表題は
昭和34年から51年まで
光村図書の「しょうがくしんこくご 一ねん」に掲載されていたお話
(詳しくはこちら)。
物語はこんな感じで始まります。
ちいさいしろいにわとりが みんなにむかっていいました。
このむぎだれが まきますか。
ぶたは いやだといいました。
ねこも いやだといいました。
いぬも いやだといいました。
ちいさいしろいにわとりは ひとりでむぎをまきました―
引き続き物語は
種蒔きから刈り取り、粉引き、捏ね、パン焼きという具合に
どんどんすすんでいきます。
詩のように韻をふんだ調子のよい文章にのって、
その中で淡々とやるべき仕事をこなしていく
「ちいさいしろいにわとり」。
もちろん
怠け者である
「ぶた」も「ねこ」も「いぬ」も
その間は全く協力なしです。
そして
とうとう焼きあがったパンを前にしてのラスト。
ちいさいしろいにわとりが みんなにむかっていいました。
このパンだれが たべますか。
ぶたは たべるといいました。
ねこも たべるといいました。
いぬも たべるといいました。
・・・
私の記憶ではここで物語は終わってます。
もっとも
さまざまなサイトで語られているところによると
ラストは多少違っており
それによると
「ちいさいしろいにわとりは、さてなんといったでしょう。」
と最後の一文で問いかけているとか。
いやぁ、そうだったかしら?
むしろこの言葉は本文ではなくて
そのあとの学習のてびきのようなものにあったのだ
という声もあるようですが・・・
(そちらのほうが
作品としての余韻を残す意味でも
より望ましいラストである気が、私もしますね。)
それにしても
このストーリーに触れたときの衝撃は
小学1年生にはかなり大きなものでした。
それまでの物語といったら
正直なで働き者は必ずその恩恵をうけ、
反対に怠け者は報いを受けるものと相場が決まっていたというのに、
この「ちいさいしろいにわとり」にはそれがない。
まさに読み手への丸投げのラスト。
こういうものに触れたのは
多分この作品が生まれて初めてだったのでしょう。
今になって思うと
どうしてこの手の物語が
小学1年生の国語の読本として選ばれたのか、
本当に不思議な気さえします。
もちろん授業でも
「にわとりがどうするのか?」について話し合われたとは思います。
が、全然その様子は覚えていないんですよね。
多分「皆で分け合って食べた」とか
「いや分けてなんぞやらずに一人占めして食べた」とか
いろいろ考えは出たんでしょう。
が、
この場合どのラストも取ってつけたようなわざとらしさが残る気がするというか・・・
何より私自身が
それらのどの考えも受け付けられないような気がしたのでしょう。
というわけで、
私の中では未だに
「ちいさいしろいにわとり」は
パンをのせた皿をもって「ぶた」「ねこ」「いぬ」の前で立ち尽くしているのです。
そして
そのにわとりの姿は自分自身にダブっていく。
彼等は「食べる」と言った。
それへの返事を
「ちいさいしろいにわとり」である私は今も考え続けている、ような・・・
あれからもう30年以上が経ちました。
そんな私には
休日に
一週間たまった家事をほぼ一人でやる自分―
そのことを小さな小さな(しかし確固たる)不満として
溜め込み続ける自分の姿が
このちいさなしろいにわとりの中に映し出されている・・・
最近とみに
この物語を思い出すことが多くなったのは、
多分
その理由によるものなのかもしれません。