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2008/05/23

正しい日本語表記

それは、
子供が小学校に上がったときのこと。

30年の時を経て
今また触れる「こくご」という教科に私は、
かすかな衝撃を受けたのです。

それは
今やすっかり忘れ去っているかのような
日本語表記の基本規則を改めて知らしめられた、という驚き。

たとえば、

チョロチョロとかカンカンなどの擬声音はカタカナで書く、とか

長音の記号「ー」はカタカナの表記の単語にのみ使い
ひらがなでの長音は母音「あ」「え」などを使う
(つまり「うーん」と正しくは「ウーン」か「ううん」と表記する)
、とか。


まあ、
言われてみれば確かにそうだったような気もしてきます。
私も子供のころはそれを守って正しくきちんとした日本語を書いていたのでしょう。
そうしないと先生に赤ペンで直されてしまいますからね。
でも今や
私は極当たり前に「ちょろちょろ」って書いたり、
「あー、そうなんだねー」なんて書いているのですよ。
しかも
それは私だけが独創的に書いているわけでもない。
いわば誰だってやっていること、
つまり「かなり市民権の得られた表記の仕方」だったりするわけで……


最初にこうした掟破りをした人は
きっとその表記を「斬新だなぁ」と思ったのかもしれませんね。
確かに、
「ああ」という感嘆詞を一つとってみても、
「あぁ」や「あー」「アー」「アァ」さらに漢字の「嗚呼」と書くのとでは
全てニュアンスが微妙に変わってくるものだから。
その中にで最もピッタリくる表記を選んだ結果がいわゆる掟破りの方法だったとしても、
あえてそれを使うことにしたのはある意味冒険だったのかもしれません。

でもいまやすっかり手垢のついた表記となった感のある、
「そーゆーこと!」や
「ぢゃ、ヨロシクね」なんて言葉たち。

ここはひとつ
いにしえの規則にのっとって書いてみるのも
また新鮮でよいのかも……

なんて思ってしまいました。
書いたら書いたで
きっと書きにくさも感じるとは思うのですけれど、ね。


しかし、
それにしても30年もたつと

毎日書いている日本語なのにその書き方って忘れることって結構多いものだと、

つくづく痛感させられました。
(漢字の書き順なんか
結構アヤフヤなものも多いってこと、子供にも指摘されちゃったなぁ・・・(汗))

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2008/05/20

「知っている」ことの価値

ネット環境が整い始めてから結構言われていることなんですが、
たとえばこんなこと。

インターネットが普及して
誰もが簡単にさまざまな知識を引き出す現代、
「何かを知っている」
という価値はもはや急速に低下している。

そんな言葉を見聞きしたことはありませんか?


確かに。
ネットの普及により
難しい本なんぞ読破しなくても
例えばwikiなどを使えば
上滑りとはいえ手軽に知識を手に入れることは
はるかに容易にできるようになりました。

今まで
そのただ「知っている」ってことの
量の多さや質の獲得に血道をあげていた人間としては私も、
「そんな(知っているって)ことは最早当たりまえなんですよ、
それプラス独創性がないとねー」
と言われてしまうのは正直なとこ愕然とされられる気分です。
「その知識を踏まえて新しい知識を生み出す」なんて
とても凡人には叶わない偉業のような気がしてしまいますから。

が、
しかしこんなふうにも思うのです。
考えてみると
そもそも知識ってもの自体、

とうの昔か最近かとにかく以前に、
自分ではない他人が
発見したことであり、思いついたことであり、創りだしたことだった―

ということなわけでしょう?
そう考えると、
それらを謂わばただのウケウリとして
「知っている」ということは
果たして本当に価値のあることだったのでしょうか?
いま賢いと言われるような誰かさんがよくやるとおり
得意満面に披露するほどのものだったのでしょうか?

いや、価値は確かにあるのでしょう。
「新しい知を生み出す」には
それまで積み重ねられた知を知っていてこそ、なのですから。
それでも、
それを「知っているだけ」ということは
他者に対して誇らしげにひけらかしたりできるほどのものではないはずなんですよね。
だって、
それをひけらかした瞬間に、
その相手と自分は「知っている」という点ではもはや同列になり、
ただ「先に知っていたか」「後で知ったか」というだけの違いしかないじゃありませんか。
(そして当然この2つにそれほどの差があるとは思えないのですよね)。

でも、
今周囲を見回してみると
知っている者が知らない者にその知識を披露するのは、
たいていの場合
そこはかとない優越感に溢れてるものだったりします。
(そのほとんどはどうでもいい優越感なものなのでしょうが)

どうしてなのでしょう。
どうして人は
知っているという状況を
こんなにも特別視したがるものなのでしょうか?


