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2008/02/29

石破防衛相のしゃべり方に思うこと

このところの
イージス艦と漁船の衝突事故の報道。

それにより連日のように
TV画面に出てくる石破防衛相なのだが、
彼の特徴のあるしゃべり方が
だんだん気になるようになってきました。


丁寧にゆっくりと
一言一言を噛み締めるように話すその態度。
それは素直に受け取れば
「聞き手に向かって
 自分の主張を十二分に理解してもらおう」
という決意のもと
編み出されたものなのだ、
と解釈すべきところなのでしょう。

しかし、
この噛んで含めるかのような
ゆっくりとした丁寧な物言いが
一部の人たちにはかなり不評のようなのです。
「人を小ばかにした感じで気分が悪い」とか、
「上からの目線でモノを言っているのがミエミエ」とか
まあ要は、
「お前らにも分かるように話してやってんだぞ!
 よく聞いていろよ、バカどもが!」
的な空気がプンプン漂っているのが
嫌でならないということのよう・・・

実は
かくいう私もあまり彼の話し方を好きではないほう、なのです。

「丁寧さ」も度を過ぎると
慇懃無礼と受け取られかねない、
石破大臣だって
それを知っていないわけ無いのに
あんなふうに喋るなんてよっぽど自分に自信があるのだろうな、と
その自信満々の態度には
正直イライラさせられている・・・

もちろん
政治とは自分に自信のある有能な方に
やっていただきたいものだから、
だから
何言ってんだか分かんないとか
口を開けば失言ばかりなんて先生方よりは
よっぽどいいことなんでしょうが。

でも、
あんまり奢ったような物言いが続くと
せっかくの論理的な弁にも
「聞く耳もたずの国民」が増えちゃうことになりそうですよ・・・

だって、
実際大方の国民って
確かに愚かなもんだろうけど、
だからって
それをあからさまに指摘されるのは
そりゃ我慢ならないもの
(愚か者ほど妙にそんなことに敏感だったりするものです)。

まあ、
冷静で賢明な国民の皆さんはそんなことないんでしょうが、
意外と
この国には
そのレベルまで行き着いていないひとが多いみたいですから・・・

もちろん
悲しいことに
私も

「そのレベルに行き着いてないうちの一人」、

ということなんですけど、ね。

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2008/02/23

「ジュリア」と「戦う女」たち

先日、衛星映画劇場で
77年のアカデミー受賞作品である「ジュリア」という映画を見た。


前に見たのはまだほんの若い時だったか・・・

今の私が思うのは
前回の手放しの感動というよりはむしろ

つくづく
この映画うまいなぁ・・・!

という感嘆である。
この「うまい」というのは
一歩間違えば「あざとい」にもなりかねない
「お見事!」感のあるヤツだ。

アメリカの何不自由なく育てられた
大ブルジョアの令嬢ジュリア。
彼女は自らの信念ゆえに
貧しく虐げられたものの味方となり
ヨーロッパの反ファシズム運動にその身を投じていくのだが、
その彼女の生き様は、
直接ではなく、
彼女の幼馴染である女性作家リリアンの
「彼女に対する強い憧れ」を通して描かれている。
この点がこの映画の大いなる特徴なのだ。

具体的に言えば、
ココで描かれるのは、
地下活動に入っていくジュリアの身を案じるリリアンの様子や
その心配の中彼女が回想する
かつてのいきいきとしたジュリアばかり。
実際のジュリアがどんな活動をしどんな危険と背中合わせにいたのかは、
ほとんど私たち観客はわからないまま物語は進んでいく。
この勿体つけた描かれ方が、
「ジュリア」というタイトルロールの女性の理想性を大いに掻き立てるのだ。
主人公リリアンとともに私たち観客もまた「ジュリア」の精神的虜となっていく・・・
(そして背景には
美しく豪奢な1900年代初頭の貴族的生活や
30年代の煌びやかな文化人の風俗、が流れる。
ちゃんと観るものの目を楽しませるところまでの気配り、
そのあたりもまた
ただの地味な社会派とは一味も二味も違い心憎い。)


多分、
この作品は
ある種の女性達にとっては
絶大なる支持をせずにはいられない映画にちがいない。
観客たち、
特に女性の観客たちは
これに「素晴らしい友情の物語」を見出し
リリアンの友情ゆえの命をかけた素人ミッションにハラハラし
その甲斐も無く散っていった
「ジュリアその人の悲劇」に涙を流すのだろう。

