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2008/02/23

「ジュリア」と「戦う女」たち

先日、衛星映画劇場で
77年のアカデミー受賞作品である「ジュリア」という映画を見た。


前に見たのはまだほんの若い時だったか・・・

今の私が思うのは
前回の手放しの感動というよりはむしろ

つくづく
この映画うまいなぁ・・・!

という感嘆である。
この「うまい」というのは
一歩間違えば「あざとい」にもなりかねない
「お見事!」感のあるヤツだ。

アメリカの何不自由なく育てられた
大ブルジョアの令嬢ジュリア。
彼女は自らの信念ゆえに
貧しく虐げられたものの味方となり
ヨーロッパの反ファシズム運動にその身を投じていくのだが、
その彼女の生き様は、
直接ではなく、
彼女の幼馴染である女性作家リリアンの
「彼女に対する強い憧れ」を通して描かれている。
この点がこの映画の大いなる特徴なのだ。

具体的に言えば、
ココで描かれるのは、
地下活動に入っていくジュリアの身を案じるリリアンの様子や
その心配の中彼女が回想する
かつてのいきいきとしたジュリアばかり。
実際のジュリアがどんな活動をしどんな危険と背中合わせにいたのかは、
ほとんど私たち観客はわからないまま物語は進んでいく。
この勿体つけた描かれ方が、
「ジュリア」というタイトルロールの女性の理想性を大いに掻き立てるのだ。
主人公リリアンとともに私たち観客もまた「ジュリア」の精神的虜となっていく・・・
(そして背景には
美しく豪奢な1900年代初頭の貴族的生活や
30年代の煌びやかな文化人の風俗、が流れる。
ちゃんと観るものの目を楽しませるところまでの気配り、
そのあたりもまた
ただの地味な社会派とは一味も二味も違い心憎い。)


多分、
この作品は
ある種の女性達にとっては
絶大なる支持をせずにはいられない映画にちがいない。
観客たち、
特に女性の観客たちは
これに「素晴らしい友情の物語」を見出し
リリアンの友情ゆえの命をかけた素人ミッションにハラハラし
その甲斐も無く散っていった
「ジュリアその人の悲劇」に涙を流すのだろう。

これはまさに、
文化的で知的で社会的であると自負する
「戦う女たち」にはうってつけの映画なのだ。
彼女たちの自尊心をくすぐるような上質の作品。
しかも
この甘い甘い語り口が厳しい現実―

心から尊敬し心酔する友の不在
やりがいのある社会的任務の遂行の難しさ
苦悩の中からも自分の才能を開花させる根気強さの欠落

という現実―を生きている戦う女たちにはたまらない。


今回も、

主人公リリアンの
尋常ではないジュリアへの憧れと美化に
フィクションの匂いを感じながらも・・・

この映画を好きにならずにはいられないのは、
この私が
そんな「戦う女」の端くれだったことの
名残なのかも。


・・・


でも本当のところ
女の友情って
そんなに理想的な相手には
なかなか向けにくいよね・・・・
実際、このジュリアも実在の人物ではなく
作者のリリアン・ヘルマンの創り上げた理想の女性像だという
説もあるようだし・・・

なんて冷めた目を向けながらも、
やっぱり私は

この映画が好きにならずにはいられないようである。


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