知識中心の学歴偏重主義の影響なのか?
それとも
そもそも人間は知識というものに特別の価値をもっており
知っている人には無条件の尊敬の念を抱くものなのだからか?

よくわからないのですが、
苦労せずして知識を得ることの出来るインターネットの出現により、
とりあえずの借り物的知識という存在が
ますます如実に表れてきたこと、
そしてそれにより
知識一般というものへの人間のもつ信仰が
揺らぎつつある過度期に
現代はさしかかっているのかもしれません。


もちろん
私は古い人間だから
物知りな人に対し無条件の尊敬の念を感じずにはいられないし、
あわよくば
そういう人の仲間になりたいなんて
欲望をいまだに抱いていたりする人間ですが、

そういう「知っている」ことのみに価値を感ずる人間も
これからは
だんだん
少なくなっていくものなのかもしれませんね。


余談ですが

個人的には
博学を披露する知者よりも
自分の無知を必要以上に卑下しないおおらかなる無知者に
人間としての器の大きさを感じます。

多分
自分にその器が無いのを自覚しているから
なのでしょうけど・・・


そういう人に
なれたらいいのになぁ・・・と

こっそり思ってる毎日です。


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2008/05/16

深く柔らかくそして静かなる語り口―姜尚中氏

連休に入る前だったでしょうか、
偶然、
NHKで日曜深夜にやっている「私が子供だったころ」という番組を観たのです。

各界の著名人の
子供時代をドラマ仕立てし、
それと同時に現在の本人へのインタビューを絡ませながら紹介するという番組―。
自明なことながらこの手の番組は
紹介されるその人物によって
興味が湧いたり湧かなかったりと極端に変わるものですが、
果たして、
その日のとりあげられていたのは、
東大教授で政治学者の姜尚中氏だったのでした。


・・・


ああ、と思ったのですよ、
観てみたいような観たくないような・・・と。

九州の田舎町、貧しかった幼年時代、
在日であることの重み
他のクラスメートたちと違うことによる葛藤・・・

きっと、そんなことがつらつらと語られるはず。
それはそれで確かに深みのある内容なのだろうけど、
日曜の夜に観るにはズシンと胸にこたえ過ぎるのでは?


でもそんな心配は杞憂なモノに過ぎなかった―

描かれていたのは
淡い初恋を中心とした
誰もが感ずるような少年の日の思い出であり、
そこには過度の悲劇も陰惨なまでの劣等感も無かったので。
(まあ、戦後の話であるのだから
 ある意味当たり前といえば確かに当たり前なのですが・・・)

それが彼独特の物柔らかな深みのある語り口で
とつとつと語られている、
そんな番組でした。


・・・


しかし、
いつも思うのですが、
この姜尚中という人の語り口というのは本当に不思議な魅力がありますね。

「朝まで生テレビ!」などで
彼が本業(?)の政治学や思想についてを語っているとき、
そのソフトな語り口についつい騙されて
私も一生懸命耳を傾けたりしたことがありましたっけ。
でも、
なんだかいつも煙に巻かれるようで
結局「何を言っているんだかよくわからない」という感じ・・・
(最初こそ、
 そのわからない原因というのは
 聞き手である自分がおバカさんだからなのかなぁと
 落ち込みもしたのですが
 今は、
 この人はきっと「ものすごく頭のいい人」なんだろうけど
 それを簡潔に表現することは苦手なのかも、
 と自分の都合のいい解釈をするようにしています (苦笑)。)


でも、
不思議とその「わかり辛さ」が不愉快じゃないんですよね。

この人の声は音楽のようで
それを聞く人の心に適度な心地よさを生み出している―
もちろん、
それが善いとか正しいというのは、全く別の問題ですけど。


思想的には
いろいろ物議を醸し出すものも持っている人ですし、
いわゆる嫌韓の方々にはすこぶる評判は悪いようですが、

その冷静沈着な面持ちやシャープな容姿、
そして
何より柔らかなその声に

なんとも気になる御仁の一人です・・・。


(一部の中年のご婦人方に人気があるような・・・
 いやはや、私もミーハーってことですな・・・)

