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2008/01/29

黙って「見なきゃいい」のだろうか?

よく聞きます、
「・・・最近のテレビはくだらない番組が多すぎる」って言葉。

確かにそのとおりです。
たとえば
おバカっぷりをウリ物にしたクイズ番組とか、
人をバカにすることで笑いをとるお笑い番組とか、
マンネリ化した内輪ネタでバカ騒ぎをするバラエティーとか・・・

もっとも「最近の」ってのはどうなんでしょう。
考えてみると
「テレビ番組がくだらない」のは「最近」に限った話ではない。
最近だけじゃなくて
実はテレビってはるか昔から
ずっと「下らない」と言われ続けているもののようでもあります。
ショッキングな事件を更に大げさに脚色して
しつこく追い回すワイドショー、なんてのは随分前からありますし、
少なくとも私の子供のころから
既に食べ物を粗末にするとかイジメを助長するとか
批判を浴びている番組は常に存在している。
そしてまたそれが皮肉なことに大変な人気番組だったりするのですよね。

コレは裏返せば
「テレビというものはくだらない」ということの証明なのかもしれません。
つまり
結局大衆というものは
テレビには「くだらない」番組を求めているということなのです。
なんといっても
番組を成立させるのは視聴率(=より多くの人の嗜好)なのですから。

さて、
そんなふうにテレビはくだらないものだというのに、
どうして今更ながら
「くだらない!」と文句を言い出す輩が出てくるものなのでしょうか?
どうして彼等は
〈黙って〉
チャンネルを替えるなり、
テレビのスイッチを切るなり、
もしくはもっと極端にテレビを捨ててしまうなり
のことができないのでしょうか?


きっと

彼等は知っているのでしょうね。
少数派の自分たちが黙って見るのをやめたところで
何ら世の中は変わりはしないことを。
世の中というものは
常により多数派とともにある。
だから少数派には黙ってただ去るより他に道は残されていないのです。

でも
そんな静かな抵抗では
自分たちの意見が
        見識が
         愚かなる者達への怒りが
とうてい納まりそうもない。
だから彼等は噛み付くのです。
無駄と分かっていながらも
単なる狭量のヒステリーと陰で笑われながらも・・・
そうです、
これはただのヒステリーやストレスの発散と同じこと・・・


「そんなに嫌なら黙って見なきゃいい・・・」

・・・
これも番組評についてのコメント欄などで
よく目にする言葉ですが、
物凄く冷静で的確な指摘であります。
これを言われたらぐうの音もでないくらい
至極もっともなご意見でもあります。

そう、見なきゃいい。
それも黙って見なきゃ誰にも迷惑かかりません。


・・・

でも
あえて言わせてください。

狭量でも
ただのヒステリーでも
ただの悪意に満ちた感情的意見に過ぎないにしても、
少数派の
まさにそういう鼻持ちならぬ無粋な輩の一人である私は、
今、声を大にして言いたい・・・

本当に
最近のテレビはくだらない番組が多すぎ・・・
しかも、
その量は確実に増えている・・・

って・・・

(うーん、
 やはり「負け犬の遠吠え」っぽい感は
 否めませんですが。)

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2008/01/24

「ヒラリーの涙」と夫婦喧嘩

もういい加減古い話で恐縮なのだが、
ニューハンプシャー州のアメリカの大統領予備選にて
苦戦を強いられていたヒラリー・クリントン氏の涙が引き起こした
ある小さな事件について。

かつて「最も大統領にしたくない人は誰か」
というアンケートにダントツ首位となった
という彼女。
イメージとしては
「高飛車なリベラリスト」であり「強情なフェミニスト」であり
「鼻っ柱が強く嫌味な出来る女」である彼女を嫌う人は決して少なくない。
特に保守的な男性のウケは相当悪いようである。
そんな彼女のまさに「鬼の目に涙」は
人々にどのような反応を引き起こしたのだろうか。

たとえば
常日頃から「安直にリベラル=正義と信じている輩」を冷ややかに見ている
我が家の保守派である我が夫。
「決して嫌いなわけではない」と言い訳してはいるものの、
実はアンチ・ヒラリーの一派に属すると
私に見なされている人物である。
案の定彼はこの「涙を浮かべる」という1/8の記事に際し、
次のような意見をのたまわれたのだった。

