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2007/09/30

人の不幸は・・・

・・・ふらりとアンテナ(リンク集)を覗いてみました。

ほぅ・・・
久々の更新情報に
あまり良くない状況を綴った記事が載ったもよう・・・
(いや、
 ついこの間までは
 私から見ればとても羨ましいような
 順風満帆の状態だったんですけどね。)

すると読んだ側の私としては
「まぁ・・・!」
と思う驚きと同時にたちまち

「おっ、どういうこと?
どーれどれ読んでみちゃおうかな」

という
下賎な心が動くわけです。


もちろん
それを書いた人を私は全く知らない、
それでも
ただ面白い文章を書く方だなと、
敵意よりはむしろ好意を抱いているような人、なのです。

そんな人の不幸であっても
やっぱり
どういうわけだか

「人の不幸は蜜の味」

ってことのよう。


もちろん、
この人が私よりずっといい状況にいたこと
(少なくと私にはそう思えたこと)が、
この「蜜の味」を更に甘くしているのでしょう。
こんな私だって
自分より辛い状況に置かれている人の
不幸を喜ぶほど情けない人間なわけじゃない・・・

・・・でも、
・・・それでも、

芥川の小説に「鼻」というのがありますよね。
大きな鼻を悩みにもつお坊さんの話。

「自分より不幸な状況にいる他人には
 人は優しくもなり親身にもなれるけど、
 ひとたびその状況を彼が抜け出すと
 それを無性に面白くなく感じるものである」

という人間のサガを暴く作品。

きっと
そのひとたちがその苦境を乗り切ったら
わたしも心のどこかで
「ちっ」
っと思うのでしょうね。


・・・


なんてことを考える
今日は雨の日曜日。

ブログの更新なんてしてないで
早く掃除などをすませちゃったほうがいいみたいです。

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2007/09/25

「夢と魔法の王国」で怒る私

先週の金曜日の夜のこと。
夫はいつもより早く帰宅してきた。
「へぇー珍しい」と驚く私たち家族を前に
彼は開口一番、
「明日行こうよ」とのたまう。

この「行こうよ」の行き先とは東京ディズニーランド(以下TDLと表記)。
10月で期限の切れるチケットをどうしようかと話をしたのは先々週のことだったろうか。

それにしても明日とは!
ちょっと突然だし強引じゃないか?
明日の土曜日は3連休の初日である。
遠方から泊りがけでくるお客もいるだろうから大混雑するのは必定だ。
アトラクションやショーに並ぶぐらいならまだ我慢できるが
ポップコーンひとつ買うのにも30分待ちになるような日に
なんで好き好んで行かねばならないのだ?

子供たちもまた
あまりの突然の言い渡しに躊躇気味。
それぞれに「友達と遊ぶ」休みの姿を心に描いていたのが
TDLに吹っ飛ばされた形だ。

とはいうものの
やはりTDLである。
冷静になれば子供は行くのに大賛成派へとあっさりと鞍替えをする。
となると二の足を踏んでいるのは
大混雑のかの地での
食事の確保や暑さのしのぎ方といった現実問題を心配する私だけ。
こうなると私の性格上不満タラタラながら付いて行くという
いつものパターンとなるのだ。

・・・・・

果たして翌日は
いつもどおり出発時間の1時間遅れから始まり
私にとっては不満いっぱいの一日となった。
―入園が遅い時間になったためレストランの予約は思ったとおりとれない
―ファストパスというのも今回初めて(今更ながら!)とったが
 使い方をよく知らず今一のお得感しか得られない
 (一回取ったら時間を置かないと次のを取れないなんて知らなかった!)
―おまけにこの暑さときたら!
 アスファルトの照り返しで辺りはじりじりと気温を上げ
 背中を汗が流れるのが分かるぐらいである
―それなのに暑さ対策で持ってきた保冷水筒を
 私はどっかで失くしてしまう
―水筒を探してパークを探して歩くのに
 あたりはパレードでことごとく通行止めだ