これはまさに、
文化的で知的で社会的であると自負する
「戦う女たち」にはうってつけの映画なのだ。
彼女たちの自尊心をくすぐるような上質の作品。
しかも
この甘い甘い語り口が厳しい現実―

心から尊敬し心酔する友の不在
やりがいのある社会的任務の遂行の難しさ
苦悩の中からも自分の才能を開花させる根気強さの欠落

という現実―を生きている戦う女たちにはたまらない。


今回も、

主人公リリアンの
尋常ではないジュリアへの憧れと美化に
フィクションの匂いを感じながらも・・・

この映画を好きにならずにはいられないのは、
この私が
そんな「戦う女」の端くれだったことの
名残なのかも。


・・・


でも本当のところ
女の友情って
そんなに理想的な相手には
なかなか向けにくいよね・・・・
実際、このジュリアも実在の人物ではなく
作者のリリアン・ヘルマンの創り上げた理想の女性像だという
説もあるようだし・・・

なんて冷めた目を向けながらも、
やっぱり私は

この映画が好きにならずにはいられないようである。


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2008/02/19

ゲーム禁止の効能と限界に思う

子供の教育方針って
いろいろその家庭によってあるものなのだろうが・・・

よく言われるのが
添加物の入ったお菓子を食べさせない、とか
ゲーム・テレビは禁止とか
そういうことの出来る家庭というものに
一種の憧れのような気持ちを抱いている。


今のこの享楽に満ちた日本で、
数々の誘惑から己が子を守り導いていくその努力。
市販のお菓子・ジュースOK
ゲームもテレビも時間制限はあるものの
基本的には好きなものを観ていいという
テキトーな我が家からすると
その確固たる信念を貫いている親御さんの強さには
驚愕の念すら覚えるのだ。


だが、
かつて知り合いのご家庭がそれを実践していたところ
そこのお子さんについて
次のような「顔」も持っている
ということを別のお母さんから耳にしたことがあった。

「うちじゃ禁止されていんだけど
 よそのうちではお菓子をがっついて食べ
 ゲームのコントローラも掴んだら離さない勢いで
 夢中になってやっているんだよねぇ・・・」


・・・


いかにも「その子の将来が心配」
と言いたげの面持ちで語られた話なのだが、
ソレを語るそのお母さんも
ソレに耳を傾けている私も
なんだか少しばかり卑しい人物になったような・・・

正直な話
確かに
そういうご立派な教育方針に基づき
非の打ちどころのない子供が育つ、
というのは第三者にとってあまり興味のある話ではない。

それよりも
「まぁー無理しちゃうからそうなっちゃうのよ、
やっぱ自然に任せて
適度に注意していくぐらいのことで
子供に接していくのが一番なのよね・・・」
と、
テキトーな我が家の教育方針―つまり怠惰を
肯定してくれるような話を
心の奥底では望んでいるものなのかもしれない。


そういう確固たる信念の家庭に
憧れを抱いていると同時に
結局
「そんなのは絵空事でしょ」という嘲りの心も
持ち合わせていたのか・・・


そんな浅ましさが
うっかり出ちゃったって感じ・・・


ホント

人は人、うちはうち

と、
心の底から割り切れる強さこそが
今の私には
一番必要なのだよね・・・


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2008/02/15

「人の握ったおにぎり食べられますか?」

夕べ何の気なしに覗いていたページ・・・・
こんなものを見つけました。

人の握ったおにぎり食べられますか?


あー、びっくりした・・・
自分の身内以外の人が握ったおにぎりを食べられないって人
いるんですね?
しかも意外と多い・・・?

どうやら
「人の握ったおにぎりがダメ」な大方の理由というのは
それを作った人が清潔か否かの見極めができないってことらしい・・・
どんな風に作られたのかもわからないようなものを
口にすることは出来ないっていうことのようなのです。

でも
拒絶された側としては少なからずショックですよね。
いわば
「あなたが綺麗か汚いかは正直わからないし・・・
ダメだわ・・・」
って宣告されちゃったようなものですから。

まあ、
「(出されたのを食べられないのは)悪いとは思うが
幼児期のトラウマで生理的にどうしても・・・」
っていうのを「ワガママ」だの「ビョウキ」だのと
ガンガン責めたてるのもどうかとは思います。
でも、それをおおっぴらに公言され、
「誰にだって苦手なもんってあるでしょ!
大体に素手で握ったおにぎりってホント汚いんだよ!」
って開き直られると
「食べられる派」=私としては
「ちょっとぉ、もう少し言い方あるでしょ」
と噛み付きたい気持も湧いてくる(苦笑い)。


だいたい
いつからこの国ってそんなに潔癖な人が増えちゃったんでしょうか。
そういえば
十数年前に東南アジアのどこかで
コレラが発生したと大騒ぎになったのを思い出しました
あのとき感染したといって騒いでいたのは
日本人だけだったような・・・
これは私の記憶違いでしたっけ?


