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2007/09/11

お誕生会における「お土産」の存在理由

娘がお友達のお誕生日会から帰ってきた・・・

会は大層楽しかったらしく
その様子をいろいろ話してくれるのだが、
私にはそれ以外に気になることがあった・・・

「この包みは?お土産?」
「そう、可愛いノート」
「ノートだけ?」
「あとこの可愛いボールペン」

キャラクター付の可愛いノート、
そしてやはり別のキャラクターの二色ボールペン・・・
こっそり値段を見てみると総額500円相当かといった
いわゆるプレゼントのお返しというやつ・・・
今日招待されたのは10人弱ということだから
うーん総額は・・・結構な額になるじゃないか。

小学校の低学年のころから始まった、
子供同士の誕生会ご招待のされ合い。

最初のころこそ
お昼ごはんにケーキ、お菓子でのもてなしのみだったのが、
高学年になった最近では、
こうした引き出物のようなお土産が当たり前のようになってきた。

子供は当然大喜びだ。
そりゃそうだろう、
おいしいお菓子にご馳走、
さらにはお土産までもらって帰ってくるパーティー
うれしくてたまらないはずだ。

でも、何故お土産まで出されるようになったのだろう?
誕生日のお祝いとして
招かれたほうはプレゼントを持って行くのである。
その会場でゲームをやったりご馳走を食べたり楽しい思いをすることで
招かれたほうは十分なはず。
プレゼントのお返しか
もしくは今日来てくれてありがとうという感謝の表れなのだとしても

結婚式の引き出物のようにお土産がが配られるのはなんだかちょっとなぁ

という気分が私にはずっとあったのだ。
まあ、
実のところは
準備する親側ばかりが互いに気遣い気を揉んで
結果子供たちばかりが丸儲けみたいなこのシステム―
それに、
親たちが不本意ながらドツボにはまるみたいに広がっていくのが
なんとも悔しいというだけのことなのだが・・・
(私は
そういう意味では「お年玉」というシステムも
実は苦々しく思っているようなケチな親なのである。)


今回あらためて考えてみるに
多分お土産が出され始めた理由というのは、
子供同士の「招待した」とか「プレゼントをもらった」
という関係は一回ずつ清算した方がよいという
親側の意図にあったのではないか、と私は思うのだ。

親の論理によると
招待してくれた人を自分の誕生会には呼ぶのは、お返しとして当然の礼儀である。
だから本来なら
次回の相手の誕生会にて互いにお返しし合うのが筋というものなのだろう。
が、子供の世界は流動的である。
友人関係がいつもでも続くという保障はどこにもなく
たとえばクラス替えなどという要因ひとつで
短期間にがらりと変わるというのが、現実だったりするのだ。
もしも自分のことなら
そういう変化も仕方の無いことと割り切れるのだろうけど
自分ではない「子供のこと」となると
ややためらいもある。
子供の友達もさることながら、
その親御さんの心情を推し量るとああ・・・
やっぱり少々のことをケチって自分の評判を落とすのは
この場合いかにも得策とは思われない。

だからこそ今日この日のうちに
プレゼントのお返しはしておいたほうがいいし
そのほうが合理的じゃない?
後々のへんな恨みや勘ぐりの芽も摘んでおけるし・・・

そう考えるのは
至極自然のことなのかも・・・


さて、
わが娘のことにもどるが、
春休み中に誕生日の来る彼女の誕生会は本人の希望もあって
実はここ数年やっていない。
親戚の家に長期で泊りに行くなどの理由からのことだが、
来年はおじいちゃんおばあちゃんと過ごす誕生日より
友達との誕生パーティーを希望しているようだ。
もっともここのところ御招待されまくっている彼女なのだから
ここらで誕生会を開くのもいい潮時なのだと
母である私も腹をくくってはいるが、
その際のこの「お土産」をどうするかは
実はまだ決めかねている。

心情的には「そんなもの必要ない」と言いたいところだが、
浮世の義理と秤にかけると
そうも硬いことを言っていられなくなるのだろうな・・・

そうやって
皆、財布の紐を解いているのだろうけど、

結局そうやって子供は潤っていくのか・・・

そう思うと、
我が信念の脆弱さに我ながら情けなさも感じる

今日この頃なのである。

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