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2007/11/28

誰にでもできる仕事

それは、
新幹線に乗ろうとしたときの思い出から始まった、
ある財界人の文章だった。

彼が目にしたのは
素早い手つきで車内を整える中年女性清掃員。
決まりきった手順で機械のように正確にてきぱきと仕事をこなしていくその姿に
彼は少し前に世にもてはやされたある「考え」を思い起こす。

それは、
「これからの生き残っていく仕事というのは
専門の能力を活かした『自分にしか出来ないもの』に限定され
徐々に誰にでも出来る単純作業というものは消滅か無価値化していくであろう」
という世の中の展開を予測した「考え方」。

しかし彼は、
鮮やかに作業する女性清掃員の姿を目の当たりにして、
「彼女の仕事ようなものが
 消滅もしくは無価値化される世の中になること」に
少なからぬ抵抗感を感じるのだった。

だって、
世の中の人間皆が皆、
ものすごいクリエイティブなビジネスを立ち上げられるわけでもないのだし、
スポーツや芸術の世界で目覚しい働きをするわけでもないのだから・・・

新幹線の室内を決められた時間できちんと清掃する―
確かにそんな仕事は誰にでもできる仕事で、
代わりはいくらでもいるようなものではある。
が、
だからといって
このような仕事が消滅したり無価値化する世の中は、
決して好ましいものではないだろう。


・・・

この文章を読んだ私も
この意見に深く頷いていた。

今現在、
仕事の価値というものは
代わりが利くか利かないかという点で定められていることが多い。
実際、
仕事に対する報酬というものは、
その観点で定められているのがほとんどだ。
しかし、
本当に意味での仕事の価値というものは
そういうものだけではないだろう。
古臭くて気恥ずかしい言い方になってしまうけど、

「世の役に立つ」

っていうことこそ
その仕事の真の価値なのである。


給料の高さや技能の高さなんてもの以外にも
人の仕事には
こんな当たり前の尺度があったなんて
なんだか
目からウロコが落ちるような感じがした。


実際、

誰にでも出来る仕事、
つまらない単調な仕事
きつい割には報酬も少ない仕事

だが、
そんな取るに足らない仕事でも
それをクサらず淡々とこなす姿は、
お世辞抜きに本当に美しいものだから・・・


つまり

「ジャガイモの皮むきも
 完璧にこなせば神の栄光を現すこととなる」
               (映画「炎のランナー」より)

ということなのだろう。


・・・そんなふうに、
皆さんも思いませんか?

目の前の仕事をただただひたすらに淡々とやっていく

そんな人に、私もなりたい・・・

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2007/11/22

鏡に映る化粧の私

・・・
客先へ外出する用もあるので
久しぶりに化粧をして出勤した。

今日の鏡に映る自分の顔は、化粧顔-


・・・

もういい年をした大人の女が、である。
勤め先であれ買い物であれ
とにかく外に出るのにすっぴんというのは
既にある意味マナーに外れているらしい。
つまり化粧をするというのは
顔を洗ったり髪をとかしたりするのと一緒で、
相手に不快感を与えないためにも不可欠なこと、だというのだ。

確かに街を歩く人たちに目をやると
ほとんどの女性は化粧をしている。
すっぴんの人を探すほうが難しいぐらい。
その上すっぴんの人というのは
大抵その他の身なりも構わないという風の人だったりする。


普段の私もああいうふうに見られているのかな・・・


でも、
ああごめんなさい。

それでも、私は化粧をするのが億劫な人間なのだ。
会社に行くのだって最近はすっぴんばかり。
(だって遅刻しちゃいそうなんだもん、それに自転車で7分の通勤だし・・・)
逆に今日のように
外出の予定があるなどの理由で化粧をして出勤すると
口紅のベタベタ感とか
顔に塗られたファンデーションが気になって仕方が無い。
トイレに席を立ったときの
鏡に映る自分の顔のテヤリにぎょっとしたりする。

そりゃ
私だって自分のことを
「すっぴんのほうがきれいだ」なんて
大誤解をしているわけじゃない。
鏡に映るすっぴんの自分の顔にだってぎょっとするのは一緒なのだ。
だが、
この「化粧」という私にとっては結構な
「時間とお金と努力」の結果返ってくるのが
すっぴん時と同程度の「ぎょっ」であり
べたべたの不快感なわけでは、
私にとって化粧があまり魅力あるものではなくなるのは
当然なのである。

人間にとっては
努力(ここでは化粧)しているのに
その効果(ここでは美)が虚しいものほど情けないものは無い。
だったら
努力ししない(ここではすっぴん)で
効果をあきらめているほうがよっぽどマシじゃないか!

