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2008/02/12

伝統と因習と

過日の相撲部屋での傷害致死事件の報道などを
見ていて思ったこと。

今や口を揃えて言われるのは
閉鎖的かつ前時代的な大相撲界という社会に対する
改革や開放を望むという意見・・・
もちろん
命というものは
この世界において最もかけがえのないものだから、
だから
こういう意見が世の中を占めるのは当然なことだし
これを機会に
閉鎖的な社会にメスが入るのは喜ばしいことであると私も思う。


でも
ある意味こういう改革というのは
それはひとつの「伝統」の終焉でもある、

そういうふうにも
私には思えてならないのである。


学校を出したばかりの腕白な荒くれ少年を
国技の力士としての逞しさと
それに見合う品位を付けさせる。
それは
上には絶対服従という
上下関係の厳しい掟の下でこそ育つと考える人も
少なくはないだろう。

そういう伝統に基づいた相撲部屋が
世にあるほかのスポーツジム並みに
民主的で開かれた存在になったとして
それ自体は
とても喜ばしいことではあるが
それを心の底では舌打ちする人間が必ずいるものだ。
例えば、
自分自身も辛酸を舐めてきて
それだからこそ大成したと自負する先輩方とか、
辛い修行こそが実を結ぶと
信じている昔かたぎの指導者方とか
そういう根性論好むを文化人とか・・・

それでなくとも
脆弱に育った今の日本の若者に
この国技を担い続けることができるのか
という意見は根深くある。
今や社会の根幹を成す民主主義とか自由・平等とはまた別に
守られねばならない「伝統」というものも存在すること、
そして
そこには一見不条理とも見える男尊女卑や人権の蹂躙も
垣間見られること、
そしてだからこそ価値があるかのような
見方もあるのも事実なのである。


もっとも
「『伝統』とは『因習』とは違い
守られるべきものではなく
新しい要素を取り入れながら育っていくものである」
という考え方もある。
確かにそうなのかもしれない。

しかしそれは
あくまでその「伝統」が辿ってきた道を振り返った上で
いえる言葉なのであり、
今現在変わろうとすることに対して
肯定的に使われることはほとんどない。

現在進行形の変革は
常に「伝統」の敵であり破壊者にしか過ぎないし、
そういう意味では
「伝統」と「因習」は全くの同義語であり、
それを語るものにとって都合が悪い「伝統」だけが
「因習」という名で呼ばれるだけの違いでしかないのである。


・・・


今やすっかり議論の対象から外れた感のある
「女性天皇」もしかり。


今や
誰かが「伝統は守られるべき」という言葉を発するたびに、

もうその「伝統」そのものは
既に「因習」に成り下がっていること

そしてその言葉が
そのことを証明しているに過ぎないこと、を

私はいつも痛感してならない・・・


ああ・・・
「伝統」とはかくも誇らしくもあるが
その反面、
私たちをがんじがらめに捕らえる憎い縛めでもあること、

どうも
そのことを隠すのが
この言葉の口当たりのよさは、巧妙過ぎる・・・

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