ギルバートあってのアンシリーズだと思っていた思春期の私にとっても
誠に歯がゆいものがあった。

そんなこんなを総合して考えてみると
やはり、
私にとってのアンシリーズとは
文学という枠の少女マンガに過ぎなかったのか・・・

そうなのかもしれない。

だが、
それはそれでいいのだろう。
笑っちゃうような幼い恋愛ごっこ。
下駄箱前片思いの彼に偶然会ってドキドキするような
そんな淡い思い。
そういうものを
やさしく育んだり
そんな昔を懐かしく思い出すのは
多分人間にとって、大切な心の糧になるものなのだろうから・・・

そういう意味でも
やはりこの物語は文学史上にとっても
決して子供だましなだけのものではない・・・

それだけは確かなこと、のようである。


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2007/07/05

○○として、さらには「妻」として「母」として

テレビやラジオのゲスト紹介で
こんな言葉を聞いたことがありませんか?

本日のゲストはこの方、
○○として、さらには妻として母として一人三役のご活躍の××さんにお出でいただきましたぁ!
―ワー(と沸きあがる声) パチパチ(との会場の拍手)―


あー、
こういうのを見聞きするたびに
申し訳ないがうんざりした気分になってしまうのです。

一人三役って言ったって
今や大抵の人は三役やっているのは当たり前。
仕事を持つ女性のかなりの割合が家庭を持っている時代です。
「仕事が忙しいけど結婚していて子供がいる」
そんな定義最早ごくフツーのもんでしょう?

それなのに
当たり前の「妻」とか「母」っていう役割を
こんなにも前面に押し出してくるなんて・・・
これって悪いんですが
既に本業がイマイチってことなんじゃないかな
なんてうがった見方をしちゃいそうです。

一般の無名なる女性たちだって
地道にその「妻」や「母」をやりながら
さまざまな自己実現を図っている。
または
自己実現なんてかっこいいもんじゃなくたって
必死で生きているその姿は
「母」だ「妻」だなんてものを売りするどっかの有名人たちよりも
よっぽど好ましいように私には思われるんですけど、ね。

別に私は保守的な人間ではないつもりですが、
そんなふうに
いまだに「妻」や「母」を売りにできるなんて
まだまだ世の中って女に甘いんだな
と思ってしまいます。

女の武器って
発想の柔軟さとか当たりの柔らかさとか
または社交性とかもっと突っ込んでズバリ美貌なんかであっても、
誰もが当たり前に抱えているプライベートなんかであるわけがない。
そんなものを武器として持ち出したところで
実際何の役にも立たない・・・
本当のところは、そうじゃあないんですか。


いやはや
そんな社会には実はまだなっていなかったのか・・・

と思うと、
ちょっと驚いてしまいました。


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2007/07/03

無名なる人の肖像権

ふと通りかかった写真のサイト。
いや、
味のあるいい写真が掲載されている素敵なサイトだったんですけど、ね・・・
それに見入っているうちに
ふと疑問に思ったことがありました。
それは、

そこに写し出されている
名も知らぬ老若男女の方々は
自分がここに載せられていることを
知っておられるのかな、

ということ。


写真に写っている人々は皆
本当に自然で構えがない、
写されていることすら気付いていないかのような素朴な表情をしています。
多分撮影者は
被写体に気付かれぬままにシャッターを押されているのでしょうね。
だからこそ
見る側をもほっと和ませるような写真が撮れる。
疲れた我々に
潤いを与えてくれるような逸品に仕上げることができるのです。

だが、
問題となるのはその後なのでして、
その自然な表情を撮影したことを
撮影者は被写体となった人に伝えているのでしょうか?
それを伝えて尚且つ
「これこれこういうサイトに掲載する」という了承を得ているのでしょうか?

多分、私なら「やらない」んでしょうね。
お年寄りなんて説明してもわかってもらえないかもしれないし、
女性なんか絶対嫌がりそうですしね。
(かえって無断で写真を撮ったことに
不快感を持たれるかもしれない・・・
わからなきゃいいんだし・・・
黙っておこう・・・)
きっとそう思うことでしょう。


肖像権

なんて言葉が確かありました。

何を言い出すやら!
有名人でもあるまいし!

ホント
そんな堅苦しいことを言い出すなんて
この場合全く無粋なことなのかもしれません。
実際
そんなことで目くじらを立てて訴訟に持ち込む人なんていないのでしょうから
余計な心配とも言えます。
でも、
もしも無断で撮られた自分、
それも寝起きのような素のままの顔がインターネット上に載せられていたら、
正直心中穏やかならざるのも当然なのではないでしょうか?
そしてその不快感を表に出さない―いちいち訴えない―からといって、
それは「その肖像権を放棄した」というのとイコールではないのです。
このあたりは著作権とも通じるものがありますね・・・


いやはや、
インターネットなんてものがない頃は
著作権にしろ肖像権にしろ
一部の有名人とマスコミの間だけの話だと思っていたのですが・・
今やいわゆる

芸術(=表現の自由)とプライバシーの問題って
ごく身近な問題なんだ

なんてあらためて考えさせられちゃう午後、となりました・・・


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