それにしても
ひっかかるのは
「家族=母親のはいいけど他人のはダメ」っていう線の引き方。
ダメならいっそ
「誰の握ったものでもダメ」っていうほうがまだいいような気がします。

だってそれって
家族のものはその衛生観念が信頼できて
知り合って日の浅い友人や不特定多数の他人のソレは基本的に信じられないってことですよね。
それってちょっと寂しい気がしませんか。
まあ
本当にダメっていうことは
そんな理屈じゃ割り切れないものなんでしょうけど
それにしても
堂々と公言していいような種類の発言ではないことは確かでしょう・・・

とまあ、
ひどくとりとめのない散漫な文章になってしまいましたが、
この記事の最後は
この掲示板の最後の書き込みを全文引用させていただいて
終わりと言うことにしたいと思います。


私としては
もっとも納得できる意見だったので・・・

皆さんはいかが感じられるのでしょうか?
(よかったら最後のnifty投票にもご参加くださるとありがたいです・・・)

(以下引用文)

ここのトピの皆さん、お侍さんが出てくる時代の映画とか見たらどうでしょう?
ありがちなパターンですが…お腹が空いて行き倒れそうになってるところに差し出された真っ白なおにぎりに
「かたじけない」
ってむしゃぶりつく姿を見たら食べたくなるような気がしませんかね?
おにぎりの具も海苔もラップも米さえも満足に無かった時代…握ったのは通りがかった知らない人。だけど私が観た映画の中のおにぎりはとても美味しそうに見えました。

なんだか今の時代のおにぎりって生きるために食べるものって感じじゃないですよね。医学が進歩して細菌や栄養の知識が一般市民にも刷り込まれるから「食べて生きる」ということがなんか解りにくいというか…何を食べても本能的に美味しいって感じられないような気がします…知識があってそういう自由な選択が出来る事は仕方のないことかもしれませんが。


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2008/02/14

ベアトリーチェへの妬み

実は今、
密かに楽しんで購読している新聞小説がある。

それは、篠田節子氏の「薄暮」。

「地方の物故画家をめぐり、
 雑誌編集者や画家の妻、地元のサポーターなどが
 繰り広げる 悲喜劇を描いた小説―(NIKKEI-NETより)」なのだが、
これが面白い。
会社から帰宅すると
まず目を通すのが日課になり、
掲載されている夕刊のない日曜祭日が疎ましく思えるほどだ。


何故
こんなにもこの小説に惹かれるのだろう。

登場してくるのは、
並々ならぬ才能に恵まれながら中央に出ることもなく
田舎でひっそりと亡くなった知的な画家と、
その画家に献身的に尽くす教養溢れる美しい妻。
高度経済成長の中置いていかれような寂れた田舎町において
ひときわ目立つ美しく上品なその夫婦に対し
ひたすら心酔しその生活をささえるサポーターとなった地元の商店主や工場主たち。
また、
その画家の絵の才に惹かれてその地に住み着くことになったという
とっつきは悪いが目は確かな無名の美術評論家。
そして
それのその画家の才能と彼らの結びつきの強さに惹かれながらも
どこか懐疑的な視線を持つ、主人公たる元美術専門誌編集者などなど。

それらの登場人物たちがさしたる劇的展開もなく、
画集の発行という作業に向かう様子
それが「ただ淡々と描かれている小説」である。
こういっては何だが、
ハラハラワクワクという要素が今のところはあまり感じられない。
そのような作品であるのにもかかわらずに
その成り行きからは目が離せない私。
いったい何故・・・?


