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2007/10/30

CMにおける成功と失敗とは

ラジオから流れるCMを聞いていて、
ふと思いました。

これはちょっと・・・っていうCM、
ハズしているっていうか
繰り返し聞かされるとむしろ嫌悪感すら覚えるCMってありますよね。
・・・
あれはやっぱり失敗作なんでしょうか?

もちろん
その商品にマイナスのイメージを植えつけてしまったっていうのは
企業にとっては不利益につながるものなのかもしれません。
でも現代は
放っておけば限りなくおびただしい数の宣伝がタレ流され、
その中で気にも留められず消えていくものがほとんど、
という情報過多の世の中です。
その中で、
たとえ嫌悪感と共にであろうとも
「その商品を知らしめ印象付けた」というのは大したことなんじゃないですか。
そういう大きな役割を果たしたのは
その「嫌らしいCM」なわけで、
そう思うとソレはCMとして
一応の成果を収めたことになる、
そういうことにはならないのでしょうか?


さらに微妙なのはこんなCM。
おしゃれで印象的ではあるのだけれど
何を宣伝していたのかが良く分からないヤツ。
毎回それが流されるたびに
受け手としては
「あれ、これ何のCMだったんだっけ」で始まり
「そうそう○○だったんだよねー、
すぐ忘れちゃうよ・・・(苦笑)」で終わる・・・
その繰り返しです。
このCMの場合
CMと商品の意外性だけが印象に残り、
商品自体のインパクトは極めて低いということなのでしょうね。
そういう意味では
商品を世に知らしめるという
本来の役割はほとんど果たしていないような
そんなCMですけれど、
このタイプもクライアントとしてはどうなんでしょうか。
それでも歯牙にもひっかからずに消えていくモノよりは
マシなのでしょうか?


考えてみると
現代においてCMを見て「その商品を買おう!」と決意すなんて
意外に少ないコトなのかも。
むしろイメージとか信頼性・知名度なんてものを測るバロメーターとして
機能しているのが現代のCMの姿なのでしょう。

こういった
不特定多数の消費者を相手とした
企業のイメージ戦略の手段となったテレビ・ラジオCMとは別に
今世の中には新しいタイプの広告が誕生していますね。
ネットの広告というのは
その商品の興味のありそうな人への
ピンポイントで提示される広告を目指しているようですが、
もしそれが実現しているのであるなら
ものすごい広告業の効率化を意味するのでしょう。

いっそ
商品の売上高などに直結する広告はそちらに任せて、
むしろテレビ・ラジオのCMは
これからは
どんどんイメージ戦略を目的とする
ショートフィルムと化してくれればいいなと、
そんな勝手なことを考えている私、

そんな私は
「面白いCM」はもちろん大好きですが

CMにより商品購入を決める

ということは
ほとんどない人間です。


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2007/10/25

ヒトとしての価値、オンナとしての価値

「あの人は人間としては素晴らしいけれど、
オンナとしては、ちょっとね・・・」
という評価と、
「彼女は女性としては魅力的だけど、人としてはそれほどでも」
という評価。
もし自分に対し下されるのだとしたら
あなたならどちらをまだマシと感じますか?

好むと好まざるとに関わらず
私たち人間というものは、
二つのものさしで互いを計りあっているようなところがあるようです。
それは即ち、
「社会における仲間として魅力的であるかどうか」
という視点によるものさしと
「異性として自分を惹きつける魅力をもっているか」
という視点によるものさし。


不思議なことに
この後に述べたものさし、
「異性としての魅力」に欠けると言われることは
最初のものさし
「仲間としての魅力」に欠けると言われることより
なかなか辛いことのように感じます。
どうしてなのでしょう。

多分、
仲間があくまで一対複数であるのに対し
異性間というのは無意識にも一対一のツガイを意識した関係であるからなのでしょうね。
異性としての目とは
「自分のベストワン」を選び抜く厳しいチェックを
するものだから・・・・
そのチェックにもれるというのは
なんとも悔しい、
たとえ相手が自分の意中の人でもなんでもなくとも、です。

