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2008/06/25

「私の教育は正しかった」と悦に入る親たち

子供も中途半端に大きくなってくると、
いろいろと面倒くさいことも増えてくる。

やれ、勉強をもっとやらせなきゃ、とか
やれ、家の仕事も手伝わせなきゃ、とか
やれ、テレビやゲームは許すか許さないか、とか。

全く面倒くさいことこの上ない。
だが、
どこの家庭でも大抵の親はこの手の問題に心を痛め真剣に悩んでいる。
だって
自分の育て方で子供の人生が決まるのだから。
親として
ここで真剣に悩まずして一体いつ悩めばいいというのだろう。


でも、でも、
こんなことを書いている人がいた。

それは確か「ゲーム禁止家庭の子のその後は?」というトピックについての書き込みで、
親にテレビやゲーム、市販菓子・ジュース、マンガを禁止されて育った子供は、
理想的な子育てをされたことになるのか、
ということについての討論によせられた
「全レスを拝読して、とても不思議に思ったことがあります」
という表題のある意見だった。
(以下全文引用)


ゲームやテレビが子供の教育に良い・悪い
ゲームやテレビが子供の友人関係構築に役立つ・役立たない
それって、ゲームやテレビを禁止するか否かと、本質的には関係が無いことではないですか?
何故なら、良い面も悪い面も、役立つ面も役立たない面もあるからです。
禁止するか否かは、純粋に、保護者であり教育者でもある親の「好み」の問題です。
与えないで育てることも、十分に与えて育てることも、どちらも別に立派なことではありません。
これは、「漫画禁止」「駄菓子禁止」等も同じことです。
「パソコン禁止」「SF禁止」「水遊び禁止」「自転車禁止」「野球禁止」「外で遊ぶの禁止」と、並べてみればそのことが良く解るのではないでしょうか。
健康に、逞しく育ったお子さんを見て、「私の教育は正しかった」と悦に入るのは親の特権ですが、客観的に見ればそれは間違いです。
お子さんは、お子さん自身の力と、自ら選び取った道で、自分で逞しく育ったのですよ。

当然です。
禁止しただけで「子供の人生から完全に排除できた」などと信じている親の、その目を盗んで好き放題やるなんて簡単なことですからね。


ああ、そうだよなあ、と思った。
特に後半の

健康に、逞しく育ったお子さんを見て、「私の教育は正しかった」と悦に入るのは親の特権ですが、客観的に見ればそれは間違いです。
お子さんは、お子さん自身の力と、自ら選び取った道で、自分で逞しく育ったのですよ。

というくだりには
まさに「目からウロコが落ちる」思いだった。

子供の育て方や教育に正解なんてものはそもそもないのに、
そんなこともう十分わかりきっていたことのはずなのに、
どうして私たちはこんなにやっきになって
正しい育て方を模索し試行錯誤するのだろうか。
もちろん、
それは子供に対する親の愛情のあらわれには違いない。
その点は、確かに否定できるものではないだろう。
だが、その愛情の中に
「私の教育は正しかった」「私がこの子をここまでにしてやったのだ」という
功名心や自己満足が露ほどにも含まれていなかったと、
言い切れる親が果たして何人いるだろうか。


多分この先も私は、
自分の思い通りにならない我が子の教育や子育てにキリキリ舞いの日々を送ることに変わりはなかろうが、
だがこの
「子どもとは、自身の力と自ら選び取った道で自分で逞しく育つものだ」ということ、
そして
「その子供を見て『私の教育のおかげだ』なんて思うのは親の思い上がりに過ぎない」ということは、
しっかりと肝に銘じておきたい。


所詮
私たち親のやることというのは、
子供が親が無くともひとりで生きていけるようになるまで
その手助けをしてやること
なのであり、
それ以上でもそれ以下でもないのだから。

結局
よりよい人生なんてものは
親が子供にプレゼントできるようなそんな単純なもんじゃない。

だいたい
何が「よりより人生」か、なんてこと自体
親にしたって子供にしたって
最後の最後まで全くわからないものであるはずなのだから……


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2008/06/20

至上の愛?