そんなわけで
やっぱすっぴんでもいいや!って気分になるのは
もうすっかり女としては取り返しの付かないところまで
来ちゃっているってことなのかなぁ・・・


街行く化粧した女性たちの中にも
こりゃ勘違いしているよっていう
「おてもやん」や「魔女」もいるけど、
彼女らも家の鏡に向かっては「これでよし!」と思って出てきたはず。
どんな化粧にせよ、すっぴんよりはマシ
そう思った結果のメイクアップなのだ。


そう思い切れない私は、
「化粧嫌い」というよりも
やっぱり単に「化粧がヘタ」ってことなのだろう。
ヘタだから上手くならず
余計やらないからまたヘタになる
とまあ、こんな悪循環なわけだ。


というわけで今日の結論は、

結局は
「何事も修練は大切」ってことになるのか。

達成できっこないすっぴん美人を目指すなんてうそぶいてないで
地道な化粧術の習得に
もうちょっと
頑張ってみることにしてみます、か・・・

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2007/11/20

あの人は今・・・

・・・
あまり、
いい趣味とも言えないのだが、

私はたまに「あの人は今・・・」というのをやっている。

かつて
ブログにコメントくださった方々で、
もうとっくに交流も途絶えた人々のサイト訪問、だ。


いろんなところがある。

今もかわらずコツコツと更新し続けているとこ
マイペースでゆっくり更新をしているとこ、
それから
もうとうに更新をやめてるとこ、
きっぱりとサイトを閉鎖したとこ・・・


不思議なことに
よく知っていた人たちのものよりも
むしろ一見さんのように
通りすがりにコメントを残していってくれた人たちのものほうが、
その現況は興味深かったりする。
もちろん
その人自身もそのコメントのことなど
今は忘れているであろう・・・


・・・
こんにちは、
おひさしぶりです。
・・・
あなたは私を―私のサイトを―覚えておられますか?


ほんの一瞬袖が摺り合った、微かな縁。

それは、
本当にあるかどうかもわからないし
あったとしても
多分、
1度交わればもうに2度と巡り会うことはない
2本の直線のようなものにしか過ぎないのだろうけど、

でも
それを想像するだけでどういうわけだか

私の胸は、暖かい・・・


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2007/11/15

取り巻く人々

ぼんやりと
テレビでドラマなんぞを見ていて・・・

いわゆる
「人間の内面をリアルに描く」的な深刻なヤツじゃなくて
あくまで娯楽を主眼とした
多少ステレオタイプなキャラクター設定になっている
お気楽な感じのドラマなんですが、

なんていうか
そういうドラマに出てくる人たちの中に
以前からちょっと気になっていた人たちがいるのです。

それは
主人公なりそのライバルなりを
取り巻いている人たち・・・

・・・
確かに
ドラマほど如実じゃないにせよ、
ああいう人って現実の世界にもいますよね・・・
いわゆる、子分というか取り巻きって役どころの人。
あれは、
あの人たちは、
「本当にあの立場に喜んで着いているの?」
っていうのが私には長いことの疑問だったのです。


人間って
たとえ傍目にはどんなに冴えないひとにみられていても、
そのひとの人生にとってはやっぱり「主人公」なわけでしょ。
それなら
例えひとりぼっちのアウトサイダーになったとしても
誰かの取り巻きになって
おべんちゃらを言ったり
ヨイショなんぞをするなんて
なんだか信じられない気がするんですよね。
・・・
もちろん世の中には
ボスにならずにはいられないような高圧的な人もいるから
その手下になっていたほうが
災いから身が守れるという処世の術ってこともあるのでしょう。
でも、
そういう人ばかりが取り巻かれているわけじゃないでしょう。
本当の人気者の周りにも
そのひとを取り巻く人っていっぱいいる。
その優れた人、魅力的な人が大好きで尊敬しているからこそ
その人を取り巻いているってことなのしょうが、
そういう取り巻く心理を
自意識過剰の小心者のくせに妙な自信家の私には
なかなか理解ができないのです。

もしも私が
憧れて憧れて仕方ないような人に出会ったとしても
その人にとっての自分が対等の関係を、
五分五分の関係を築けないのだとしたら
いっそお近づきになどなりたくない。
それならば他人として遠巻きに見ているほうがずっといい・・・