夫:「ダメだな、始まったばかりの選挙戦にもう泣いているようじゃ」
私:「あー、それ?泣いちゃったって話でしょ?
  私は(ヒラリーさんも)可愛いトコあるんだなって
  かえって好感持っちゃったけどな・・・
  案外自分の好感度を上げる戦略なんじゃないの?
  自分も人間臭いところがあるっていうアピールっていうか・・・」
夫:「だって、日本人ならともかくアメリカ人がそんなことで
  好感もったりしないよ。
  こんな選挙戦中に泣いたところで
  弱さの証明にしかならないんだから
  はっきりいってマイナスにしかならないでしょ」
私:「(そりゃ極めて日本的な発想で悪うござんしたね、と
  ムッとしながら)
  へぇーそうですか。
  私は日本人にしかなったことがないからわからないけど、
  そうなんだ。
  じゃぁだめだね、ヒラリーさんは」

とまあ、私はこのようにブリブリ怒り出し、
このようにヒラリー・クリントンの涙は
極東のとある夫婦のささいな喧嘩という
「小さな事件」を引き起こしてしまったわけであった。
が、事態は私たちの予想とは違った方向へと進んでいく。

それこそ当初は
「泣くなんて弱さの表れ」とか、
「同情論をかうためのうそ泣きだ」
との否定的な意見もあったようだが、
蓋を開けてみれば
ヒラリー氏はニューハンプシャーでは劇的逆転勝利を収め、
続くネバダでも連勝とここのところ快調に飛ばしている。
ということは
彼女のあの涙は少なくともマイナス要因にはならなかったということか?
(とニヤリとする私)

夫:「意外と女性票が集まったみたいだね、
  ということは、涙も戦術だったってことかな」
私:「そうでしょうよ!(と得意げに)
  ま、アメリカ市民もその点じゃ
  日本人と大して変わらないってことなんじゃない?」

まったくそのようで、
日本人もアメリカ人もその点じゃあまり変わらないということのようである。
政策云々もさることながら人柄や好感度が大きくモノを言う。
まあ最後は好き嫌いの問題になるってことなのだ。

ちなみに私としては、
あの涙が心の底を垣間見せた本物であったとしても、
または選挙戦略として見せた偽りのものであったとしても、
彼女に対する反感は全く感じない。
本物であれば「そういう人間的一面もあるのだな」と好ましく思うし、
偽りのものであればその計算性をむしろ頼もしく思う。
(まあ、好き嫌いってのは理屈じゃないってことですな)

とはいえ、
選挙権のない外国人の私の好意を勝ち取ったなんて
ヒラリー氏にとっては何の意味も無いことだし、
どちらにせよ敵の多いヒラリー氏のこと、
これからも苦戦は続くであろう。

が、
今回の「涙騒動」は、

そんな敵の多いヒラリーを決して嫌いじゃない自分

を再発見するきっかけとなったようである。
(もちろん
だからと言って彼女を次期大統領にと
熱烈に支持しているわけでもないのだが)

そして、
夫のほうはというと、
自分の読みが外れヒラリー陣営には一本取られたような形にはなったが、
だからと言って彼女を見直すというわけでもなく、
やはりヒラリーという人物は好きになれないよう・・・


というわけで、

とりあえず
米大統領候補者の中にヒラリー・クリントン氏の名がある間しばらくは、
我が夫婦も
若干の緊張状態が続くようである。

だから
この問題にはあんまり入れ込まないよう、
ご用心、ご用心・・・

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2008/01/17

己の「品格」を語る者

どうやらここ数年、「品格」がブームのようだ。

一昨年の流行語大賞「品格」の元となった「国家の品格」を皮切りに、
去年のベストセラーは「女性の品格」。
いわゆる古きよきモラルが崩れてしまったこの数十年、
この国の人々は皆
「品格」や「品位」といったものに飢えているということの現われなのかもしれない。

だが、私は未だにこれらの作品を読んでいないし、
この先読もうとも思わない。
まあ、ただの怠け者だからということなのだろうが、
そのほかにも
「読んだところであまり身になる話ではなさそう」というのが
正直な印象だからである。

大体、「国家・・・」のほうは、
ちょうど「美しい日本」なんて言っていたお坊ちゃん政治家の方と時期を同じくして世に広まった感があったので、
やや薄気味悪い気がして嫌だったし、
「女性・・・」のほうは、
ニ匹目のドジョウを狙った企画であるのがミエミエのネーミングに
辟易とした記憶しかない。

