クリスチャン嫌い
ご存知の方もいらっしゃることですが、
実は私はクリスチャンです。
どうもこの「クリスチャン」という呼び方は
どういうわけだが気恥ずかしくて馴染めないので普段は「キリスト教徒」とやや硬め(?)の言い方を好んではいるのですが、
とにかく世に言うクリスチャンの端くれであることは間違いありません。
でも、
何なんでしょう、
どういうわけだが
ネット上に数多あるクリスチャン諸兄諸姉のサイトやブログというものが苦手、
というか有体に言うとあまり好きではではない・・・
理由は、
独善的だとか、
偉そうとか、
良い人ぶっているとか・・・
まあ、非クリスチャンの方のキリスト教嫌いの理由の大方が当てはまるという感じですね。
(そのくせ、そういうふうにキリスト教を攻撃する無神論者の方の主張に接すると無性に腹立たしく感じたりする矛盾だらけの人間なのですが・・・)
さて先日
あるクリスチャンの方のサイトに、
「クリスチャンは良い人ぶっているから嫌いだよ」
という意見への文章が綴られているのを拝見しました。
そこには
「いや、クリスチャンは良い人などではないのです。
クリスチャンはむしろ皆罪びとです。
自分が罪を犯しているということを自覚した人たちなのですよ。
その罪を主によって救われることを望むのが
クリスチャンというものなのです。」
というふうに説かれていたのです。
この意見を読んで思ったのですが、
これを聞いて
「ああ、そうか。
クリスチャンって良い人ぶっているわけではないんだな」
と納得するクリスチャン嫌いの人って
多分あまりいないんじゃないでしょうか。
つまり、
「自分は罪びとであること自覚している」ということ自体、
ある人たちにとってはとても鼻持ちならないほど
傲慢で偽善的に見えるものなんですよね・・・
そして、
その見え方って決して僻みとか悪意だけによるものではなく、
少なからぬ真実を含んでいるような気がして
私にはならないのです。
これは、
どの宗教にいえることなのかもしれませんが、
信者という者は
敬虔になればなるほど
そうではない他の人に対してのある種の優越感もようなものを
押さえきれずにいるものだから。
「自分は他の人より絶対者の真意を理解しようと努力している」
という自負心を抱きたがる・・・
真面目で勤勉であればあるほど、
そういう傲慢の罠には嵌りやすいものなのでしょう。
そしてこの傲慢というものほど、
人間にとって克服するのに難しい罪は無いと思われます。
どんな立派でかつ謙虚な人だって
自分の努力・自分の奉仕・そうして培った自分の知識を愛しく思うものです。
そして
そういう行動や知識や鍛錬をもって
絶対者に近づこうと努力すればするほど、
その努力を忘れることなんてできない・・・
でもそれじゃダメなんですよね。
全然神を知らずに俗世界にどっぷりつかっているような人と比べてみても、
たとえ神の真意を知ろうと日々精進し続ける人であっても
ホンの一瞬でも
「ああいう人たちと違いこんなにも努力した自分を神は認めてくださるはず」とか
「神を知っている自分はそれを知らない彼らとは違うのだ」と
思ってしまうのなら
その人は
もう先に挙げた俗人以下の存在に陥ってしまうわけで・・・。
・・・
この最後の
傲慢の罪というハードルは
本当に超え難いものだから・・・
大抵のクリスチャンは
このハードルに引っかかってしまうと思います。
もちろん私も。
(もっとも私の場合は、
それ以前の数々のハードルに引っかかってしまい
そこまで到達できないと思われますが)
・・・
ああ、
クリスチャンのブログは苦手と言いながら、
今日の記事は思いっきり
クリスチャンのブログっぽい内容でしたね・・・
だから嫌なんだよな、クリスチャンって。
と思われた方、
今日は甚だしくお説教めいた内容で
大変失礼致しました・・・
| 固定リンク