そんなふうに考える私なのですから
どうも、
ああいう取り巻くひとびとがああやっているのは
その行動にそれなりのメリットを見出しているからではないのか、
という気になってしまったのですよね。
そして
己の自尊心をそこまで犠牲にしても
手に入れたいメリットっていったいどんなモンなのかと
どれほどすごいモンなのかと
興味がわいていたわけなのです。


でも、
最近になって気がついてきました。

どうも、
この「取り巻くひとびと」の多くは
多分自分たちが取り巻いているっていう意識がないのだな、

ということに・・・

つまり彼等は、
それぞれその核となる人物とは
五分五分の関係を築いているという
自信をもって付き合っているのだ、
ということです。
それを脇で眺めている部外者の私のような第三者が
「あーらま、あんな取り巻いちゃってさ!」って
勝手に情けなく思っているだけなのでしょう。
そう、
全くの余計なお世話、といったことですね。

実際のところ
その人たちを
その他大勢の取り巻きと見ている私のほうが正しいのか、
「あくまで対等な関係を築いている」と信じている
その当人たちのほうが正しいのか・・・

いや、
それはもう正しい正しくないと言う問題じゃないですね。
要はそれぞれの主観にしか過ぎないわけですし。


ところで
自分としては
群れるのが苦手なアウトサイダーを自認している私なのですが、
こんな自分だって
別の人から見れば
誰かの「取り巻き」のひとりもいいとこだ、
と思われているのかも・・・

・・・
結局のところ
自分の「外からの姿」なんて、

実は自分が
一番気が付いていないものなのかもしれません。

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2007/11/13

サンタのプレゼント

ふと目覚めると、
枕元においてあったのは小さなオモチャの飛行機。
隣の妹のほうを見るとそこにもオモチャの車がある。

・・・そうか、サンタが来たんだ!


40年ほど前のクリスマス。
ごく普通の庶民で
キリスト教などとは無縁の我が実家ではあったが、
こんな光景が映し出されていた。

オモチャなんて言ったって、
近くのパン屋で買ったお菓子のオマケのような
みみっちいものである。
兄には飛行機、
妹の私には―多分女の子っぽいオマケがなかったのだろう―
兄のついでのように車が置かれていたわけだが、
それにもかかわらず
私たち兄妹は、
「サンタが来た!サンタが来た!」と踊るようにして喜んでいたという。
後に母から聞いた話によると、だ。

私が心の底からサンタを信じていたのは
もはや記憶に留めてすらいない
このクリスマスまでだったのかもしれない・・・
(その後、
我が家にサンタが来る事はなくなった。
別に信仰もない両親にとっては、
苦労してまで子供たちにサンタの存在を信じ込ませる気など
さらさらなかったのだろう。
そしてクリスマス・プレゼントは
小学校入学と同時に
2学期の成績のご褒美となっていったのだ。)


・・・


わが子には、サンタの存在を信じ続けて欲しい

私がそう思い続けていた理由にひとつには、
自分すら忘れてしまった
この幼い日の姿を目の当たりにしたい
という気持ちがあったのだろう。
そうして喜んでいる子供を見て
自分もまた喜びに浸りたいという気持ちが・・・

だが、
残念ながら
その希望が叶えられたと感じるクリスマスの朝は
この10年、ついぞ来なかった気がするのだ。

苦労してそれらしく装ったサンタからの数々のプレゼントは、
子供が幼すぎたころは、
サンタというもの自体が理解されず、
それよりちょっと大きくなったころからは、
そりゃ喜ぶには喜んでいるが、
彼らの喜びは
サンタがうちに来たという喜びというよりは、
自分が希望したプレゼントがもらえたということのほうが
より大きなウェートを占めているのである。
そんな彼らに、
たとえサンタからという触れ込みであろうと
期待通りではないプレゼントなどを
どうしてあげられようか?
サンタの存在よりも
望みどおりの品が手に入るかを気にする彼らに・・・?
クリスマスが近づくこの季節になると
今年も
「今度は何をもらおうか」と皮算用し始める彼らに・・・?