とはいえ、
これだけ売れているのだから
全くの無意味な本ではないのだろうし、
「今の日本人の自信の無さや礼儀しらずぶりを嘆かわしい」
と思っている人にはまさに我が意を得たりといった内容なのだろうとは推察する。


しかし、である。
しかし、このタイトルにある「品格」って言葉に
どうも私はひっかかってしまうのだ。
だいたい「品格」それも「己の品格」ってもの自体が
自らがそんなふうに語るべきものなのだろうか?
と思えてならないのである。
私が思う「品格」というものは
あくまで外から眺めた第三者が
その「有無」や「良し悪し」もしくは「上下」を判断するものであり、
自らを顧みて「自分(もしくは自国)に品格が云々」などというべきものではないのだ。

そんなわけでぶっちゃけた話、
「○○の品格が」なんて言い出すような輩は
「自分に品格が無いこと」を白状してしまっているような気がしてならないわけだ。
そもそも
「品格」や「品位」なんて言葉は
どうも他を見下すようなニュアンスが含まれているようで
それでなくとも嫌らしく響くものなんだし・・・。
(ちなみに辞書で調べてみると「品」とは「人柄」のことであり、
そういう意味では「品がいい」というのは
「多くの人にとって好ましい人柄」なのであり
「生まれ育ちの貴賎」とは全くの別物だったはずである。
その「品」に「格」や「位」といった
序列や上下関係を持ってくるのは
私には
どうも本意を違えてしまっていることように思えるのだが・・・)


いずれにても
マナーや礼儀にしろ
他の人に「不快感を与えない」ということが
本来の目的であるのだから、
日本人がその観点から
「情緒と形」を大切にして
論理一本やりで相手を攻撃したり捲くし立てないことを美点として
誇ることは決して悪いことではあるまい。
昔の女性が持っていた奥ゆかしい配慮の数々に光を当て
賞賛したり奨励することだって、である。

だが、
それはあくまで自分の心の中でやっているか、
自分の身近な人へ伝承するぐらいなところで
留めておくべきなのではなかろうか。
それを材料に本に書いて
デカデカと宣伝しガッツリ稼いでしまっては
せっかくの「品格」も台無し・・・

皆さんは
そんなふうに思いませんか、ね・・・

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2008/01/15

クリスチャン嫌い

ご存知の方もいらっしゃることですが、
実は私はクリスチャンです。

どうもこの「クリスチャン」という呼び方は
どういうわけだが気恥ずかしくて馴染めないので普段は「キリスト教徒」とやや硬め(?)の言い方を好んではいるのですが、
とにかく世に言うクリスチャンの端くれであることは間違いありません。

でも、
何なんでしょう、
どういうわけだが
ネット上に数多あるクリスチャン諸兄諸姉のサイトやブログというものが苦手、
というか有体に言うとあまり好きではではない・・・

理由は、

独善的だとか、
偉そうとか、
良い人ぶっているとか・・・

まあ、非クリスチャンの方のキリスト教嫌いの理由の大方が当てはまるという感じですね。
(そのくせ、そういうふうにキリスト教を攻撃する無神論者の方の主張に接すると無性に腹立たしく感じたりする矛盾だらけの人間なのですが・・・)

さて先日
あるクリスチャンの方のサイトに、
「クリスチャンは良い人ぶっているから嫌いだよ」
という意見への文章が綴られているのを拝見しました。
そこには
「いや、クリスチャンは良い人などではないのです。
クリスチャンはむしろ皆罪びとです。
自分が罪を犯しているということを自覚した人たちなのですよ。
その罪を主によって救われることを望むのが
クリスチャンというものなのです。」
というふうに説かれていたのです。

この意見を読んで思ったのですが、
これを聞いて
「ああ、そうか。
クリスチャンって良い人ぶっているわけではないんだな」
と納得するクリスチャン嫌いの人って
多分あまりいないんじゃないでしょうか。
つまり、
「自分は罪びとであること自覚している」ということ自体、
ある人たちにとってはとても鼻持ちならないほど
傲慢で偽善的に見えるものなんですよね・・・
そして、
その見え方って決して僻みとか悪意だけによるものではなく、
少なからぬ真実を含んでいるような気がして
私にはならないのです。

