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2008/03/27

サイトというものは夜空の星に似ている

たとえば
どこかで何かの拍子に開いたページがあったとして、
それがこの私自身にものすごくピッタリくるものだったとして、

どんどんどんどん
その文章に引き込まれ、
読みすすんでいくわけなのだが、
そのうちにひょいと気が付くことがある。

それは、

「ああ、
これはもう打ち捨てられた過去のサイトなのだな」

ってこと。


もう更新されることはない。
この文章を発する光の元は
とうの昔に途絶えてしまったというのに
今私の目の前にあるのは
つい先程書かれたかのように
イキイキと活気に溢れた文章だ。

そのちぐはぐな様は
何万光年も離れたところから光を放ち
今はその存在すら確かめられない
遠い遠い彼方の星にどこか似ている。


・・・


インターネットが普及して十数年・・・
星の数はどんどん増え続け、
その中に実態を失った星の光も
雨あられのように
地上に私に降り注ぐ。


最早過去のものであるにもかかわらず
今更それを知って
ひどく感動している自分。

その間の抜けたタイムラグに
なんとなく
ため息が出た。


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2008/03/26

「ちいさいしろいにわとり」

表題は
昭和34年から51年まで
光村図書の「しょうがくしんこくご 一ねん」に掲載されていたお話
(詳しくはこちら)。
物語はこんな感じで始まります。


ちいさいしろいにわとりが みんなにむかっていいました。
このむぎだれが まきますか。

ぶたは いやだといいました。
ねこも いやだといいました。
いぬも いやだといいました。

ちいさいしろいにわとりは ひとりでむぎをまきました―


引き続き物語は
種蒔きから刈り取り、粉引き、捏ね、パン焼きという具合に
どんどんすすんでいきます。
詩のように韻をふんだ調子のよい文章にのって、
その中で淡々とやるべき仕事をこなしていく
「ちいさいしろいにわとり」。
もちろん
怠け者である
「ぶた」も「ねこ」も「いぬ」も
その間は全く協力なしです。


そして
とうとう焼きあがったパンを前にしてのラスト。

ちいさいしろいにわとりが みんなにむかっていいました。
このパンだれが たべますか。

ぶたは たべるといいました。
ねこも たべるといいました。
いぬも たべるといいました。


・・・


私の記憶ではここで物語は終わってます。
もっとも
さまざまなサイトで語られているところによると
ラストは多少違っており
それによると
「ちいさいしろいにわとりは、さてなんといったでしょう。」
と最後の一文で問いかけているとか。

いやぁ、そうだったかしら?
むしろこの言葉は本文ではなくて
そのあとの学習のてびきのようなものにあったのだ
という声もあるようですが・・・
(そちらのほうが
作品としての余韻を残す意味でも
より望ましいラストである気が、私もしますね。)


それにしても
このストーリーに触れたときの衝撃は
小学1年生にはかなり大きなものでした。

それまでの物語といったら
正直なで働き者は必ずその恩恵をうけ、
反対に怠け者は報いを受けるものと相場が決まっていたというのに、
この「ちいさいしろいにわとり」にはそれがない。

まさに読み手への丸投げのラスト。
こういうものに触れたのは
多分この作品が生まれて初めてだったのでしょう。
今になって思うと
どうしてこの手の物語が
小学1年生の国語の読本として選ばれたのか、
本当に不思議な気さえします。


もちろん授業でも
「にわとりがどうするのか?」について話し合われたとは思います。
が、全然その様子は覚えていないんですよね。

多分「皆で分け合って食べた」とか
「いや分けてなんぞやらずに一人占めして食べた」とか
いろいろ考えは出たんでしょう。
が、
この場合どのラストも取ってつけたようなわざとらしさが残る気がするというか・・・
何より私自身が
それらのどの考えも受け付けられないような気がしたのでしょう。


というわけで、
私の中では未だに
「ちいさいしろいにわとり」は
パンをのせた皿をもって「ぶた」「ねこ」「いぬ」の前で立ち尽くしているのです。
そして
そのにわとりの姿は自分自身にダブっていく。