そもそも
男女という二つの性とは
生殖のために創られたものであり、
種の多様性のために
最も好ましいと思われる異性を選ぶという
「選択行為」が根底にあるもの。

基本的に平等や友愛といったものが良しとされる文明社会以前の
長く脈々と続いたこの営み、
その選択対象からはずされるという屈辱は
より原始的な感情であり
理屈では説明できないものなのでしょう。

私たちが
こと恋愛感情や男女の問題に関して
理性的に対処できないのは
そういう理由によるものかもしれません。


・・・

なんてことを
こんなところで分析したところ
私のオンナの魅力が上がるわけでも何でもないのですが、


それにしても
この

「オンナとしての魅力を上げる」って努力、

一体どこに力を入れたらいいのか未だに皆目わからない自分に

妙なアキラメ感すら感じる
今日この頃なのです・・・


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2007/10/23

当世少女マンガ事情(児童編)

・・・って表題に掲げるほど
大した内容ではないのであらかじめご了承のほどを・・・(汗)。

先ごろ
うちの娘(小5)がついに少女マンガに読者デビューを果たした。
友達の影響なのか
この夏から児童向けの月刊雑誌を小遣いで買い求め、
読み始めている。

少女マンガ大好きっ子で
小4のころには既に少女マンガにハマり
小5では単行本を本棚にずらりと並べて
読みまくっていた私に比べて、
それまでの彼女の愛読マンガはずーっと「ドラえもん」。
その幼さに密かに安心しながらも
自分との違いをやや寂しく思っていた私だったから
現在微妙な立場に立っている。
「マンガばっかり読んでないで!宿題はどうしたの?」
なあんて小言を言わねばならなくなったのは、
面倒には違いないが
久しぶりに我が家に少女マンガがある!という状況は
妙にうれしかったりするものだ。

しかし、
その雑誌を娘のいない間にぱらりとめくってみると・・・
何これ?
歴史モノは皆無、
外国が舞台なのも皆無、
スポーツ根性ものも皆無
あるのはみぃーんな同じような学園ラブコメ系の作品ばかり。
しかも絵も同じようなものばかり・・・
なーんだよ、
こんなんなの?
最近の少女マンガって?

フランス革命を「ベルばら」で知り、
ロンドンの位置を「キャンディ・キャンディ」で知り、
バレエ大国を生んだ共産主義国家ソ連を「アラベスク」で知った
私にはなんとも物足りない内容、
こんなものを読んだところで
何ら得るものなどないじゃないか?

と思っていたところこんなページを発見。
それによると
どうも娘の買い求めた雑誌は
児童向け少女マンガ雑誌の中でも最も低年齢層向け
と評価されているもののようなのだ。

なるほどねぇ・・・だから、か。
もっとお姉さん向けのには
読み応えのある作品もないわけでもないのだな?
結局娘も娘の周囲の子達も
まだまだ幼いうちなのだ。
歴史や地理や社会形態をマンガから知り
興味を持つようになる以前の段階ということか。
なぁんだ・・・

しかし、
ちょっと落胆する私とは裏腹に
これを聞いた夫は大いに安心したらしい。
彼の聞きかじった情報のよると
最近の少女マンガの性描写は
まるで成人向け雑誌のようにすさまじいということだから、
その少女マンガ雑誌を買い始めた
なんて聞いたときは気が気じゃなかったようだ。

読み甲斐のある内容なんかより
子供らしい内容であるのが一番。

うーん
男親ってそういうもんだわね。

あくまで娘の保護者である男親と、
娘に早く自分の段階まで登ってきて欲しい女親、

どうでもいいけど
ちょっとその違いを感じた、一件でした。


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2007/10/18

多様化した個人要望に
社会はどこまで応えるべきなのか?

