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2008/04/24

唐突なる邪悪さが潜む世界

先日の光市の母子殺害事件の判決からというもの・・・


どういうわけか
いやおうも無く思い出されるのは
1989年の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」なのです。

あまりに痛ましい事件だったため、
20年近くの年月が経った今も
その事件を知ったときの衝撃はわすれられません。


何の落ち度も無い被害者が
たまたまの不運で
ここまでの恐怖と苦痛を感じなければならなかったのかと思うと
今、
自分が普通に生きて暮らしていることさえも
ものすごい幸運の上に成り立っているような気すらしてくる・・・


・・・


あれから随分時が経ちましたが、
その後も
未成年者による残虐な犯罪は後を絶たず、
むしろ増加の傾向にあります。


こんな荒んだ世の中だから
子供を産むことなんかできない

こんな危険に満ちた世の中に
子供を送り出すなんてかわいそうだ


こんな声を聞くようになったのはいつごろからでしょうか。

基本的に、
「たとえどんな困難な時代であろうと、
子供は自らの意思によって生まれてくるものなのだ」と考える私は、
こういう親の一方的な判断で、
その誕生の機会を奪うことには強い抵抗感をもっているのですが、


その抵抗感ですら、
こうした数々の惨劇の前には吹き飛ばされかねない、

今そんな気分になってしまっています。

それだけ、
唐突で邪悪な思いが
この世のあちこちに息を潜めて存在しているということなのか、と・・・


我が子の帰宅が

いつも以上に待ち遠しく、

不安を抱えて待つ、今日この頃です。


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2008/04/22

人類を救う女

昼休み、食事を買おうと近くのベーカリーに行った。

やや混み合った店内に
見覚えのある顔がひとつ。
・・・
そうだ、以前一緒にPTAの広報をやった人だ・・・
(あのころ私は1年生の保護者で
 まだまだ新米のPTAだったっけ・・・)

向こうもこちらの視線を感じ
あらっと笑顔で会釈を返してくれる。


「お久しぶりです」
「まあ、ほんとに」
「・・・あの、(お子さんは小学校を)もう卒業はされたんですよね」
「ええ、もう中2なんですけど。
でもその下の子がまた今年1年で入学したんですよ」


えっ?「また今年1年で入学」って・・・?

えーっっ!
まだ下に子供がいたんだ!
(そういえば確かに
 あのとき彼女は小さい子を連れて会合に参加していた)


・・・


うち子たちは年子の二人姉弟だから・・・
しかも
その子たちも現在は6年と5年で
母である私の小学校PTA時代も来年終わる。
双子を除く複数の子持ちとしては最短の7年で終わるのだ。
まさに
我が家の子育ては短気集中型で
嵐のように吹き荒れて過ぎ去ったものだった。
そんな私にとって
「小学校入学式」なんて行事はもう遠い過去の話であり
自分とは何ら関係の無いものになってしまっている。
たとえば、
今更下にまたひとり子供が生まれてその子をまた一から育てるなんて、
悪いが「とても考えられない話」なのである。


だが、
私と確か同い年のその彼女は、
私より3年も早く母親になって上の子を育てあげ、
そして
私より4年も後に下の子の小学校卒業を迎えることになるはず。

大変・・・
私だったらひいひい泣き言ばかり言って
とても耐えられない・・・

でも
そんなふうに考える私の前で
彼女はごく穏やかに笑っている。
子供を当たり前のように産んで育てて・・・
それも何の苦もないかのように・・・
多分
外に出て働きたいとか
社会に出て自分の存在意義を確かめたいとか
そういう葛藤すらまるでなかったのように
微笑んでいる彼女。


もちろん
それは私の勝手な思い込みで
彼女には彼女なりの大変さや葛藤だってあるのだろうけれど、

それでも

こんなふうに

何気に子供を産んで
そしてその子を淡々と育てていく

そういう女性が人類を救うのだ


なんて大袈裟な考えが
ふと頭の中をよぎる。


・・・同じ女として
  なんだか彼女が眩しく見えた瞬間だった・・・

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2008/04/18

「ママ」と呼ばれたくないママを生むもの

先日新聞を読んでいたらこんな記事がありました。

「ママと呼ばないで!
名前や愛称で 理想は友達親子―家庭内の役割変化映す」


ほほぉ、
わが子に自らを「ママ」や「お母さん」とではなく
自分の名前で呼ばせるお母さんって
じんわり増えつつあるということなのですね。
この呼称を好んで使っている理由というのは、
そうすることによって
親子であっても
縦の上下関係ではなく、友達のように横に並んだ対等な関係を築きたいという願いからだとか・・・
そんな内容が紙面に綴られておりました。