もちろん、
それが現実というものなのかもしれない。

だいたい
母が語った
私たちの幼い日のクリスマスの想い出も、
過ぎ行く時間の中で美化された夢のようなものなのかもしれないのに・・・
自分の思い通りに行かないからと
子供を責めるのはお門違いなのだろう。


・・・・

だが、
それでも
今年もサンタのプレゼントを用意する私には
最早
プレゼントを手にする子を想像する「喜び」よりも
子供たちの飽くなき物欲
―ゲームだ、携帯だ、パソコンだ―という物欲を
制御する「努力」のほうが、重くって、辛くって・・・


こうして、
サンタは消えてゆくのかな・・・

なんて気持ちになっていくのを
抑えることができないでいる今日この頃。

寂しい秋、11月だ・・・


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2007/11/09

・・・「夏」も始まる?

前回の記事について・・・

昨夜UPしてからというもの
喉につかえた魚の小骨のように、


「春」や「秋」はともかく、
「夏」も「始まる」とは本当に言わないものなのか?


という疑いがちくちくと刺さる・・・
と、いうわけで昨日の記事を大幅に訂正。


「夏も始まる」モノですね、やっぱり・・・

勇み足もしくは強引なこじつけ、反省しきりです。

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2007/11/08

・・・冬が始まる

♪~ふゆがはじまるよ・・・

と、ラジオから流れる音楽にふと耳を傾ける。

今日は立冬。
そうか、
冬が始まる日だからか、
結構ベタな選曲をするのだな・・・

だがついつい口ずさみたくなる
小気味のいいリズム、
それに身を任せながらこんなことをつらつらと考えてみた。


そう、
冬は「始まる」ものなのだ。

それはあたかも
ヒタヒタと湧き出るかように「始まる」・・・


他の季節―特に春や秋は
「来る」ことはあっても「始まる」ことはない。
「春(あるいは秋)の始まり」という時期としての表現があっても、
「春(あるいは秋)が始まる」という季節の移り変わりをあらわすような表現はしない。
ただし、冬と同じく厳しさをともなう季節である夏なら、
「(厳しい暑さの)夏が始る」という言い方もするのだろう。
それでも、冬ほどはしっくり来ない気がするのは、私だけ?
何故そんな気になるのだろうか?
・・・
多分、
春や夏という季節は太陽と共に来るものだから?
太陽が私たちにとっては他者であるように
自分たちとは別の存在のように捉えがちなのかもしれない。

もちろん、冬だって「来る」という表現は使うだろう。
だが、
冬にしろ夏にしろこういう厳しい季節に
「始まる」という言葉を使うのは
ひょっとしたら、
「その厳しい状態」こそが
私たちの基本なのだからなのではないのか?
つまり
私たちの心では常に

春のうららかさの中でも
秋の艶やかな彩に包まれながらも

「厳しい季節・冬(あるいは夏)」に対する覚悟のようなものがあるからなのではないか?
その覚悟が
内在する要因が息を吹き返すかのような
「始まる」という言葉を使わせる。
今や
化石燃料により暖かく過ごせる冬は
きらびやかで快適な季節へと変わっているのに・・・


その「冬」が
今始まろうとしている。
温暖化で
かつての厳しさは
もはや過去のものになりつつある冬。

そのかつての冬に代わって、
今や警戒するべきなのは灼熱の夏となっている今、

「夏が始まる」

と、
頻繁に言われるようになるのも

それほど
先の話ではないのかもしれない・・・


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2007/11/05

20年目の母校

先週土曜のこと、
久しぶりに母校へ行ってみた。
卒業してかれこれ20年になるが、
訪ねるのは13年ぶりであったか・・・

最寄の地下鉄の駅を降りると
かつてはなかったマックなどがあり、驚かされる。
さえない街だと思っていたのがそこそこ便利になったのかもしれない。
通っていたころは近道に住宅街を歩いたものだったが、
この日は祭日ということもあってその道も歩くひとはまばら。
人気のない住宅街を歩くにつれ、
だんだんこの道でよかったのか不安になってくる。

それでも無事正門には到着する。
待ち合わせの時間の約5分前。
学生のころからの遅刻魔の私にしては上出来だった。
が、今日誘ってくれた友達はやはり既に来ている。
彼女とは約2年ぶりの再会だった。


実は
この日は同窓会を併催した学園祭であり、
今日はそれゆえの訪問だったのだ。
もちろん同窓会などといっても予想通り
誘ってくれた友人以外知った顔などひとつも見えない。
それでもちらっと覗き見た受付の名簿には
懐かしい名前が並んでおり、
もらった学校案内の冊子には見覚えある教授も載っている。
当時担任だった助教授のI先生、
英文献を読む訓練として特講をやってたF先生
ドイツ語の楽しさを教えてくれたN先生とか・・・
もちろん
私たちを指導されたゼミの教授はいない。
あの当時ですら70かそこらだったのだから
もうとっくに引退されたのだろう。