んんんんがーーー!!!!
もう二度とこんなとこ来るもんかー!!!(とまたも心に誓う私)

ところが
こんな不機嫌この上ない妻(母)を横目に
意外と家族は冷静なのだ。
考えてみると私がTDLで一度も癇癪を起こさずにすんだことなど
今までだってなかったのだから
すっかり慣れっこになっているのだろう。


しかし、
不思議なことだが冷静になってみると
この日のTDLは思いのほか空いていたようなのだ。

食事のためのテラスもすんなり席が確保できたし、
パレードの場所取りも1時間前で十分だった。
アトラクションの待ち時間も最長60分だったし、
例のファストパスだって2回使うことができた。
(開園後2時間近く遅れて入園した者としては上出来ではないか?)
つまりは私のイライラは
「今日のTDLは大混雑のはずだ!」という
全くの取り越し苦労から生まれたイライラであったということだ。

そういうことが分かってくると我ながらゲンキンだが、
失くした水筒もあきらめられるような気がしてくる。
(実際ペットボトルを買うのだってさほど並ばずに済むのなら
お茶が半分ばかり入った古水筒にそんなにキリキリする必要はないのである)

日が沈み、
昼間の暑さが大分凌げるようになってくると
ますます満足度は増していく。
夜のパレード観賞のあとはゆっくりレストランで食事
(驚いたことにここでも待ち時間はまるでなかった)、
そのあとは映画の評判ゆえのリニューアルされたばかりという
海賊のアトラクションに
あわてて閉演前に滑り込もうと行くと、
待ち時間はなんとたったの5分。
拍子抜け。
あまった時間はまた別のアトラクション(宇宙のジェットコースタータイプのもの)まで乗ってしまった。
さすがにここで閉演時間となり帰路に着いたのだが、
帰りがけにインフォメーションセンターで
落とした水筒について問い合わせをすると、
なんと届いたあったのだ、これが!

水筒を受け取りあとは、定番のタクシーでの帰宅となった。
こうして我が家の5度目のTDL訪問は無事(?)終了。

・・・・

こう考えてみると
日帰りでありながら小旅行規模の金額がかかるTDL。

出かける前の気合も
当日の期待感も
それによる緊張感で平常心を保てず些細なことに癇癪おこすところも
どこか海外旅行と似ている。

またこの先TDLに出かける機会はあるだろうが、
きっとそのときも私は
怒ったり笑ったりヒステリーをおこすことだろう。
(一緒に行く家族には申し訳ないが・・・汗)

それでも、
あの入園時の
エントランスからお城の見える広場へとアプローチへ歩いていくとき、
あのときの
「ああ、ディズニーランドに来たんだぁ」という感動は、
恥ずかしながら薄れることはないに違いない。

結局私は
あの感動を味わいたくて
あの人混みへまた行くのだろう。
(そしてそこで怒ったり不機嫌になったり笑ったりするのだ)

実際、
あの感動以上のものは
他のどのテーマパークにも
いやTDL自身の他のどんなアトラクションやショーにもないものなのだから・・・

TDLが
他のテーマパークとは一線を画す理由というのは
きっとその辺にあるのだと思う。

「ぼったくりすぎ」とか
「待たされすぎ」とか
いろいろ問題もあるのだろうが、
少なくともそのコンセプトの確かさについては

彼らは勝ち組といわれてしかるべき力をもっている、

と私には
思えてならないのだ・・・


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2007/09/21

幻覚の支える社会

一昨日の夕刊のコラム欄にて、
脳科学者池谷裕二氏の文章を読んだ。
載っていたのはある実験の話。

その実験とは

1.片方の手を机の下に隠して、机の上にはゴム手を用意する
2.そして本物の手とゴムの手に
  同じ刺激を同時に繰り返し与えつづける 
3.するとだんだん見えない本当の手ではなく
  目の前のゴムの手のほうが
  自分の手のような錯覚を抱くようになる