ずっとその理由が
分からなかったのだが、
やはり上記のネット上に載っていた作者篠田氏の次の言葉を読んだときは、
はっとさせられたのである。(以下抜粋)

「なぜこうまで勝手なふるまいができるのか、と
芸術家、作家の私生活を目の当たりにして首を傾げたことがある。
「決して、良い夫ではありませんでした」
という妻の言葉を通夜の席で耳にしたこともある。
良き師、良き友人であることは可能でも、
良き家庭人であることは難しい。
創作活動というのは、どこかで家族関係を拒むものではある。
芯の部分で、徹底して孤独な作業であるからだが、
我が家に芸術家を飼った家族の心情はいかなるものなのか。
画家の死後、
著作権という最強のカードを握った妻の行動を通してそのあたりを描き出したい」


そう、
ホンの少しでも芸術というものを意識したことのあるものなら、
芸術がいかに魂を削る業であるかを感じたこともあるだろう。
芸術とは
決して小市民的な小さな幸せ
―安らかな家庭や夫婦愛―を許したりしないのである。

かの小説の画家も
美しい妻を献身的に尽くされ、
数々の地方の素朴なる善男善女のサポーターに支えられながらも
決して満たされることはなかったはず。
そして
そのことが妻を始めとする彼を取り巻く人々に
暗い影を落としていたに違いない。
一見和気藹々と愛情深く画家の思い出を語る
周囲の者(とりわけその妻)の中の心の奥底に存在する闇。
それがこれから徐々に明らかにされていく。
きっとそうに違いない・・・

そんなある意味、
皮肉で浅ましい喜びをもって
私はこの物語に惹きつけられていたのだった。


・・・

たとえば
自ら芸術を志すも挫折した者、
また、
志すほどではないとしても
少しでも芸術のそばにその身を置きたいと思うもそれが叶わなかった者は
世にごまんといる。

彼らにとって、
芸術家は
自分がどんなに努力しても手の届かなかった芸術の女神に選ばれた者なのであり、
それに向ける目は厳しくなる。
また、
その芸術家に伴侶として選ばれ、
より芸術の近くに身を置くこととなったその妻、
いわば
「詩人ダンテに愛されその創作意欲の源となった美しいベアトリーチェ
として捉えられがちのその妻に対しても
同様の視線が向けられるもの・・・
つまり
芸術家が
プライベートで穏やかに愛に満ちた生活送っている、
などということは許せないし、
そんな生活を送るものを
芸術家として決して認められないという
意固地な心を生むに至る、のである。


結局私も
そういう世にごまんといる
あたりまえの妬み屋の一人であったこと、


つまりは
そういうことをつくづく
思い知らされたということ、なのだ・・・


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2008/02/12

伝統と因習と

過日の相撲部屋での傷害致死事件の報道などを
見ていて思ったこと。

今や口を揃えて言われるのは
閉鎖的かつ前時代的な大相撲界という社会に対する
改革や開放を望むという意見・・・
もちろん
命というものは
この世界において最もかけがえのないものだから、
だから
こういう意見が世の中を占めるのは当然なことだし
これを機会に
閉鎖的な社会にメスが入るのは喜ばしいことであると私も思う。


でも
ある意味こういう改革というのは
それはひとつの「伝統」の終焉でもある、

そういうふうにも
私には思えてならないのである。


学校を出したばかりの腕白な荒くれ少年を
国技の力士としての逞しさと
それに見合う品位を付けさせる。
それは
上には絶対服従という
上下関係の厳しい掟の下でこそ育つと考える人も
少なくはないだろう。

そういう伝統に基づいた相撲部屋が
世にあるほかのスポーツジム並みに
民主的で開かれた存在になったとして
それ自体は
とても喜ばしいことではあるが
それを心の底では舌打ちする人間が必ずいるものだ。
例えば、
自分自身も辛酸を舐めてきて
それだからこそ大成したと自負する先輩方とか、
辛い修行こそが実を結ぶと
信じている昔かたぎの指導者方とか
そういう根性論好むを文化人とか・・・

それでなくとも
脆弱に育った今の日本の若者に
この国技を担い続けることができるのか
という意見は根深くある。
今や社会の根幹を成す民主主義とか自由・平等とはまた別に
守られねばならない「伝統」というものも存在すること、
そして
そこには一見不条理とも見える男尊女卑や人権の蹂躙も
垣間見られること、
そしてだからこそ価値があるかのような
見方もあるのも事実なのである。


もっとも
「『伝統』とは『因習』とは違い
守られるべきものではなく
新しい要素を取り入れながら育っていくものである」
という考え方もある。
確かにそうなのかもしれない。