先日過去の記事を読んでいたら、
こんなものを見つけました。

あなたを好きで一緒になるけれど・・・
「理性による許容」とは

(ああ、前にこんなこと書いたっけな・・・)

この2つの記事にコメントを寄せてくださったのが「夫婦別姓を待つ身」さん。
理性的で真摯なその姿勢に私はとても好感を抱いたんですけど、
どういうわけだか申し訳ないことに頑固者の私は
未だにこの問題の法制化には賛同できない気持ちでいるのです。
(「待つ身」さん、どうもすみません・・・)
どうしてそうなってしまうのか、
私がそんなに許容範囲の狭い人間だってことなのでしょうか?

いや私だって
別によく言われるような反対派の方々のように
「別姓にした途端家族制度が崩壊する」とか
「別姓の家庭の子供が可哀想」だとかはさすがに思わないのです。
そういう問題は制度に連動したものではなく
個人個人の意識に関わるものだと認識しています。

それよりもむしろ気になるのは「選択制」ということ。
つまり
この国に別姓の夫婦と同姓の夫婦が混在することに
妙な違和感を感じてしまう・・・
極端な話、
別姓のほうでも良いと多くの方が判断されるのなら
中国、韓国などアジアには別姓が当然という国々もあることだし、
皆別姓ということで統一してもらうほうが
この混在状態よりいいのでは、と思うぐらいにです。

もちろん、
違和感なんて個人の感性を
反対理由にするなんてけしからんという声もありましょう。
が、
たかが違和感と言うなかれ、
そもそも別姓を求める理由も根底にあるのが
「姓を変えることへの違和感」が大きな部分を占めているのも事実です。
ただこの違和感対決は
精神的苦痛のを伴う別姓派の人のほうが確かに説得力があるり
違和感なんてものは慣れの問題なのだから
「受け入れてやれよ」って言う意見も確かに分からなくもない・・・

実際この問題について他のブログを除いてみると
いわゆる良心的だと評判の方たちは大抵
自分自身は別姓にしたいとは思わなくとも
「それを求める人たちの願いを叶えることには異存はない」
と同姓・別姓の選択制を容認していますね。
そして
「自分の(夫婦は同姓が一番という)価値観を押し付ける」選択制反対派を
排他的と非難していらっしゃる。
「どうして自分たちのように他者の価値観を受け入れるような
寛容な心を持ち合わせないのだろう」というふうに、です。

でも
反対派の理由って本当のところは
「家族制度を守るべき」という自分の価値観ではなくて、
私の違和感のように
「後を絶たずに生まれてくる多様化した個人要望に
どこまで社会は応えるべきなのかというの迷い」
にあるのではないでしょうか。
たとえば、
夫婦別姓を許したら次は同性結婚も許すべきだとはならないか、というふうに・・・
(ちなみに私は信仰上同性婚は基本的に認められない
 という立場ですが、
 真剣に互いを生涯のパートナーと考えている人たちには
 法的にも生涯のパートナーと認められるべきだと考えています。)

結局はどこかで線を引かねばならないのだ。
だとしたら今引かれている線を消して引きなおすという判断は
簡単にはできないことである。
だから人々が長く慣れ親しんできた
その線はその線として残しておいて別の打開策を考えるほうが
より妥当なものなのでは?

そう考えるのも決して理不尽なものでもないとは思いませんか?

だから、
根本的解決(ここでは選択制を含めた別姓の法制化)よりも
新案による解決(例えば事実婚カップルにおける法的権利の拡大)
を目指すような方向に進むのが現実的な路線であると私は思うのです。
私のような変革に二の足を踏む人間にも
そのほうが受け入れやすいでしょうし・・・


・・・


ところで
この問題についていつも考えるのが
日本における呼称=姓という習慣の弊害です。
大体姓(last name)ってもの自体が
名(first name)とは違って個を表すものではなく
個の属する家のような共同体を表すものなわけですから、
姓を名乗っている限り人は何かに縛られているということなりませんか?
乱暴に言わせてもらえば
別姓か同姓かは、その縛っているものが
自分の「親の家」か「配偶者の家」かの違いだけしかありません。
そういう意味では日本のこの習慣が
このような多くの歪を生んでしまっているのかもしれませんね。
もっと名(first name)が呼称として一般的に使われるような世の中になれば、
同姓とか別姓とかは今よりも小さな問題になるんではないでしょうか、ね?