これは、
どの宗教にいえることなのかもしれませんが、
信者という者は
敬虔になればなるほど
そうではない他の人に対してのある種の優越感もようなものを
押さえきれずにいるものだから。
「自分は他の人より絶対者の真意を理解しようと努力している」
という自負心を抱きたがる・・・
真面目で勤勉であればあるほど、
そういう傲慢の罠には嵌りやすいものなのでしょう。
そしてこの傲慢というものほど、
人間にとって克服するのに難しい罪は無いと思われます。

どんな立派でかつ謙虚な人だって
自分の努力・自分の奉仕・そうして培った自分の知識を愛しく思うものです。
そして
そういう行動や知識や鍛錬をもって
絶対者に近づこうと努力すればするほど、
その努力を忘れることなんてできない・・・

でもそれじゃダメなんですよね。
全然神を知らずに俗世界にどっぷりつかっているような人と比べてみても、
たとえ神の真意を知ろうと日々精進し続ける人であっても
ホンの一瞬でも
「ああいう人たちと違いこんなにも努力した自分を神は認めてくださるはず」とか
「神を知っている自分はそれを知らない彼らとは違うのだ」と
思ってしまうのなら
その人は
もう先に挙げた俗人以下の存在に陥ってしまうわけで・・・。

・・・

この最後の
傲慢の罪というハードルは
本当に超え難いものだから・・・

大抵のクリスチャンは
このハードルに引っかかってしまうと思います。
もちろん私も。
(もっとも私の場合は、
それ以前の数々のハードルに引っかかってしまい
そこまで到達できないと思われますが)


・・・


ああ、
クリスチャンのブログは苦手と言いながら、
今日の記事は思いっきり
クリスチャンのブログっぽい内容でしたね・・・


だから嫌なんだよな、クリスチャンって。

と思われた方、
今日は甚だしくお説教めいた内容で
大変失礼致しました・・・

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2008/01/11

スピリチュアル・アレルギー

・・・スピリチュアル。
ここ数年良く聴く言葉である。

スピリチュアル
1.[名]米国で、民衆の中から生まれた宗教的性格をもった歌。
    ニグロスピリチュアル(黒人霊歌)・
    ホワイトスピリチュアル(白人霊歌)・
    ゴスペルソング(福音賛美歌)など。
2.[形動]精神的な。また、霊的な。「―な世界」
                    (以上「大辞泉」より)

今世間でブームとされているスピリチュアルという言葉の意味は、
もちろん2の意味、
その中でも「霊的な」というあたりが
最も適当なニュアンスを表しているように私には思われるのだが、
いかがだろうか?

霊的なもの・・・
祖先の霊、祖先から受け継いだ因縁、
自分の守護霊、前世の姿などなど・・・・

実は、
こういう霊的な話が私は大の苦手である。
たとえその内容がどんなに深く真理に満ちたものであっても
「霊が・・・」とか
「前世が・・・」とか、
「因縁が・・・」なんて単語が続いて出てくると、
あーあ、その話ね・・・!
と思い、それと同時にどうしようもない拒否反応が出てきてしまう。

私は別に唯物論者だってわけでもないし、
目に見えるものだけを信じているつもりもさらさらない。
科学だけが世の中の全てを解き明かすものだなんてことだって、
思ってもいないつもりである。
だから
遠い昔のご先祖様というとピンと来ないけど
まあ身近なところで
もう亡くなってしまったおじいちゃんとかおばあちゃんが
どこかで私の行く末を案じて見守ってくれているっていうのも
心情的には理解できる。
まあそういったおじいちゃんおばあちゃんのつながりで
守護霊ってものも
―お目にかかったことこそないが―
常に私の肩か背中にいて
いろいろ心砕く日々を送っていてくれているのも
絶対にあり得ない話でもないのかもしれない、とも思う。

でもなぁ・・・
だからって
それを盾にとって、
生活態度を改めろだの、
もっと謙虚になれだの、
挙句の果てには
悪い運を払うためには黄色いものを身に着けたほうがいいだの何だの、
そういう話になってしまうと

???

となってしまうのである。

規則正しい生活を送ったり、
対人関係にもっと気を配ったり
傲慢にならないように気をつけたり・・・
そういうことって
「霊界が云々」だなんて話を持ち出して来なくったって
真摯で誠実なアドバイスであれば
すぅっと心に沁みてくるんじゃないのか。
悪い運気を振り払うのだって、
「黄色い何か」を身につければ出来ることなのではなく、
そういう運気に支配され尽くされている自分の弱気を
思い切って振り捨てる自分の意思あってこそ出来ることではないのか?