しかしそれは
あくまでその「伝統」が辿ってきた道を振り返った上で
いえる言葉なのであり、
今現在変わろうとすることに対して
肯定的に使われることはほとんどない。

現在進行形の変革は
常に「伝統」の敵であり破壊者にしか過ぎないし、
そういう意味では
「伝統」と「因習」は全くの同義語であり、
それを語るものにとって都合が悪い「伝統」だけが
「因習」という名で呼ばれるだけの違いでしかないのである。


・・・


今やすっかり議論の対象から外れた感のある
「女性天皇」もしかり。


今や
誰かが「伝統は守られるべき」という言葉を発するたびに、

もうその「伝統」そのものは
既に「因習」に成り下がっていること

そしてその言葉が
そのことを証明しているに過ぎないこと、を

私はいつも痛感してならない・・・


ああ・・・
「伝統」とはかくも誇らしくもあるが
その反面、
私たちをがんじがらめに捕らえる憎い縛めでもあること、

どうも
そのことを隠すのが
この言葉の口当たりのよさは、巧妙過ぎる・・・

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2008/02/08

仲間内ブログを
広く公開するの何故なのか

「日記ブログなんて
 所詮友達や知り合いしか読んでくれないもの。」

先日こんな文章を目にしました。
随分と痛烈な言葉ですけどね。


実際今現在
世の中に満ち溢れているブログの多くは、

「ダレダレとドコドコへ行ってきました!」とか
「ドコドコでコンナ料理を食べました!」とか
「昨日はコンナ作品を完成させちゃいました!」とか

こうした日々の生活の報告を主としている、
いわゆる日記ブログです。

確かにこれらの日記ブログの読者とは
筆者のネット友達や知り合いがほとんどなのかもしれません。
だって正直な話、
普通の一般人の生活がそんなに多くの興味を引くとは思われない。
だから辛口に言えば
「あなたの日記ブログを読むのはせいぜいあなたの友達ぐらい」
ということになるのでしょう。

でも
逆に言うと
こういう日記ブログというもの自体、
実は最初から
いわゆる
不特定多数の読者・沈黙のオーディエンスに主眼を置いて
発信されているものじゃない、
のではないでしょうか。
つまり
多くの場合は
内輪の知り合いやブログ仲間であるお友達に向けて
(もしくは彼らを意識して)
発せられている文章であったりするワケです。
「(お友達の皆さん、)私はここに行ったのよ、
 楽しかったわよー」
的な報告をまるでメールを打つかのように
ブログに載せる、
もちろんお約束のようにその友達の面々からも
「いいなぁ私もいきたい」的なコメントがつくわけです。
そういう交流が
こういう仲間内の日記ブログの重要な要素であり主な目的。
つまりこの手の日記ブログとは
「自分の意見を世に公開する場」というよりは
「自分と仲間の交流を助ける媒体」としての役割に
より重点をおいた存在ということなのでしょう。
実際こういう使い方をしている人の割合は
ブログ運営者の中で少なからずいらっしゃる。
それはブログの一つの形として
誰もが認めているところなのです。


それでも
私が気になってしまうのは

その少なからず内に向けられているはずの日記ブログが
当然のことのように
ネットを使う全ての人に向けて公開されているという点。

つまり
仲間内以外の人間にもソレを公開しているという点なのです。

例えば

「昨日はようやくバレンタインのチョコ材料を買ってきましたぁ!!
ジャーン見てくださーい・・・・
これから頑張ってつくりまーす!
出来たらUPするからねー!
じゃお楽しみにー!!」

という記事を偶然通りがかった一見さんが読んだとしましょう。
果たしてその一見さんの反応というのは
どんなふうなものなのでしょうか。

もちろん、
必ずしも不毛な結果だけではないとは思います。
偶然通りかかったり検索の結果ヒットした人が
その食事した店や
その旅行した土地、
あるいはその趣味(ここでいうとチョコ作り?)に
興味を持っていたとしたら新たなる同好の志を結びつけるきっかけとなることでしょう。
「私もお仲間に入れてください」という申し出を受けることにつながり
より充実した人間関係を築くのに役立つことになるのかもしれません。

でも、
実際の話そんなことは滅多にない。
大抵はそういうところまでは結びつくことはなく
「ああ仲間内で楽しんでやっているんだな」程度の感想で
終わってしまうワケです。
ヘタしたら
「へっ!勝手にやってろよ!」みたいな嫌悪感すら
抱かれてしまうかもしれない・・・
それが実際のところなのではないでしょうか?