彼等は「食べる」と言った。
それへの返事を
「ちいさいしろいにわとり」である私は今も考え続けている、ような・・・


あれからもう30年以上が経ちました。


そんな私には

休日に
一週間たまった家事をほぼ一人でやる自分―
そのことを小さな小さな(しかし確固たる)不満として
溜め込み続ける自分の姿が

このちいさなしろいにわとりの中に映し出されている・・・


最近とみに
この物語を思い出すことが多くなったのは、

多分
その理由によるものなのかもしれません。

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2008/03/21

4年目の家族旅行記サイトの行方

・・・
昨日
管理していた家族旅行記のサイトを更新した。
ほぼ1年ぶりのことだった。


さほど手のかかる更新であったわけではない。
昔の旅行の写真を数枚UPしたのと、
子供つくったページをリンクしてやったぐらいのこと。

本当のことを言うと
このサイトの管理については
モチベーションが下がりまくりだったから
このまま放っておかれて
インターネット上無数にある
管理放置サイトの一つになってしまうのも
時間の問題だったのかもしれない。

だが、
娘がココに来て
急にホームページ作成意欲に燃え上がってしまったもので。
まあ彼女のページを付け足すなら、
前々からUPを予定していた古いベルリンの写真も
ついでにUPしちゃおうか、
という極めて覇気の無い更新だったわけなのだ。


そんな更新とはいえ
久しぶりに開く自分のサイト。
ソレを眺めているうちにこんなことを考える。


そもそも
家族の海外旅行なんてものは
やたらめったらに行われないイベントであるから、
新しい旅行記でコンスタントに更新していくなんて
なかなかできることではない。
だから私も
昔の独身時代の旅行の思い出なんぞを
窮余の一策にUPしたりしていたわけなのだが、
そんな昔の古ぼけたサエない写真をUPしてみたところ
誰かの興味を引き付けられるなんて
とてもじゃないが思えない。
そうしてどんどん下がっていくモチベーション・・・
そうこうしていくうちに、
なんでこのサイトを始めたんだろう
なんてサイト自身の存在意義にまで思いが及んでいく・・・

もちろん、
公開直前はこんな殊勝ぶった記事を書いているが
そんなことはタテマエにしか過ぎず、

誰かの役に立てたら・・・とか、
誰かに面白く読んでもらおう・・・!

などという
おこがましい野心が
皆目なかったわけではないのだ。

だが、
こうして月日を重ねて冷静な目で眺めてみると
もはや色あせた役にも立たない情報や
誰でも体験する陳腐なハプニングやその感想などが
書き連ねられているに過ぎない我がサイトの真実の姿に突き当たる。

正直辛い・・・

「いやぁ、
 ある意味サイトを公開するというのは
 公害を撒き散らしてしまうという危険も
 はらんでいたのだなぁ」

と苦笑したくなる。


・・・


そこでふと
「ヨソさまはどうなんだろう?」
と思い立って、
リンクさせてもらっているところをはじめ
さまざまな家族旅行記サイトさんを
お邪魔してみた。


ああ、
当時は
きっと活気に溢れていた各サイトだったろうに、
今や静かにそこにただあるという感じのところがほとんど。
(もちろん今も精力的に更新をつづけている
 エネルギッシュなサイト管理者さんも
 いらっしゃるにはいらっしゃるが―
 その熱意や工夫には驚くべきものがあり敬意を表します!―)


皆さん、
てこずっていなさるんですね・・・


西暦2000年前後あたりから
雨後のタケノコのように
ネット上に無数に生まれた家族旅行記サイト・・・

拙サイトを含めこれらが
この先どのようになっていくのか

なんとなく
そら恐ろしいような気分になる私・・・


とにかく、
自分は細々とでも続けていくことにしよう・・・

まだ、
削除はできないのだから、

それしか道はないようです・・・

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2008/03/13

自分に酔ってはいけない

実は1年ほど、
密かに俳句をやっている。

去年は結社なるものにも所属して
ない頭を捻りつつ
月末までに投句するということを繰り返していた。
その句を
選者であるエラい先生に批評していただく。
その評価の良し悪しに一喜一憂していたものだった。