というのものだ。
(この「視覚のみによる触覚情報が”幻覚的”触知覚に与える」
という現象は、
ラバーハンド・イリュージョンと呼ばれているらしい)

この話から
池谷氏は
「脳による認識の中では
『自分と他者との境界』は意外とあいまいなもの」と続けられる。
それは動かし難い絶対的なものではなく、
その場の状況や与えられた情報により流動的に揺れ動くものであると。

私はかつて拙記事「自分から生まれ出る他者」の中で
「自分か他者か」という概念とは
「自分の精神の支配する範囲かそれ以外か」である、
ということを書いたことがあった。
自分とはあくまで認識をする側であり
その認識に主観を抱くものである。
一方他者はその自分の外に存在するものであり
常に認識の対象であって認識の主体たる自分とは全く別のものであるのだ、と。

しかし、
この現象によると
その2つを分ける決め手となる「自分の精神が支配する範囲」の認識自体が
をきわめてあやふやな基準を元に動いているということになる。
自分と他者の識別がこのように
いとも簡単に混乱するということは、
意外でありとても興味深い。

こんなことを聞くと、
ありえない話ではあるが、

個としての意識を訓練次第で
世界規模の意思への変える事ができるのではないか?

例えば
他者の痛みを
世界の痛みを
地球の痛みを
自分の痛みのように感じることができるようになるのか?

などという
そんな妄想も浮かんでしまいそうだ。


そういえば
池谷氏も
このあやふやさをむしろ
「人がただ個としてのみ生きるだけではなく
他者への共感や共通目的への努力という公への意識を生む」ものだとして
あってしかるべきものと評している。


言い換えるならば
こうした幻覚がなければ

社会というものは成り立っていかないもの・・・

実はそういうものなのかもしれない。


・・・
しかし、

「幻覚」が社会を支えているとは、

なかなか皮肉の利いた話のような気もしてくるのだが・・・・


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2007/09/13

「ねむりひめ」好き

・・・わたしが小さいころ
一番好きだったものがたりは
「ねむりひめ」だった。

美しくて
賢くて
優しくて・・・
だが、
彼女はそういった美徳すらも
全て妖精たちからプレゼントされた根っからの受け身の「お姫様」だ。
シンデレラのように
いやな仕事を押し付けられて頑張ってそれをこなし、
なおかつ美しい心を持ち続けたわけでなし・・・
白雪姫のように
動物や小人たちと仲良しになるような
明るさや朗らかさがあるわけでなし・・・
ただひたすら美しく理想的なだけ、
唯一彼女が能動的に行動したのは
糸車の針に指を刺したことぐらいで、
最後に王子がやって来て
キスをするまでひたすら眠り続ける、待つだけの「お姫様」。


のちに
「戦う女たち」と親しくなった20代の私は
その友の前で
子供時代のあこがれが「眠り姫」だったとは
なかなか言い出せなかった。

だって、
いかにも受け身で没個性の典型、
いわば封建的(?)な御伽噺がすきだったなんて・・・
・・・うーん
・・・ちょっと恥ずかしい、な。
(ちなみにその友達のほとんどは
かつての好きだった物語にお姫様モノを上げてはいない)


最近、
「アリーテ姫の冒険」という児童書を目にする機会があった。
賢いお姫様がその賢さで道を切り開いていく物語。
帯には
「待ってるだけのおひめさまはもう古い」との言葉があった。