・・・・


いや、
自分のブログで何を書こうと
それはその人個人の自由であり
なんの縁もゆかりもない人間がソレをどうこう言うのは、
全くの言いがかりに過ぎないことは重々承知していますし、
もちろん
「こういう日記ブログを仲間内で楽しんでいる人たちは
皆ブログをやめてSNSに行くべきだ!」
なんて乱暴なことを主張するつもりもないのですが。


ごめんなさい、
どうしてもそのこと
「友達への発信」が公開されていること、に
どうしようもなく違和感を感じてしまって・・・

そのことが言いたかっただけなのです。

ひょっとしたら
そのことに違和感を感じるということは
私という人間の度量が狭いということの
証明に他ならない
ということなのかもしれないのですが・・・


実際、

どこかの誰かが語っていた主張を
もっともらしい顔して自分の意見のように書き連ねている、
そんなエセ主張系ブログよりも

こうした「仲間同士の日記ブログ」のほうが
よっぽど罪の無いもの

なのかもしれないですし、ね・・・・

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2008/02/06

エコな生活の効果はいかに?

例えば日曜の夜に
環境問題を扱う報道やドキュメンタリーを見たとしましょう。

そこに映し出されるのは
氷が解けてしまったため
それまでの生き方ができなくなったホッキョクグマの
ガリガリに痩せこけた姿とか、
干ばつが続き既に無くなってしまった川の流れ跡とか
反対に海に沈んでしまいかけている
小さな島に暮らす人たちの姿など・・・

そういうものを見せられるとちょっと前までは

ああ、なんとかしなきゃ・・・
まずはエコバック使わなきゃ、
それからマイ箸も持ち歩かなきゃ、
今まで以上に節水・節電に努めなきゃ

とまあそんなことを考えたりしていたわけなのですが、
でも

どうも思ったように上手くいかない

最近とみにそんな気がしてきました。

前述のような報道もますます最近多くなってきましたから
個人的には環境問題に意識を持つ人は
以前よりずっと増えているのでしょう。
それにもかかわらず
CO2の削減は思ったようにはいかず、
「このままじゃいけない」という脅迫感だけが残る。
この脅迫感から「何かしなきゃ」と慌てて辺りを見回すのです。
だがそうやって見回したところで
具体的に自分の出来る「エコな生活」ときたら
どうもその危機感からは程遠く
能天気なほど気軽なものだったりする・・・
そこで生まれてくる素朴な疑問。
ほんとうにこの程度の努力-
エアコンの設定温度を夏は上げ冬は下げる
レジ袋を断る
ごみの分別をきちんとする
などという努力で地球を救うことなんてできるのでしょうか?

・・・

いや、
素人の私の意見ですから何の根拠も無いことですが、
どうもそれは無理のような気がしてしまうのですよね。
もし本当にこの危機的状況を回避したいのなら、
国家が戒厳令のようなものをひいて
エネルギー使用量とCO2の排出量を厳格な管理下の元におくしかない、
やはりそうでしょう。

このままいけば
いずれそういう日がくるのかもしれません。
だが今はまだその段階ではない。
何より60数億もの人を養うための経済を犠牲にしてまで
環境問題の全面解決に乗り出すわけにはいかないのです。
(だいたいそれをやったからって
本当に解決できるかも未知数なわけですから)
だから
「経済をも優先させた上で
出来うる限りの配慮を環境にはらう」
というその辺りが
今現在の落としどころということなのでしょうね。
そしてその落としどころが
企業としては環境に配慮した製品や
CO2を排出しないエネルギーの開発であり
個人としてはエアコンや箸やごみ分別といった小さな努力なわけなのでしょう。


それでも
それで環境問題が解決する日が来るとは到底思われないんですよね。
そういう技術の開発や小さな努力の積み重ねで
温暖化を食い止めようとする力と
温暖化のスピードはどう考えても
後者のほうが勝っているように思えてしまうから、
だからあくまで
こうした努力は実際の危機的状況
―例えば温暖化による気候変動で
全世界に暴風雨がふきまくり
世界経済がそれにより壊滅的打撃を受けるとか―
が訪れるまでの
いわば
気休めや自己満足のための努力にしか過ぎないのでは・・・?

そんなふうに私には思えてならないのです。


だからって
何もしないわけには勿論いかない
というのもわかっているのですが・・・

結局

みんなが
多分無駄と思いながらも
先の先を見ないようにして
気休めのような努力を繰り返す

その不毛さ・・・

環境問題の根の深さ、深刻さっていうのは、
とどのつまりは
そういうことなのかもしれません。


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