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2008/05/13

身も蓋もない人生相談の魅力

村上龍(著)
「それでもわたしは、恋がしたい 幸福になりたい お金も欲しい」

先ごろ
この本の存在を知ったのは、
最近よく訪問しているとあるサイトで紹介されていたからなのですが、
いやいや
こういうのちょっと覗きたくなってしまう
自分の悪趣味さに苦笑いをしてしまいました。


内容はというと・・・

「顔も頭もたいしてよくない私ですが、玉のコシにのれるでしょうか?」
「親が唯一の財産である実家を売り払ってしまい不安な毎日です」
「転職活動中、連続で20社も落とされました。年をとるデメリットばかりが増えることにいらだちます」

などなどという
いわゆるスイーツ(笑)世代のちょっとばかばかしい、だが切実なる人生相談を
村上龍がメッタ切りにやっつけるというエッセイらしいのです。


もちろん、
これらの「ちょっと笑わせてくれる」相談は発せられた本人からは
真剣に持ち込まれたものなのかもしれません。
でもなんかなぁ、
村上氏にバッサリと切られることを想定して編集者が選んだような、
そうですね、そういう意味では
いわばネット上のネタのようなものに感じられてなりません。

そうとわかっていながら、
なんでしょう、
「そんなくだらないこと言ってる自分を情けないと思いませんか?」
と辛らつに言い放つ回答者の尻馬に
「そうだよ!もっといってやれよ!」とばかり乗ってみたり、
「こんな寝ぼけた悩み相談している暇があるなら、
さっさと顔でも洗って少しは生産性のあることに頭を使えって!」
みたいな
罵声を浴びせかけたくなる自分がいる。
・・・
そんな意地悪心をくすぐるのが作品のミソなんでしょうね。
(そういう意味では
 真剣に自分の生き方の指標を求めている人には
 肩透かしをくらわせることになる一冊であることは
 いうまでも無いようです。)


・・・

そういえば、
4月から同じような趣旨の連載が
購読している新聞の土曜日版で始まっていることに気が付きました。
題して、
「赤坂真理のうらやましい悩み」。
寄せられた相談は

営業トップなのは自分の優れた容姿のせいなのでしょうか・・・とか
子育て中の主婦ですがママ友には自分の高い学歴をかくすべきでしょうか・・・とか
帰国子女なのですが、
周囲からもはや衰えている英語力を事あるごとに期待されてうんざりです・・・
とか


なるほどね・・・
今の世の中おバカキャラのタレントが花盛りですから、
次にくるのは、
こういうおバカな相談コーナーなのかもしれません。

おバカで勘違いなお悩みを、
気の利いた皮肉をたっぷりこめて
「くだらないことぐだぐだ悩んでんじゃないわよ!」と
一蹴するような爽快感!


・・・とは、いかないな・・・


いやはや
どうしてこうも、
ストレス社会の生み出す笑いって
ダークなものになりがちなものか・・・


それでも、
そのダークさがやめられないってとこが、

また悲しいとこだったりするのですよね・・・


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2008/05/09

心の中の微かな毒

このGWは少し休暇を追加して、
恒例の夫の実家へ一家で帰省。
高齢で一人暮らしの義母には
既に無理となった炊事全般、窓磨きなどに勤しんだ日々であった。

「いろいろやってくれて助かる」
「ありがとう」

と義母も
私たちが帰省すると必ず顔を出す義姉(同県内在住)も
事あるごとに感謝の言葉を述べてくれる。
本当に優しい善い人たちだ。
もちろんそれを聞いて
私だって、
嫁として自分が義母の役に立つことに
喜びを感じないわけではないのだが・・・

だが、私の心の中には微かな毒が潜んでいるのだ。


結婚15年、
一度もGW・お盆・正月は旅行などに行けてないこと。
この連休も、
月末の忙しさの中休暇をとるために社内で肩身の狭い思いをし、
前夜は10時近くまで残業をしていたこと。
そうまでして、
会社を休んで来たこの実家では
山のように大量の料理を一人で作り
(この家では料理というものは作るときは大量に作って
その作り置きをちょっとずつ食べるのが基本らしい)、
年老いたため愚痴の多くなった義母の機嫌を伺いながら相槌をうち、
広い家中の数多い窓磨きをしなければならいこと。

そんな些細な不満から生まれる毒・・・


・・・・


誰かが意地悪なわけでも
誰かに嫌味一つ言われたわけでもないのだが

その毒は、何故か年々強くなっているような気がする・・・

ああ、イヤだ・・・!


だからGWは苦手。

もちろん
夏休みも
年末年始も、
なかなか楽しみには感じられない私、なのです。

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