そうか、
そんなお姫様も御伽噺に登場し始めたのか

平成生まれのわが娘は
けっこうそのストーリーが気に入ったようで
繰り返し読んでいるようである。

私もさらりと読んでみた。

悪くはない、悪くはないが・・・
私の中では
茨に閉じ込められた眠り姫の話のほうがよりロマンティックで美しく輝くのだ。

たとえ
没個性でことごとく受け身であったとしても


アリーテ姫のように生きるのは今の少女たちの理想なのだろう。
自分の努力によって
十分に実現可能な理想、手の届く理想の姿なのである。

だが、
眠り姫のように
内に篭って待ち続けるのも
少女たちの永遠の夢なのかもしれない・・・

なぜならば
それは
現実には絶対不可能であろうから


その見方によっては
病的ななほどの内向性もまた

合理的でなはいまでも
ある種の人々にとっては
ひとつの理想の姿であるような気がしてならないのである。


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2007/09/12

@nifty投票

ミーハーですが・・・
最近niftyさんが作られたブログパーツのひとつ、

@nifty投票

を作ってみました・・・
昨日の記事についてなんですが・・・

記事のしっぽについています。
宜しければご参加をお願いいたします・・・

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2007/09/11

お誕生会における「お土産」の存在理由

娘がお友達のお誕生日会から帰ってきた・・・

会は大層楽しかったらしく
その様子をいろいろ話してくれるのだが、
私にはそれ以外に気になることがあった・・・

「この包みは?お土産?」
「そう、可愛いノート」
「ノートだけ?」
「あとこの可愛いボールペン」

キャラクター付の可愛いノート、
そしてやはり別のキャラクターの二色ボールペン・・・
こっそり値段を見てみると総額500円相当かといった
いわゆるプレゼントのお返しというやつ・・・
今日招待されたのは10人弱ということだから
うーん総額は・・・結構な額になるじゃないか。

小学校の低学年のころから始まった、
子供同士の誕生会ご招待のされ合い。

最初のころこそ
お昼ごはんにケーキ、お菓子でのもてなしのみだったのが、
高学年になった最近では、
こうした引き出物のようなお土産が当たり前のようになってきた。

子供は当然大喜びだ。
そりゃそうだろう、
おいしいお菓子にご馳走、
さらにはお土産までもらって帰ってくるパーティー
うれしくてたまらないはずだ。

でも、何故お土産まで出されるようになったのだろう?
誕生日のお祝いとして
招かれたほうはプレゼントを持って行くのである。
その会場でゲームをやったりご馳走を食べたり楽しい思いをすることで
招かれたほうは十分なはず。
プレゼントのお返しか
もしくは今日来てくれてありがとうという感謝の表れなのだとしても

結婚式の引き出物のようにお土産がが配られるのはなんだかちょっとなぁ

という気分が私にはずっとあったのだ。
まあ、
実のところは
準備する親側ばかりが互いに気遣い気を揉んで
結果子供たちばかりが丸儲けみたいなこのシステム―
それに、
親たちが不本意ながらドツボにはまるみたいに広がっていくのが
なんとも悔しいというだけのことなのだが・・・
(私は
そういう意味では「お年玉」というシステムも
実は苦々しく思っているようなケチな親なのである。)


今回あらためて考えてみるに
多分お土産が出され始めた理由というのは、
子供同士の「招待した」とか「プレゼントをもらった」
という関係は一回ずつ清算した方がよいという
親側の意図にあったのではないか、と私は思うのだ。

親の論理によると
招待してくれた人を自分の誕生会には呼ぶのは、お返しとして当然の礼儀である。
だから本来なら
次回の相手の誕生会にて互いにお返しし合うのが筋というものなのだろう。
が、子供の世界は流動的である。
友人関係がいつもでも続くという保障はどこにもなく
たとえばクラス替えなどという要因ひとつで
短期間にがらりと変わるというのが、現実だったりするのだ。
もしも自分のことなら
そういう変化も仕方の無いことと割り切れるのだろうけど
自分ではない「子供のこと」となると
ややためらいもある。
子供の友達もさることながら、
その親御さんの心情を推し量るとああ・・・
やっぱり少々のことをケチって自分の評判を落とすのは
この場合いかにも得策とは思われない。