同窓会のパーティが始まる前に、もっと学内を歩いてもよかった。
だが、
如何せん学園祭中ということで
出店の客引きが鬱陶しく結局会場の学食へと直行する。
(学食はあまり変わっておらず
見覚えのある西洋人形の絵がかかっているのに気がついた。)
会場は思った以上の人人人・・・
ほんの少しの異業種交流を目的としている一部のおじさん達を除けば
皆景品抽選会と食事目当てであるのは明白で、
立食パーティは瞬く間に終わる。
パーティの内容ときたら
ほぼ半分は抽選会の番号発表というお粗末さだった。

・・・
その帰り道
友達と話すのは、
もっぱら学校の周囲が変わったことや昔の思い出。
「あなたはテープレコーダーのように覚えているよね」
と彼女は私を笑った。

駅のホームでその友人と別れ、
一人で電車を待っていると
「何年の卒業ですか?」と声をかける人がいた。
20年目ですと答える私に
その初老の女性は帰りの車内でいろいろと自分のことを語り始める。
子供が手を離れてから学校に入りなおしたことや、
ここを卒業した後放送大学で学んだことなど。
合づちをうち自分のことも少し話しながら、
彼女は、そして私は
この同窓会に何を求めて来たのだろうか
とふと考えた。

この会話は
思ったものが得られなかった欲求不満か?
それとも
楽しかった今日の余韻に浸っているのか?

乗り換え駅が来て
別れ際に彼女は言う。
「それでは、またお会いできたら・・・」
その返事に笑顔で応えて私は電車を降りる。
そして
ありきたりの自分の学生時代を思う。


それでも
あれも青春だった

そう思って
乗り換え線のホームへ・・・


風が、
もう冷たかった。


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2007/11/01

「個人の幸せ」「家族の幸せ」

当たり前のことなんだけど・・・

子供もそこそこ大きくなってくると、
親が一緒にいればそれだけハッピーってわけにはいかないから、

だから
だんだん、だんだんと
それぞれがそれぞれの道を歩む時間が長くなる・・・
ひとりの時間
ひとりの部屋
ひとりの楽しみ


そして
このことに誰もが気づく日がやってくるのだ。

「個人の幸せ」が「家族の幸せ」と必ずしも一致するわけではない


もちろんそれは明白な事実なのである。

家族というしがらみにより
皆、見たい番組や楽しいマンガをあきらめて
一緒に食卓に着いたり
ひとりで心ゆくまで友達とのメールに興じたいのに
「お風呂掃除してよ」なんて仕事をいいつかったりするわけなのだから・・・

そもそも
家族というものは
それぞれのちょっとずつの我慢や諦めがなければ
とても成り立つようなものじゃない。
それは、
子供にとってもだし当然親にとっても。


・・・


しかし、
そんな我慢や諦めをしなくても
皆がなんとなく生きていかれるような
そんな経済力が浸透し始めたあたりから、
どうもこの国の「家族」の形は変わり始めた。

ありていに言うと
家族というものが
常に崩壊の危機に晒されるようになったのである。


ここで
「昔はよかった」
なんて言って嘆いていたって仕方ない。
皆が飢えずに
そこそこではあるが
自分の楽しみを追求できる時代になったということは、
素直に喜ぶべきことなのだ。

ただ、
そのそこそこの自分の楽しみを
自分だけの楽しみにしてしまうと、
やはり家族は重荷であり障害物にしかならないし、
そうして掴んだ楽しみも
孤独で後ろめたさをも伴うつまらぬものに変えてしまう惧れすらある。

それよりも
ほんの少しの我慢や譲り合いにより
自分と共に楽しむ存在として家族を変えるほうが
よっぽど「幸せ」なのではないか?
こうして「個人の幸せ」も
「家族の幸せ」と折り合いをつけることが出来ないだろうか?


もちろん
ひとりひとりが幸せになってこその
人生ではあるけれど、
それでも
幸か不幸か人とは、
決して自分ひとりだけが幸せになっても
それを幸せとは感じないもののようだから・・・


個人主義、
人それぞれの幸せの追求、


それらは
近代社会になって私達が勝ち得た
大切な宝でもあるけれど、

人が本当に
幸せになるには
やっぱりそれでは足りないらしい・・・


それは、

もう既に皆が気がついていることですよ、ね・・・


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