・・・いやいや、
それこそ非現実的な話、ですね。
何の解決にもならない駄文になってしまいました。
すみません。

以上、
ある夫婦別姓法制化に賛同できない人間の言い分(言い訳?)、でした。

・・・お目汚し失礼致しました。


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2007/10/16

「いいクラス」の思い出

4歳と4ヶ月で集団に属するようになってから
学生を卒業するまでの十数年、
その間さまざまな「クラス」に属したものだが、
ひとつかなり印象に残っているものがある。

それは高校1年のときの学級、1年8組。
担任は初めてクラスを受けもったという2年目の若い女性教師で
笑顔の明るい初々しい人だった。
クラスの仲間たちも結束力があり、
事あるごとにに盛り上がるのが上手い
「いいクラス」だったんだと思う。

だが、
だがどうしても
私はこのクラスに馴染むことができなかった。

男女仲も良いクラスメートたち。
誰もが私のようなぱっとしない地味な人間も
引き立てて仲間に入れようと広い心で接してくれた。
私もその思いに応えようと、
いや、単にクラスで孤立するのがいやだっただけなのだろうが、
とにかくクラス主催のイベントにはがんばって参加したものだった。
夏のクラス合宿、体育祭・文化祭の打ち上げ、新年会などなど・・・

次々と企画される
私にはちっとも楽しくないそれらのイベント。
それに参加しながら私は悩んだ。
何故私は彼らのように楽しめないのだろう、と。
何故彼らのように私は結束の輪に加われないのだろう、と。
楽しさに笑い声が響く盛り上がった会場で
私は常に偽りの笑顔を浮かべながら
アウトサイダーとして生まれるついた我が性格を
恨めしく思ったものだった。

こんな思い悩みを抱えながらも
やがては季節は春になり私たちは進級した。
その結束した我らが8組もクラス替えと共に解散となった。
新しい2年のクラスは極当たり前の
ほどほどに力の抜けたクラス
―そのクラスの性格が明らかになるにつれて、何故か私はほっとしていた。


それから随分とたった高3のあるときだったか、
何かのきっかけ(多分委員会か何か)で、
かつてのこの結束8組のクラスメートと一緒になったことがあった。
社交儀礼的にあのクラスの思い出を語り始めようとする私だったが、
だがそんな私に
驚いたことに彼女はこう言い切ったのだ。

「いやなクラスだったね」

えっと驚く私に彼女は尚も続けた。
「一部で盛り上がって強引にみんなを引っ張っちゃってさ、
私の周りじゃみんな嫌がっていたわよ・・・」

ぷっと笑いが出た。
・・・なぁんだ、私だけじゃなかったのか、アウトサイダーは・・・


言った彼女は別にそんなつもりはまるでなかったのだろうが
この言葉は
その後の私の人生にひとつの指標与えてくれた。

「自分の感性や感覚をもっと信頼していいのだ」という指標を。


この子とは
それまでも大して親しくなく、
その後も「友達」と呼べるような関係にはついぞならなかったけど、
それでも
妙に結束した青春群像ドラマを見るたびに
そこになじめなかった自分へのトラウマを癒してくれた彼女は
あれから20年以上経った今でも、
ある意味一種の

「恩人」

のような存在だったりする。


ありがとうね、Tちゃん・・・

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2007/10/12

私の見ている赤とあなたの見ている赤

我が家のとっている夕刊のコラム執筆のメンバーが
また9月から一新されました。
それにより脳科学者池谷裕二氏の文章が毎週読めるようになったのですが、
これがなかなか面白い・・・
以前このブログでも
彼のラバーハンド・イリュージョンについての文章にも触れましたけど
(詳しくはこちらを参照)、
先週のものは、
匂いを発生させるある物質が、
人によってまるで違う感覚を引き起こしているという
現象について述べたものだったんですよ。

