違うけど好きだ
友達という存在がある。
あまり深く考えたことがなかったが、
要はその人にとって
ウマが合ったり、
価値観が似ていたり、
共通の趣味を持っていたり、
そんなこんなで一緒にいると楽しい人のことなのだろう。
あるいは
「いやそんな軽いもんじゃなく
もっと深いところで共感し尊敬し合うつよい結びつきのある存在だ」
と主張する人もいるかもしれない。
いずれにせよ、
俗に
友達というものは
自分と似かよった人であることが多いようだ。
そういう人のほうが
理解しやすいし共感もしやすいから当然と言えば当然。
だが
この
「似たもの同士の友情がオーソドックスな友達関係の典型である」
という事実が
「ひょっとしたら
友情ってものは、
一種の自己愛のようなものである
ということなのかな?」
という疑念を
私の中でたびたび湧きあがらせるのである。
自分の考えに共感して欲しい、
自分の意見に同意して欲しい
自分の行動を肯定して欲しい
そして何より
自分の価値を認めて欲しい
そういう願望をもって人は友達を求めるのだ。
そしてそうやって得た友達の
共感や励まし賛同という後押しにより
人は元気を得て日々の生活を乗り切っていく・・・
でも、
ひとたび
その友達から
自分の期待するものとは違った反応
―共感ではない批判など―が
あったとして、
そうなったら
それまで培ってきた二人の友情はどうなるのだろう・・・
簡単に壊れるのか?
それとも
一時的な仲違いはするものの
互いの考えの違いを認めたうえで
新たな関係を築いていく方向へ向かうことができるのだろうか?
こう考えてみると
自分と似た人との友情は、
ある意味要注意なものなのかもしれない。
つまりその友情は、
その友人個人への好意や共感から生まれたのではなく、
その友人の自分に対する口当たりのいい反応への快感から
生まれた可能性が大だから。
結局
「似ているから好き」なだけの関係とは
友情というより自己愛に近く、
「違うけど好き」な部分をより多く持っていてこそ
より純粋なる友人というものなのかもしれない。
そうして
「違うけど好き」な人をどれだけ持てるか・・・
その辺りが
豊かなる人生とそうでない人生を分ける
といっても過言ではない、
と私は最近思っているのである。
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