「死なないで」と言われた。


今週初め、風邪で熱を出し寝込んだときのこと。
子供に
「死なないでね、
お母さん死んだら生きていけないから」と。


生まれて初めてだ、
こんなことを言われたのは。
この先多分二度と言われることもないだろう。


「君なしでは生きていけない」

なんて
歯の浮いちゃうような言葉だけど
一度は言われてみたかったのよね。

それだけでも
熱を出した甲斐(?)があったのかも。


もちろん
寝込んだのはその1日だけ。

今はもうすっかり元気です。

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2008/06/18

「どうでもいい」と思い始めたら

……
それは突然訪れる。

例えば夢中になっていた趣味や勉強、悩んでいた恋愛、友情などなど……
ジャンルは問わない。

とにかく
それまでとってもこだわっていたモノゴトが
ある時を境として突如「どうでもいい」ことになるのだ。


ドウシテモ ヤル ジカン ヲ カクホシタイ
ドウシテモ ツギ ハ モットウマクナリタイ
ドウシテモ アノヒト ヲ フリムカセタイ
ドウシテモ マタ アイタイ


そういうことが
まさに憑き物が落ちたみたいにころっと無くなる。
自分自身でもびっくりするぐらいに、だ。

そしてその後に訪れるのは自由。
寂しく悲しくそして時には虚無にも感じられるが
同時になんとも清清しい自由が目の前に広がる。


そうか、
自由ってこんなにも寂しいものだったんだ、

って改めて気付かされる
今日この頃……


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2008/06/12

他人の「悲劇」に際して

誰にもあると思うのですが
口にするのに躊躇する言葉、ってものがあります。

私の場合、やはり「死」にまつわる言葉でしょうか。
例えば
何か不幸が起こったときにその遺族の方々に向けた

「ご冥福をお祈りいたします。」とか、
「ご愁傷様です」とか。


これは
私自身が身内の不幸というものに遭遇したことがないからなのかもしれません。
親しい人を永遠に失ってしまったことがどれほどの打撃であるか、とは
多分実際に自分の身に起こってみないと正直な話わからないのです。
だから、
もっともらしい神妙な顔をして
「ご冥福」だの「ご愁傷様」だの口にしたり書き綴ったりすることは
自分がとてつもなく悪質な偽善者であるかのように感じられ、
居ても立ってもいられなくなる……


もちろん、
そんな私でもこれらの言葉と1度たりとも使ったことがないわけではありません。
でもそれらは
「この場合こう言うしかないよな」という儀礼的な意味で使ったり、
もっと悪い場合
「このように書いておかないと
お亡くなりになった方に対して不謹慎だと思われてしまうから」
という処世の術として使っているのがほとんどなわけで。
だからこれらを使う際は常に、
「自分の偽善者振りが周囲に見透かされてやしないだろうか」という不安を抱え、
内心ドギマギしながら使っている
それが正直なところなのです。


でも、
世の中は私のような者ばかりというわけではないのですね。

世に起こる多くの不幸な事件・事故に際し、
涙を浮かべ一心に手を合わせる人々の映像、
―多分被害者とは無縁の彼らの映像―を目にする度に、
いつも思う……


彼らが泣くのは、
皆かつて「死」というものを身近に感じた経験をもつ人々だから
なのでしょうか?
それとも、
世の中には「私よりもっと暖かい血をもった」種類の人々が
もともと存在していて、
そういう人たちは
見知らぬ人の死すら我がことのように感じる鋭さをもっているから
なのですか?

そんな彼らの姿を
いつも不可解なもののように見つめてしまう私。


ひょっとしたら
私という人間には
なにか大切なものが欠けているのかもしれません。

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2008/06/10

結局、問題なのは「どこで線を引くか」なのでは?

衝撃的な秋葉原での事件を受けて、
ネット上こんな論争があちこちで行われていることを
今朝初めて知りました。

つまり
「その場に居合わせて、その惨劇に携帯カメラを向け発信者となった人は不謹慎なのか」
という問題。


たしかに、
ちょっと考えればこんな問題が起こることは
ある程度予想されていたことだったのかもしれません。
こういうことが起こると必ず「不謹慎な!」と言い出す人って出てくるものだし、
その反対に、
「じゃ、そういうあなたはどうなんだ?
マスコミが流す興味本位の犯罪報道をわくわく観ている視聴者の一人ではないのか?
発信者を「不謹慎だ」と責めるのなら、
いままでの犯罪報道そのものを否定するべきじゃないか。
そもそも「観たい人間」がいるから「発信者」もまた後を絶たないのに、
発信者のみを非難するなんてお門違いもいいとこだ。」
という批判者を批判する意見も必ず出てくるものなのだから。