どのような現象なのかと言うと
人によっては
吐き気を感じるほどの嫌悪感を感じさせる匂いが
別の人にとっては甘く心地よい香りに感じられる、
ということのよう。
もちろん
それは「人の好み」などという
個性の問題ではなく
もっと科学的な脳への作用という領域の話なのです。

更に池谷氏はその事象について語ったあと、
こうも続けるのです。

古来より哲学において問題となっている
「私の見ている赤とあなたの見ている赤は同じ赤なのか」
(即ちそれは発展させると
 「私の認知する世界とあなたの認知する世界は同じなのか」
 ということ)

というテーマは、
脳の研究が解明されるにしたがって
その可能性は低くなりつつある、と・・・


うーん、
しかしそれが本当なのだしたら

私たちはバラバラの世界をそれぞれ抱えて生きており、
あなたの世界を私は一生知ることもなく、
あなたも私の世界を決して垣間見ることがない、

ということになりはしませんか?
それにもかかわらず、
私たちはその世界を共有しているのかのごとく
笑いあったり喧嘩したり共に慰めあったりしている・・・

・・・ちょっと愕然とします。

私たちの世界とはそんなにも「孤独なもの」なのでしょうか?


ひょっとしたら
その孤独さに耐えかねるあまり
共通世界なるものを私たちは無意識に作り出しているのかもしれません。
自分が
暗い宇宙に一人隔絶された存在ではないことを
確信できるように・・・


ひとつひとつが遠く完全に切り離された私たちの世界。
それをつなげるのは
ただひとつ「互いに共感を求める心」それだけ。


・・・


こういう話って
ちょっと寂しく
それでいてなにやら心温まる話じゃありません?

私としては決して嫌いではないのですが、
みなさんはいかが思われるのでしょうか。


・・・やっぱり寂しいだけ?ですか、ね・・・

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2007/10/08

「悪魔」を解き放つ

夕べのテレビにて耳にした言葉。

「私たちは、
かつて地中奥深くに閉じ込められた「悪魔」」を
今またこの地上に解き放っているのだ・・・」

NHKのBSドキュメンタリー「石油 1億6千万年の旅」の中でナレーターが語っていた言葉だ。

ここで言う「悪魔」とは
地球温暖化を誘発する「二酸化炭素」。
そして
それを大量に産み出す石油こそ、
かつての温暖化されていた地球における夥しい数の生物が
その屍をもって「二酸化炭素」を閉じ込め
温暖化をくいとめるのに成功した結果生み出されたものなのだ、
と番組は言う。

さらに続けて

ああ、
それなのに
まるでパンドラの箱を開けるのように、
私たちは
自分たちの生活の利便性のために
石油を掘り当て燃やし、
かつての『悪魔』を空気中へ解き放っているのだ。
私たち自身がその悪魔に
その身を滅ぼされ、
私たち生物の大量の屍がまた悪魔の身を石油として
地中深く縛り付ける日が来るまで、
悪魔はこの空気中をさまよい続ける。
・・・確かに
こんなことは以前にもあったこと。
いつまでも続く
生物や火山などの地球エネルギーと二酸化炭素の
イタチごっこの一つに過ぎない・・・
だが問題なのは
そのイタチごっこのサイクルを
何千万年からわずか150年という短い期間へと
あまりにも速めてしまったのが
産業革命以後の私たち人間なのだ、ということ・・・

と、畳みかける。


・・・
この番組を見ながら
私は電気を消した。
必要最小限の中の明かりの中、
映し出される映像はそれでも見るに耐えがたいものだった。
そして、
番組の終了を待たずに
私はテレビのスイッチを切る・・・


最後まで観るべきだったのだろうか?
余分なエネルギー(=石油)を消費してでも?


