世を動かすのには理性よりも感情?
本日10月1日郵政公社は完全に民営化され、
持株会社「日本郵政株式会社」と
4つの事業株式会社(郵便局・郵便事業・ゆうちょ銀行・かんぽ生保)が
誕生した。
そんな今朝私がラジオから耳にしたのは、
それに対するある識者のコラムで
「国民が圧倒的に支持した郵政民営化」による負の部分を強調する意見。
つまり、
都会ではさほどの変化もないであろうが
過疎地においては明らかに不便さが生じるであろうというもの。
具体的に言うならば、
いわゆる採算に合わない局の閉鎖であり、
今までの三事業が分割されるがための
「お年寄りなどの郵便局員への年金手続き等の依頼」が出来なくなること、
などである。
そう、
郵政の民営化というのは
正直な話過疎地においては甚だしくといっていいほど迷惑なことであり、
不利益をもたらす以外のものではないらしい。
しかし、
しかしである。
2005年のあの郵政民営化選挙においては
私の夫の実家のきわめて典型的な過疎の村でも
郵政民営化を嫌う声はあまり耳に響いてこなかった。
むしろそれを歓迎する声のほうが大きかったかのようなのである。
不思議なこと!
郵政民営化に賛成する国民の動機と言うのは
「政府信用を盾に郵貯や簡保で資金を集め、
官業肥大を招いた財政投融資への強い拒否反応」(10/1日経社説より)
と一般にはされているが、
こんな素朴なお年寄りたちが、
自分の生活を不便にするかもしれない危険を知りつつも
そんな小難しい拒否反応をもっていたとは、
とても思えないのに?
なぜ、
この人たちは郵政民営化に賛成し、
小泉自民党にこぞって投票したのだろう?
乱暴な言い方をさせてもらえば
なぜそこまで
郵便局を目の敵にしていたのだろうか?
自分たちの生活の一部を支える大切な機関でありながら?
理由は、
「妬み」なのではないか、と私は思うのだ。
農業が先細っていく現在、
過疎の村に住む人々とって現金収入というものを得るのは至難のわざといえよう。
多くの人々は、
とてもじゃないが仕事など選べる状況では無く
仕事にありつければめっけもの、
とりあえず収入を得られるならなんでもいい
という状態なのだ。
そんな中で例外なのが、
特定郵便局を持っている「家」。
古くからの裕福な家で
集落のとりまとめをしていたような
いわゆるその土地の名士が多いらしい。
そんな家が特定郵便局長という地位を世襲し
絶対的に安定した公務員としての仕事と収入を国からもらい
さらには局の土地の貸借料として少なからぬ金額まで受け取っている。
こりゃ、妬みをかわない訳がない。
「そんな特権をいつまでも許しておけるものか」
となるに決まっている。
もちろん
中には自分の得た収入を集落へと還元している
太っ腹の局長さんもいらっしゃるだろうが、
自家の利益のみに固執するような局長やその一家への不平不満は相当であろう。
この不満が少なからずの人が感じていたことは、
前回の選挙で自民が大勝したことでも明らかだ。
・・・
そして、
今日2007年10月1日郵便局は民営化された。
これから来るかもしれない不便な生活を
民営化賛成に入れた過疎の人々はどのように受け止めるのだろうか。
後悔か?
それとも合理化され平等化された状況への満足か?
または賛成したことも忘れて不満を募らせるのか?
もちろん、
ここで問題となっている不便さが
民営化を担う人々の工夫によりうまい具合に解消されれば、
何の問題も無いのだが・・・
それにしても
妬みという情念は
ものすごいエネルギーをもっているものだと
改めて思わざるを得ない。
世を動かすのは
理性より感情に働きかけるに限る、
のかもしれない。
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