もちろん
その批評や選には
選者の方の好みや考え方があり
それに常に納得できていたわけでもなかったのだが。

それにしても
この投句によって
とても勉強になったことはあった。


それは、

決して、自分に酔ってはいけない

ということ。


これは季節を詠む俳句だけではない。
ちょっとした
雑感のエッセイにせよ、
感性の赴くままに・・・なんて書いた文章には
ほとんどの場合自分への「酔い」が含まれがちである。

「こんな感性をもっている私って素敵」的な自己陶酔・・・


だが、それを
「そんなふうに思っているのはアンタだけだよ、
読んでる人にとっちゃ不愉快なだけ!」と、
バッサリと歯に衣着せぬ毒舌で切られると
正直かなり、凹む。
ほんのぽっちりあった自信も何もかもが
ガラガラと音を立てて崩れ去る。

でもそれが真実なのだ・・・・

(例えば誰かのそういう酔いしれた文章を目にした事のあるアナタなら分かりますよね―苦笑)


もちろん
この「自分に酔ってはいけない」という鉄則は
俳句だけでなくどの創作活動にも共通して言われていることなのだろう。
だが、
特に五七五の十七文字という極めて短い言葉の中で
季節感というとてつもなく漠然とし広がりのあるものを表現せねばならない
この世界においては
ことさら厳しく要求されているもののように感じられる。


というわけで、

どうもこのブログにも
最近「感傷的な呟き系」が漏らしにくくなってしまったような・・・


・・・


「いや、
そんなこと全然ありませんよ、
相変わらず自己陶酔型文章は健在、
読み手としては毎度シラケさせてもらっています」

とのご意見の方がいらっしゃったら、

すみません、
まだまだ修行が足りないようです。

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2008/03/12

谷亮子選手の
「高橋失速」へのコメントに寄せて

今更ながら
気の抜けたような話で申し訳ないが・・・
日曜日の名古屋国際女子マラソンで
高橋尚子選手が27位に終わった件に絡んで。

あれから2日たった夕べ(11日夜)のこと。
―そのとき柔道の野村忠宏選手の
ドキュメンタリーがTVに流れていたからだろうか―
急に隣にいた夫がこう言い出したのだ。
「それにしても、あの谷亮子のコメントはないよなぁ」。

その谷選手のコメントとは、
フジテレビのスポーツ番組「すぽると」で語られた
高橋選手の名古屋の結果に対するもの。
確か、
「長期にわたりずっと好調を維持することは大変なんです」
みたいなかんじの内容だったか。
そのコメントが
夫には「それが出来なかった高橋選手に対し自分は出来ている」
っていう

(なんだよ、自慢かよ?)

との不快感に繋がった、とのことだ。


うーん・・・
実は
私もその言葉を聴いて
「・・・ん?」とひっかからなかったわけでもなかったのだが、
(まあ実際彼女は出来ているわけだし・・・)と
さらりとスルーしていた。
だが
夫に聞いてみると
私には流せたこの言葉も、
彼には相当カチンくるものだったらしい。


まず、
はじめに断っておくが
彼は決して谷選手のアンチファンではない。
「ママになっても金」という彼女の目標も
心から応援している極当たり前のオリンピック好きのひとりだ。
その彼が
偉大なるヤワラちゃんを批判する。
私はちょっとびっくりした。
(それほど、Qちゃんに期待していたってこと?)