だからこそ今日この日のうちに
プレゼントのお返しはしておいたほうがいいし
そのほうが合理的じゃない?
後々のへんな恨みや勘ぐりの芽も摘んでおけるし・・・

そう考えるのは
至極自然のことなのかも・・・


さて、
わが娘のことにもどるが、
春休み中に誕生日の来る彼女の誕生会は本人の希望もあって
実はここ数年やっていない。
親戚の家に長期で泊りに行くなどの理由からのことだが、
来年はおじいちゃんおばあちゃんと過ごす誕生日より
友達との誕生パーティーを希望しているようだ。
もっともここのところ御招待されまくっている彼女なのだから
ここらで誕生会を開くのもいい潮時なのだと
母である私も腹をくくってはいるが、
その際のこの「お土産」をどうするかは
実はまだ決めかねている。

心情的には「そんなもの必要ない」と言いたいところだが、
浮世の義理と秤にかけると
そうも硬いことを言っていられなくなるのだろうな・・・

そうやって
皆、財布の紐を解いているのだろうけど、

結局そうやって子供は潤っていくのか・・・

そう思うと、
我が信念の脆弱さに我ながら情けなさも感じる

今日この頃なのである。

<9/12追記>
@nifty投票を作ってみました。
ご興味のある方はクリック投票をどうぞ・・・

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2007/09/06

映画は世界を変えられるか?

「ホテル・ルワンダ」という映画を観た。
これは1994年のアフリカの小国ルワンダで実際に起こった
大虐殺を描いた作品である。

もうすぐ21世紀という時代に
ひとつの民族が敵対する別の民族の絶滅を目指して
集団で手にナタを持ち隣人を殺しまくるという
聞いただけでも身も毛もよだつような事件。
この悲劇に対し国際社会は
それぞれの大国の思惑から介入が遅れ
一説によると100万人もの人々が惨殺されたというルワンダの大虐殺。


私もまた、
多くの人と同じように
1994年当時そんな悪夢のような事件が起きているとは
全く知らずに生活していた。
二ユースでこの事件を初めて聞いたのはいつのことだったか。
記憶に定かではないが、
たぶん大虐殺を行っていた勢力が劣勢にまわり
国外に逃げ去った後のことだったような気がする。
つまり、
「こんなひどいことが起こっていたんだ」という
過去の事件としての報道だったのだ。

そしてあれから10年以上が過ぎ、
当時のホテルマンであった主人公の物語が映画化された。
それが、この「ホテル・ルワンダ」。


鑑賞後、
この映画のレビューのページに目を通してみた。
目に留まったのは2つのレビュー。
1つは当時からこの事件を知って抗議活動もしていた人の
「今更、遅い、自分がこのことを世に訴えたときは皆が冷ややかで無関心だったこの虐殺に今更、このような映画を見せつけられて、何を感動しろというのだろう・・・起こった後で涙を流して何の意味があるのだ」というもの(詳しくはこちら)
そしてもう1つは、「この映画を知って無関心だった事件に関心を持つようになった」というごく普通の人の姿をややシニカルに描いたもの(これはこちら


起こった後で涙を流して何の意味があるのだ

この映画をみて目が覚めた、・・しかしそれだけである。


そう、
このような社会派と呼ばれるような映画に
真正面から向き合えば向き合うほど、
これらの言葉は身につまされるものとなる。

映画を観て
自分の知らなかった出来事を知る。
無知を恥じ、
自分の安穏とした生活を恥じ、
結局は何もできない自分の無力さに恥じ入る。
でもそう思いながらも
その日かあるいは何日か後の夕食には肉を食べ、
テレビを見てゲラゲラ笑い、
暖かい布団につつまれて安心した夜をいつもように過ごすのが私たちなのだ。
あたかも
何も変わらなかったかのように・・・


映画は所詮娯楽だ、という人もいる。
そしてそれは実際のところ真実なのだろう。

その娯楽である映画に
この世界を変える力は果たしてあるのだろうか?

・・・

正直
私にはわからない。

ただ確かに言えるのは、
この「力はあるのか?」という問いが
私を含めた何人かの
安穏と暮らしている人間の中に生まれたということ、

そして
その問いが生まれたことは
わずかにせよ
感傷や同情以上の確かな意味のあることであるはず・・・


そう思いたい
いやむしろそう信じたい

そんなふうに思う私、なのである。


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