そういえば、
私の友人にもそれを希望する人が何人かいました。
自分も子供を呼び捨てなどでは呼ばないし、
子供にも自分のことは名前+「さん」で呼ばせることを彼女たちは希望。
例え親であろうと子であろうと
ひとりの人間として独立した存在だということを
常に意識していたいから、
というのがその人たちの言い分だったような気がします。

こういう考えを持っている人たちは、
「親」だの「子」だのという
「家」での役割というシガラミからお互いを解き放つことを
切望しているのでしょうね。
同時に
家庭なんていう生ぬるい「馴れ合い集団」にどっぷりつかってしまうよりも、
むしろ
「常に自分という個人をしっかり確立したうえで、
家庭という名の最小単位の共同体に参加するのだ」
という意識をもつべき、ということなのかもしれません。


実際、
世の中というものは、
どんどん「まず個人ありき」という方向に向かっていますから、
こうした変化というのも当然のことなのでしょう。

もともと子供というものは
親からの束縛や支配を抜け出すことを渇望するものなのだし、
親もまた、
「子供の保護や養育だけに」では
結局生きがいを見出さずじまいとなった今、
「親」として以外の「自分個人の顔」をもつことを
切望するようになるものなのだから。
(仕事を持つことによる社会進出、
趣味の充実などによる芸術分野での自己実現などなど、
世の中は今そういう機会に満ち溢れています。)


「まず自分のために生きる」
このことが大前提となった現代社会。
その現代において
家族というものはその役割は
明らかに変わっていっているのでしょうね。

不自由でもあるが、
絶対的に居場所が確保され、
それゆえに時として疎ましくさえ思えた存在から、
より自由で好ましくもあるが、
流動的であやふやな存在へと。
そこでしっかり立っていくには
何よりも自分個人の確立が大切となるのです。


・・・
こういう変化に伴うにつれ
そのうち
家庭というものが友人とのシェアハウスのように
変貌していく日も来るのかもしれません。


そして、
その変貌とは
喜ぶとか嘆くとかそういうものではなく、
云わば

私たちが選び取った
「個人主義」の必然のというもの

なのだと、

私にはそんなふうに思われてならないのですが、
どうでしょうか?

・・・極端でしょうか、ね・・・


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2008/04/15

「自然がいいに決まっている」けど・・・

朝のラジオから流れてくるリスナーからのメッセージ。

「何故今この(食の安全が危機に陥っている)時期に
『クローン牛が大丈夫』なんて安易発表がされるなんてわからない」
「自分は絶対クローンでつくられた牛の肉なんて食べない」
「どうしてそんなクローン食品なんて開発をしているんだろう、
自然に作ったものだけを食べたいのは誰も一緒なのに!」
などなど・・・

どうもこの番組では今朝、
先日「自然に生まれた牛の差異が認められなかった」と発表された
「クローン牛」
のことについて取り上げていたようです。
それについての感想や意見が
エンディングに際しまとめて読まれていた模様・・・
途中でチャンネルを替えてやってきた私には
その本筋はさだかではないのですが
まあ、これらのリスナーからの反応によると
食の安全性についての危機感を訴えるような内容だったと思われますね。

だから無理もないのでしょうが、
それにしても
皆さん判で押したように同じような意見を送ってきていること・・・
その単純さに
なんだか苦笑いが浮かんできました。

もちろん私だってクローン牛を食べたいなんて思っていませんし、
クローン食品の危険性(特に種の非多様性による全滅の危機など)
についても聞いております。
でも、
「今までどおり皆で自然な牛を食べればいいんだ」
「どうしてこんな研究しているのか意味がわからん」
なんて小学生みたいな感想を
わざわざ電波にのせてまで声高に主張する人には
失礼ながら失笑を禁じえません。

(家族で
「いやんなっちゃうよなー」って愚痴り合っているんじゃあるまいし、
もうちょっと多角的に見るとか、
社会背景から考察するみたいな考えが
一つくらいあってもよさそうなものだ。
・・・それとも
そういうのは番組側が面倒くさいから握りつぶしちゃったのかな)
などと考えてしまいます。


そもそも
人間という種自体が
有史以来の異常発生で
増えて増えてどうしようもないところまで着てしまっているというのに
今更今までどおりの自然が一番だなんて
そんな状態でこのさきずっと世界中の人を十分に養っていけるものなら
誰だって大金をかけてクローン食品の開発なんてしやしないではないでしょうか。
もちろん、
少ないリスクで大きな収穫だとか
生育期間の短縮で生産コストを抑えるという
生産者側の儲けを意識しての開発であることも
否定はできません。
でもそれだってそれだけでは一概に悪辣な経営理念とは言い切れない・・・
だってコストやリスクを抑えて利益を上げるというのは
生産者側が当然目指すべき道なのですから。