一方私はといえば
正直な話
マスコミが「何かにつけて持ち上げたがる高橋選手」の扱いには
疑問をもっていたから、
今回の結果も
あまり彼女には同情していなかった
(彼女のほうだって
私を含む一般人なんかに同情してもらいたくも無いだろうし)。

だから
谷選手にしろ高橋選手にしろ
結局はマスコミに取り上げられた特別な存在であり、
同じような存在なんだから、
二人の間でどんなコメントを出し合おうと
それほど興味はないのである。
(むしろ私としては
同じ金メダリストでありながら、
マスコミには冷遇されている野口みずき選手を贔屓にしいる関係から、
「彼女にもQちゃんと等しく光を当ててやってくれ!」
という希望はあっても
Qちゃんにはその結果に見合った扱いをしたほうがいいのでは?
という批判に似た思いぐらいしかない。)

まあいずれにせよ、
谷選手が分野違いにもかかわらず
同じ有名アスリートとして名を馳せているだけという理由で
こんなところに担ぎ出されてコメントを引き出さされ
挙句の果てには
買わなくても良い反感を
何人かの人に買ってしまったかも、という事態には
同情こそを感じるとしても
反感のようなものは微塵もないというわけだ。


結局、
夫としては、
陸上というスポーツ界の花形競技にて
女子初の金メダルを獲得した高橋選手に
並々ならぬ畏敬の念を持ち期待もしていたのだと思う。
その存在は
たとえ五輪4連覇がかかっている谷選手であろうと
見下して欲しくない・・・
と、そんな気分だったらしいのだ。

・・・
もっとも
実際に谷選手がQちゃんを見下していたかどうかは
また別の問題だけれどね・・・


それにしても
あの場合谷選手としては
ああいうコメントしか言えないんじゃないかな、
と私には思えてならない。
それなのに
わざわざ門外漢の彼女にコメントを取りに行った
すぽるとスタッフの神経を
むしろ疑うべきだろう。


まあ今となっては
このコメントによって
また谷さんのアンチファンがひとり増えてしまったことに
ちょっと
同情しちゃうかも・・・

あ、
もちろん私は
別に谷選手のファンってわけでもないのですけど、ね。

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2008/03/11

「いつでも観られる」のだけど

夕べ、
テレビも消して
「さてもうそろそろ寝ようか」という
午前1時前・・・

この深い時間に映画が始まる。
「バックドラフト」

ああ、コレ何回か観たことあるよ、なかなか面白いよね・・・

という私に夫もうなずく。
というわけでそのまま二人歯を磨きながら10分ほど鑑賞・・・

「もう寝なくっちゃ、」という私に
夫はうんとうなずき、
「やっぱり録画しておこう」と言い出した。


まず録画ボタンを押す。
続いて
「いつ録画を終了しますか?―この番組の最後まで」
と言うメッセージにもう一回ボタンを押せばいい。
このたった2つのボタンで
それだけで私たちは
テレビ局が一方的に私たちに押し付けている
「番組表」という時間ルールから開放されるわけだ。

つまり
たとえいつ放映されようと、私たちはいつでも好きなときに観られる・・・

いや、便利な時代になったものだ。


だが、

だがしかし
現在我が家のハードディスクには
こうやって録画してあるが未見の番組が常にいくつも存在している。
(そういえば先週末放映の「ロレンツォのオイル」もまだ観ていない。)

だって
「いつでも観られる」というのは
言い換えれば
「いつになっても焦って観る必要がない」ということだから・・・

そうして最終的には
ディスクの容量不足を理由に消されていく数々の番組たち。


・・・


その昔、
人気ラジオ番組「君の名は」が放送される時間帯は
銭湯がガラガラになったそうな・・・

そんな逸話が思い起こさた。


もちろん
便利になった世の中は歓迎されるべきものなのだけど


「いつでも観られる」という便利さ

を得たと同時に

「そのときにしか観られない」という緊張感や貴重さ


最早、永遠に失われてしまったのだな、と


無いものねだりの子供のようなことを

ふと、感じた夜だった。


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2008/03/07

モラルが生まれた訳

「結局さぁ、
良心とかモラルなんていったって、
それは集団で生きていくために人間自身が編み出した
世渡りの知恵にしか過ぎないんだよ」
と、彼女は言った。
これは
10数年前にキリスト教徒になった私に対し、
無神論者の友人が言い放った言葉。