こういう議論が出てくるたびにいつも思うのですが
結局は、
「どこまでが許されどこからが許されないか」という線引きの問題なのですよね。
ある人が「許せない!」と声を上げると、
別の人が必ずといっていいほど
「ほぉ、じゃあんたはそういうこと全てが許せないわけだね、
そうじゃないとおかしいだろ?」と批判する。
でもそんな「全てを許せない人間」なんて実はほとんどいないわけで、
その「許せない限界」がひとによってかくも違うことが
さまざまな意見の相違や論争を引き起こしているではありませんか?
もしくは
「全てを許せないわけじゃないのに
(そしてある程度の恩恵を享受しているくせに)
正義感を振りかざして主張するその態度が気に入らないから
ギャフンといわせてやれ!」
という意地悪心がくすぶってくるのかもしれませんが。


そこで
一つ提案なのですが、
そろそろ「じゃあ全てを否定しろよ」的な不毛な批判は
お互いやらないことにすればいいのではありませんか?
そして主張する側は「ここからここまでは自分の許容範囲でそれ以外は受け入れられない」という線引きをはっきりさせ、
それを批判する側も「いや、そこまで受け入れられるならコレがダメというのは論理的におかしいんじゃないか?」という批判の対象を「線引きの位置」に絞って論争を進めたほうが、
よりすっきりした議論が闘わせられるような気がするのですが、いかがでしょうか?


それにしても、
いままではこうした惨劇が起こった際に思う
「自分がその場に居合わせたら……」というタラレバは
「被害を免れることが出来るのか」とか「自分の連れを守れるのか」ということばかりだったのに、
「この惨劇をどこまで発信できるのか?」という問題が新たに加わったことに
驚きの感を禁じ得ませんでした。

いまさらながら

「全ての人が発信者となる時代」、

それは
既に到来しているのですね。


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2008/06/05

嫌悪感の根っこを覗いてみると

ちょっと前にどこかで目にした言葉。

「人間というものは、
自分があきらめていることをサラリとやってのける他者に強烈な嫌悪感を持つものだ」


なるほど。
そうなのかもしれない。


たとえば
「失礼に当たるから」という配慮から言いたいことも我慢している自分がいたとする。
それなのに
そういう配慮をせずにズバスバとモノを言う誰かさんがいたら、
その人に対して私たちは多分何とも言えない不快感を感じる……

この考えでいくと
世の大抵のイライラは説明がつきそうだ。

つまり
遠慮している自分に対し遠慮しない誰かさんは
「図々しいヤツ!」ということになり、
自分より恵まれた環境により思い通りに生きている(と思われる)誰かさんに対しては、
「七光りだ!」と蔑むわけ、だ。

ならば、
自分が「あきらめなけれ」ば、どうだろう?
自分も相手に負けずに遠慮しないで行動すれば?

まあ、そのように相手と同じレベルに成り下がるのは自分の理性としても許さないのだろう。
そしてそれは多分正しい判断だ。
だが、
少なくとも
マイナスの感情の原因は
「それを抱く相手にあるのではなく自分自身の中にあるということ」
を意識することは
そのイライラや不快感を
無くすまではいかなくとも別の形に変えることぐらいはできるのではないだろうか?

これまで私は
「自分の自慢をする人」や
「実力もないのにコネで成功しているような人」、
「周囲にちやほやされている人」などに
常に不快感を感じていたものだった。

でも
それは私自身の欲求の不満だったのだと、

私も
「自分のささやかな成果を自慢したかった」のにできなかったから、
「コネを上手く利用したかった」のにそれを作れなかったから、
「ちやほやされたかった」のに
そうされるにはどうすればいいのかわからなかったから、

だからそれの出来た人々に嫌悪の情を向けていたにすぎない。


他人のせいにするくらいなら、自分をなんとかしたら?


ホント、そのとおり。
まずは
自分の欲求を素直に認めるところから始めよう。

それにより
多くの負のエネルギーも
別の方向に向けることができるのかもしれない、のだから……


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