結局のところ
この場合一番問題となるのは

「クローン技術が本当に安全か」

ということにつきるのですよね。


要は
いったいどこまで研究を重ね
どこまで安全が保障されれば製品としての正当性を
消費者が受け入れられるかということ。
そうなってくると
所詮素人である消費者は専門家の発表に頼らざるを得なくなります。
だが、
その専門家たちの数々の虚偽や隠蔽により
すっかり信用ならなくなっている
それが食の安全を巡る昨今の悲惨な現状だと言えましょう。


その辺のことも考えずに

ただ、
今までにない安全性不確かな技術だからけしからん、
みんな今までどおりの自然のものを食べることにして
それにあぶれて食べられないような人は
我慢しつづければいいのだ

というのもどうでしょう、ね・・・?
皆さんはどうお考えになりますか?


もちろん
「自然がいいに決まっている」というのはわかっています。
でも、
そこで止まってしまっては話にならないではないか、

と私は思うのですが・・・

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2008/04/10

「子を愛せない親」の物語に惹かれて・・・

「普通の人々」という映画をご存知ですか?

ロバート・レットフォードの初監督作品で
「ある普通の一家が長男の死をきっかけに崩壊して様を描いた」ものなのです。
むかーし、テレビで放映していたのを1度観たきりなので
ほとんど内容は忘れてしまいましたが、
それでもその鑑賞後かなりの衝撃を受けたことは記憶に残っています。

どうしてかというと、
そこに描かれていた母親は
極普通の良識ある人物でありながら、
「自分の子供を愛せない」という問題を抱えた人物だったから。

そういう人物が登場し
最後までその問題が解決されること無くエンドを迎えるというのは
ハイティーンの私にはかなりショッキングなものだったのでしょうね。
終わった後はしばらくポカーンとなっておりました。

もちろん
彼女(その母親)は、
よく子供向けの単純は物語などに出てくる
いわゆる「悪いお母さん」ってわけではないのです。
ちゃんと家事をするし
表面上はなんてことなく「良い母親」として暮らしているのですが、
それでも、
心から子供を受け入れることが最後までできないでいる。

なぜなら
その子は、
自分が溺愛していた長男と一緒に事故に遭い、
生き残ってしまった子だったから・・・

と、まあそんなふうに物語は進んでいきます。


自分の子を愛するのは親として当然のこと、
それが世の人々の一般的な考えですよね。
ましてお腹を痛めて産んだ母親であれば尚のこと、です。
しかも
貧乏で荒んだ生活によるストレスがその家庭にあるわけでないし、
子供のほうだって問題行動を起こすよういわゆる不良でもない。
つまり
要はウマの合う合わないで自分の子を愛することができない
ってことなのです。
そういう合理的な理由の無い愛憎とは本当に罪作りなものですから、
この母親は
「救いようの無い存在」として描かれます。
愛されない子供の辛さはもちろんのこと、
「愛せない自分」を抱えてしまった母親自身の苦悩も
良識ある立派な人物であればあるほど
計り知れないものがあるがゆえに。


・・・
でも、
多いですよね
そういう少し屈折した親子関係を扱った小説や映画って。
そして
私自身
そういう作品に対しとても興味を感じる人間だったりします。
新刊のあらずじや新作映画のレビューに
その手の内容を読み取ると、ぐっと関心が増すのです。


なんでなんだろ・・・

単に、
当たり前の人(子供を自然に愛せる親)の物語よりは
そこから少し外れてしまった人の物語のほうに
野次馬的興味を感じているからなのか、
こういう外れた人間の要素を
自分自身の奥底に感じているからなのか・・・
それとも
「子を愛するのは親として当然」とする
何かとてつもない大きな存在への
漠然とした抵抗感によるもの、なのかもしれません。

いずれにせよ、
この種の苦悩は多分人が持ちうる最大級の苦悩であることは間違いないのでしょう。

ひょっとしたら
そういう人の心の奥底を見つめてみたい・・・

ということなのでしょうか?


どうも、
よくわかりませんが

それら全ての理由が
この手の作品があとを絶たず生まれてくる原因であることは

確かなようです。


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2008/04/08

「煽られる不安」と「身近な現実」

・・・
エコ、エコと
その言葉を聞かない日は
ここ数年ほとんどなくなりましたが、

例えば、こんなもの・・・

植物自身にとっては害にしかならないという噂の夜桜のライトアップ、
深夜までも延々と続くテレビ放送、
真冬でも二の腕の丸出しにした女性アナウンサー、
コートを着て歩けないほど暖房の効いたショッピングモール、
また反対に、
羽織るものを一枚持ち歩かねばならないほどガンガン冷房の利いた飲食店などなど

こういうものってほとんど変わりないような気がします。

どうしてなんでしょうか?
その程度のエネルギー消費という贅沢はまだまだ平気ってことなんですか?


