多様化した個人要望に
社会はどこまで応えるべきなのか?
先日過去の記事を読んでいたら、
こんなものを見つけました。
あなたを好きで一緒になるけれど・・・
「理性による許容」とは
(ああ、前にこんなこと書いたっけな・・・)
この2つの記事にコメントを寄せてくださったのが「夫婦別姓を待つ身」さん。
理性的で真摯なその姿勢に私はとても好感を抱いたんですけど、
どういうわけだか申し訳ないことに頑固者の私は
未だにこの問題の法制化には賛同できない気持ちでいるのです。
(「待つ身」さん、どうもすみません・・・)
どうしてそうなってしまうのか、
私がそんなに許容範囲の狭い人間だってことなのでしょうか?
いや私だって
別によく言われるような反対派の方々のように
「別姓にした途端家族制度が崩壊する」とか
「別姓の家庭の子供が可哀想」だとかはさすがに思わないのです。
そういう問題は制度に連動したものではなく
個人個人の意識に関わるものだと認識しています。
それよりもむしろ気になるのは「選択制」ということ。
つまり
この国に別姓の夫婦と同姓の夫婦が混在することに
妙な違和感を感じてしまう・・・
極端な話、
別姓のほうでも良いと多くの方が判断されるのなら
中国、韓国などアジアには別姓が当然という国々もあることだし、
皆別姓ということで統一してもらうほうが
この混在状態よりいいのでは、と思うぐらいにです。
もちろん、
違和感なんて個人の感性を
反対理由にするなんてけしからんという声もありましょう。
が、
たかが違和感と言うなかれ、
そもそも別姓を求める理由も根底にあるのが
「姓を変えることへの違和感」が大きな部分を占めているのも事実です。
ただこの違和感対決は
精神的苦痛のを伴う別姓派の人のほうが確かに説得力があるり
違和感なんてものは慣れの問題なのだから
「受け入れてやれよ」って言う意見も確かに分からなくもない・・・
実際この問題について他のブログを除いてみると
いわゆる良心的だと評判の方たちは大抵
自分自身は別姓にしたいとは思わなくとも
「それを求める人たちの願いを叶えることには異存はない」
と同姓・別姓の選択制を容認していますね。
そして
「自分の(夫婦は同姓が一番という)価値観を押し付ける」選択制反対派を
排他的と非難していらっしゃる。
「どうして自分たちのように他者の価値観を受け入れるような
寛容な心を持ち合わせないのだろう」というふうに、です。
でも
反対派の理由って本当のところは
「家族制度を守るべき」という自分の価値観ではなくて、
私の違和感のように
「後を絶たずに生まれてくる多様化した個人要望に
どこまで社会は応えるべきなのかというの迷い」
にあるのではないでしょうか。
たとえば、
夫婦別姓を許したら次は同性結婚も許すべきだとはならないか、というふうに・・・
(ちなみに私は信仰上同性婚は基本的に認められない
という立場ですが、
真剣に互いを生涯のパートナーと考えている人たちには
法的にも生涯のパートナーと認められるべきだと考えています。)
結局はどこかで線を引かねばならないのだ。
だとしたら今引かれている線を消して引きなおすという判断は
簡単にはできないことである。
だから人々が長く慣れ親しんできた
その線はその線として残しておいて別の打開策を考えるほうが
より妥当なものなのでは?
そう考えるのも決して理不尽なものでもないとは思いませんか?
だから、
根本的解決(ここでは選択制を含めた別姓の法制化)よりも
新案による解決(例えば事実婚カップルにおける法的権利の拡大)
を目指すような方向に進むのが現実的な路線であると私は思うのです。
私のような変革に二の足を踏む人間にも
そのほうが受け入れやすいでしょうし・・・
・・・
ところで
この問題についていつも考えるのが
日本における呼称=姓という習慣の弊害です。
大体姓(last name)ってもの自体が
名(first name)とは違って個を表すものではなく
個の属する家のような共同体を表すものなわけですから、
姓を名乗っている限り人は何かに縛られているということなりませんか?
乱暴に言わせてもらえば
別姓か同姓かは、その縛っているものが
自分の「親の家」か「配偶者の家」かの違いだけしかありません。
そういう意味では日本のこの習慣が
このような多くの歪を生んでしまっているのかもしれませんね。
もっと名(first name)が呼称として一般的に使われるような世の中になれば、
同姓とか別姓とかは今よりも小さな問題になるんではないでしょうか、ね?
・・・いやいや、
それこそ非現実的な話、ですね。
何の解決にもならない駄文になってしまいました。
すみません。
以上、
ある夫婦別姓法制化に賛同できない人間の言い分(言い訳?)、でした。
・・・お目汚し失礼致しました。
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