とまあ、
私がこんなとこで
そういうふうに息巻いていようと、
そんなことにはお構いなしに
スピリチュアルな世界を信望し、
縁起を担いだり
霊能者のアドバイスに耳を傾け続ける人は
この世界にはきっとたくさんいらっしゃるのだろうから
まあ虚しい主張であることには違いはないのだが・・・

それにしても、
私がこんな風に「スピリチュアル・アレルギー」なのは
自分自身に霊能力がなく
そういう不可思議な存在を見たことや感じたことがないから、
なのだろうか?
つまり、
そういう力を持たないやっかみから
そういう神秘の力を実感できたり信じることが出来る人々を
冷めた目で見下したような態度をとってしまっているのだろうか?


そうなのかもしれない。
昔から食べられない葡萄は酸っぱいに決まっているものなのだし・・・


でも、
そうなのだとしても
私はそんな自分に後悔はない。
たとえ
この先何かものすごい霊的体験をしたとしても
きっとそれに気が付くこともなく
ただただいつもと同じ毎日を送るでことであろう。
また気付いたとしても
それは単なる気のせいとして
これまでとは変わりのない心持で
その先も生きていくはずだ、と確信している。

もしも
この世に霊界を身近に感じて生きる人と、
それを全く感じずにその生を終える人と2種類がいるのだとしたら、
私は間違いなく後者のほうであるだろうから・・・


まあ、
どっちのタイプの人間であろうと、
要は
おのおのが幸せな人生を送ること、
それが縁ある霊界の方々にとっても共通の望みなのだろうから、


というわけで、
私を守ってくださる、
または「最近調子に乗ってるからちょっとお仕置きしてやろう」と考えている霊界の皆さん、
どうも手応えのない人間ですみません・・・

でも、
私なりに一生懸命生きてはいきますから・・・

どうか
それだけは誓いますので、
その辺で勘弁しておいてください・・・

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2008/01/09

子育てを綴る文章

購読している新聞の夕刊に
週一で「こどもと育つ」という文章が載っている。

まあ、いわゆる著名人の子育てエッセイのコーナーなわけだか、
これに面白い文章を載せられる人というのは
なかなかいないもんなのだなぁと
最近つくづく思っている。

大抵は独創的で信念に貫かれた自身の子育てを
得意満面に披露しているといったふうで、
「オレ(ワタシ)はこんなふうに子供と関わっているんだよね、
これはなかなかできることじゃないけど」てな感じか。

だが、
そんなものを読まされたところで
こちらとしては「はぁ・・・」とでもしか言いようがない。
そんな自慢は
身内や極親しい友人たち相手に留めといてほしいのが
正直なトコだったりするのだ。

そういう自信たっぷりの文章よりも
むしろ
迷いに迷ったその苦悩や試行錯誤の過程を
包み隠さず書いてくれるような人の文章や、
ただただ日々の子供との関わりを
余計な御託なく綴っている人の文章のほうが、
まだいい。
読後にすっきりとした爽快感を感じられる。

だいたい
子育てなんてものは
そもそも正解がないものだし、
その家その家の環境や子供の性格、
親の仕事の状況など
そういう要因によって実に千差万別なものなのだから・・・
だから
誰かの教育方針を真似するなんて愚の骨頂なわけなのに、
それなのに
どうしてこの手の著名人の子育てエッセイが
世に満ち溢れているのか?
それは、かねてからの私には疑問なのだが、
ホントどうしてなんだろう。
本当のところ
こんな自慢話や自己満足の文章を
私以外の多くの人は喜んで読んでいるってことなのか?


というわけで、
大抵私は狭い狭い心で内心「ケッ」と思いながら
このコーナーをナナメ読みをするわけなのですが
極まれに面白い文章を書く人に出会ったりすると
これはかなりの衝撃だったりするのである。

自分の子育てなんて
どうしようもなくつまらないものになりがちなテーマで
これだけ人を楽しませることができるなんて、
この人はタダモンじゃないな、と・・・

実は
ブーたれながらも
このコーナーを無視しきれず読まずにはいられない
私の本当の理由は

そんな秀逸なエッセイに出会えるという
1年にせいぜい1度か2度の機会を待っているから、

ということなのかもしれません・・・

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