つまり良心だの道徳だの、
それを拡大していったところの
「神」という名の絶対者というものだって
結局は人間が
その快適な集団生活を軋轢無く無難に乗り切っていくために
自分で創り出したものに過ぎない、
ということを言いたかったようだ。


うーむ、
残念ながら
そのときの私には
彼女の説に反論することは出来なかったし、
今だって仮にその話になったとしても
やはり反論できないでいることだろう。

だって彼女の説は
現世における神や正義の不在を思わせる
理不尽さに即したものであり、
私の「それでも私はキリストを信じる」という思いは
彼女の主張に比べあまりにも論理的ではないのだから。


それに
彼女の言葉に反発しながらも
これを聞いたとき
確かにそれも否定しきれないと思う自分もあったことも事実。
多分、
大方の日本人はそんなふうに考えているのではないかとも
実は思っているのだ。

そして
それと同時に

じゃあ、人が集団でつまり群れて生活するものでなかったら、

―トラやパンダのように
 単独でその生を全うするものであったとしたら―

この世に
モラルというものは生まれなかったのだろうか

という
新たな疑問が湧いてきたのである。

果たして
群れないもの
―社会を持たぬもの―からは
モラルや規律そして友愛などというものは
決して生まれないものなのだろうか・・・

ただひたすら一人で黙々と食し眠り
子孫を次代に残していくのみなのだろうか?

・・・


まあ、
自然界にある動物と
文明などを結びつけて考えること事態
既におかしなことではあるが・・・

何かと群れるのが苦手な
私としては、

群れ=社会というものが
モラルを生み、
人間を人たらしめた・・・


という事実に

ちょっと複雑な気分なのです。

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2008/03/05

違うけど好きだ

友達という存在がある。

あまり深く考えたことがなかったが、
要はその人にとって
ウマが合ったり、
価値観が似ていたり、
共通の趣味を持っていたり、
そんなこんなで一緒にいると楽しい人のことなのだろう。
あるいは
「いやそんな軽いもんじゃなく
もっと深いところで共感し尊敬し合うつよい結びつきのある存在だ」
と主張する人もいるかもしれない。

いずれにせよ、
俗に
友達というものは
自分と似かよった人であることが多いようだ。
そういう人のほうが
理解しやすいし共感もしやすいから当然と言えば当然。
だが
この
「似たもの同士の友情がオーソドックスな友達関係の典型である」
という事実が
「ひょっとしたら

 友情ってものは、
 一種の自己愛のようなものである

 ということなのかな?」
という疑念を
私の中でたびたび湧きあがらせるのである。


自分の考えに共感して欲しい、
自分の意見に同意して欲しい
自分の行動を肯定して欲しい
そして何より
自分の価値を認めて欲しい

そういう願望をもって人は友達を求めるのだ。
そしてそうやって得た友達の
共感や励まし賛同という後押しにより
人は元気を得て日々の生活を乗り切っていく・・・


でも、
ひとたび
その友達から
自分の期待するものとは違った反応
―共感ではない批判など―が
あったとして、
そうなったら
それまで培ってきた二人の友情はどうなるのだろう・・・

簡単に壊れるのか?
それとも
一時的な仲違いはするものの
互いの考えの違いを認めたうえで
新たな関係を築いていく方向へ向かうことができるのだろうか?


こう考えてみると
自分と似た人との友情は、
ある意味要注意なものなのかもしれない。
つまりその友情は、
その友人個人への好意や共感から生まれたのではなく、
その友人の自分に対する口当たりのいい反応への快感から
生まれた可能性が大だから。

結局
「似ているから好き」なだけの関係とは
友情というより自己愛に近く、
「違うけど好き」な部分をより多く持っていてこそ
より純粋なる友人というものなのかもしれない。


そうして

「違うけど好き」な人をどれだけ持てるか・・・

その辺りが
豊かなる人生とそうでない人生を分ける

といっても過言ではない、
と私は最近思っているのである。


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