結局、

観光客を呼ぶためには、
視聴者のニーズに応えるためには、
入ってきたばかりのお客様にはこれぐらいの暖かさ(あるいは涼しさ)が必要だから、

なのであり、
何より

うちだけがそれをやめるわけにはいかないんだよ、
うちだけが損するのはごめんだよ・・・

という理由が最たるものなのでしょうね。

つまりは
経済が一番で環境はその次か、もしくはその次の次の次ぐらいだってこと。


・・・


ところで
ちょっと前の4月1日には
こんなニュースが流れていましたね。
なんでも今年の夏は北極点を覆う氷がなくなる可能性があるとか。
夏になっても溶けることのない多年氷面積が観測史上最低となったことによる推測のようです。
(詳しくはこちら参照のこと)

まあ、大変!
でも
そんなニュースのあとには、
夜桜の美しいライトアップの姿が映し出されるのです。


それはまるで
「この先地球は大丈夫なのか?」
という不安を煽るだけ煽っておいて
「いやまだ全然大丈夫だよ」といわれてるようで・・・

そういうものを見せ付けられるのは
正直辛い。


そう思っているのって、私だけなんでしょうか。


いや、「その不安」が私だけの単なる思い過ごしであり
実際「地球がまだまだ全然大丈夫」だというのなら、
逆に
こんなに嬉しいことは
ないのですけど、ね・・・

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2008/04/03

「フランチェスカ」という名の自転車

ラジオを何気に聴いていたら、
女性パーソナリティとゲストの
こんな会話が耳に入ってきました。
(ゲストはサイクリングに通じた女性らしい)

「私、自転車にフランチェスカとか名前をつけているんですけど、ね」
「まあ、可愛いですね!」
「ええ、可愛いんです(笑)」

・・・


フランチェスカ、ですか・・・

どうでもいいんですが、
こういう場合つける名前って
どうしてこんな感じの外国の名前が多いんでしょうね。
ペットにつける名前でも、
やっぱりジョンだのウォルフィだのフィガロだの
今やカタカナ名前が花盛り。
いえいえペットだけじゃないです。
自分の産んだ赤ん坊につける名前にしたって
ちょっと前なら「おや、この子はハーフですか」とでも思われそうな
赤毛な名前が多い。


「いや、自転車はもともと外国のものだから・・・」とか
「うちの犬は英国産の純血種だから・・・」とか

言い訳される方もいるかもしれませんが、
それなら純日本人の自分の子供につけるのに
「ありすちゃん」を選ぶ理由はどうなるのでしょう。


とどのつまりは
飽くことなき
外国(しかも欧米文化圏限定)への憧れ・・・


そういうのって
今も相変わらずあるんですよね。
子供に「ダディ」や「マミィ」って呼ばせたり、
得意のレシピはヨーロッパの田舎料理だったり
英国風のガーデニングに精を出したり・・・


もちろん
他人様の趣味にケチをつけるわけではありませんが、
どうも度が過ぎると滑稽に見えてしまいます。
まあそれは
私が小意地の悪い人間であるからってことでしょうが。


それでも
例えば

自分の子供には「節子」、
ペットの犬には「忠太」、
そして自転車には「清風号」とか、

この平成の御世じゃ
物凄く奇特な名前をつけるって
ある意味ものすごく新鮮な気がしてきました。


そうだな、
うちにはペットもいないし子供ももう名付けてしまったから、
自転車にそういう名前でもつけてあげようか

なんて、
そんな小さなことにわくわくする夕方。

私も相当な暇な人間です。


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2008/04/01

匂はずとも・・・

既に満開宣言も出された
東の街からひとこと

この季節
どこもかしこも
さくらさくらさくらですが

街のあちこちを
ぼんやりと発光させる
そのうららかな花の山やアーチ、天井を見て
おもうことがあります


それは、

この花に香りがなくて本当によかった

ということ


この視覚に訴える力だけで
こんなにも圧迫感があるのですもの。
もしも嗅覚にまでその力を発揮されたら
きっと
わたしは辛くて耐えられないでしょう、ね。


まさに
息苦しさの一歩手前の美しさ、ってやつ。


いやんなっちゃう・・・

どうして皆この花が好きなのかっていうと、
そういうコレの

まがまがしさ、

が大きな一因のような気がしてなりません。

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