この方向へ思考が進んでいくと、
最終的には「死」という言葉が浮かんで来る。
生きていること自体が
既に「環境破壊」である文明社会の人間にとって
結局エコを突き詰めることは
「自分の死」に繋がってしまうから。

・・・・


もちろん
その考え方は間違いであり
「できることからやればいい」
と誰かが私にささやいてくれる・・・が、


が、
しかし、

そういっている間にも
「悪魔」は着々と世に放たれ続けている。

そして
残念ながら
それは歴然とした事実、なのである。

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2007/10/01

世を動かすのには理性よりも感情?

本日10月1日郵政公社は完全に民営化され、
持株会社「日本郵政株式会社」と
4つの事業株式会社(郵便局・郵便事業・ゆうちょ銀行・かんぽ生保)が
誕生した。

そんな今朝私がラジオから耳にしたのは、
それに対するある識者のコラムで
「国民が圧倒的に支持した郵政民営化」による負の部分を強調する意見。

つまり、
都会ではさほどの変化もないであろうが
過疎地においては明らかに不便さが生じるであろうというもの。
具体的に言うならば、
いわゆる採算に合わない局の閉鎖であり、
今までの三事業が分割されるがための
「お年寄りなどの郵便局員への年金手続き等の依頼」が出来なくなること、
などである。

そう、
郵政の民営化というのは
正直な話過疎地においては甚だしくといっていいほど迷惑なことであり、
不利益をもたらす以外のものではないらしい。

しかし、
しかしである。

2005年のあの郵政民営化選挙においては
私の夫の実家のきわめて典型的な過疎の村でも
郵政民営化を嫌う声はあまり耳に響いてこなかった。
むしろそれを歓迎する声のほうが大きかったかのようなのである。
不思議なこと!
郵政民営化に賛成する国民の動機と言うのは
「政府信用を盾に郵貯や簡保で資金を集め、
官業肥大を招いた財政投融資への強い拒否反応」(10/1日経社説より)
と一般にはされているが、
こんな素朴なお年寄りたちが、
自分の生活を不便にするかもしれない危険を知りつつも
そんな小難しい拒否反応をもっていたとは、
とても思えないのに?

なぜ、
この人たちは郵政民営化に賛成し、
小泉自民党にこぞって投票したのだろう?
乱暴な言い方をさせてもらえば
なぜそこまで
郵便局を目の敵にしていたのだろうか?
自分たちの生活の一部を支える大切な機関でありながら?


理由は、
「妬み」なのではないか、と私は思うのだ。

農業が先細っていく現在、
過疎の村に住む人々とって現金収入というものを得るのは至難のわざといえよう。
多くの人々は、
とてもじゃないが仕事など選べる状況では無く
仕事にありつければめっけもの、
とりあえず収入を得られるならなんでもいい
という状態なのだ。

そんな中で例外なのが、
特定郵便局を持っている「家」。
古くからの裕福な家で
集落のとりまとめをしていたような
いわゆるその土地の名士が多いらしい。
そんな家が特定郵便局長という地位を世襲し
絶対的に安定した公務員としての仕事と収入を国からもらい
さらには局の土地の貸借料として少なからぬ金額まで受け取っている。
こりゃ、妬みをかわない訳がない。
「そんな特権をいつまでも許しておけるものか」
となるに決まっている。
もちろん
中には自分の得た収入を集落へと還元している
太っ腹の局長さんもいらっしゃるだろうが、
自家の利益のみに固執するような局長やその一家への不平不満は相当であろう。
この不満が少なからずの人が感じていたことは、
前回の選挙で自民が大勝したことでも明らかだ。


・・・


そして、
今日2007年10月1日郵便局は民営化された。
これから来るかもしれない不便な生活を
民営化賛成に入れた過疎の人々はどのように受け止めるのだろうか。

後悔か?
それとも合理化され平等化された状況への満足か?
または賛成したことも忘れて不満を募らせるのか?

もちろん、
ここで問題となっている不便さが
民営化を担う人々の工夫によりうまい具合に解消されれば、
何の問題も無いのだが・・・


それにしても
妬みという情念は
ものすごいエネルギーをもっているものだと
改めて思わざるを得ない。
世を動かすのは

理性より感情に働きかけるに限る、

のかもしれない。


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