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2008/06/10

結局、問題なのは「どこで線を引くか」なのでは?

衝撃的な秋葉原での事件を受けて、
ネット上こんな論争があちこちで行われていることを
今朝初めて知りました。

つまり
「その場に居合わせて、その惨劇に携帯カメラを向け発信者となった人は不謹慎なのか」
という問題。


たしかに、
ちょっと考えればこんな問題が起こることは
ある程度予想されていたことだったのかもしれません。
こういうことが起こると必ず「不謹慎な!」と言い出す人って出てくるものだし、
その反対に、
「じゃ、そういうあなたはどうなんだ?
マスコミが流す興味本位の犯罪報道をわくわく観ている視聴者の一人ではないのか?
発信者を「不謹慎だ」と責めるのなら、
いままでの犯罪報道そのものを否定するべきじゃないか。
そもそも「観たい人間」がいるから「発信者」もまた後を絶たないのに、
発信者のみを非難するなんてお門違いもいいとこだ。」
という批判者を批判する意見も必ず出てくるものなのだから。


こういう議論が出てくるたびにいつも思うのですが
結局は、
「どこまでが許されどこからが許されないか」という線引きの問題なのですよね。
ある人が「許せない!」と声を上げると、
別の人が必ずといっていいほど
「ほぉ、じゃあんたはそういうこと全てが許せないわけだね、
そうじゃないとおかしいだろ?」と批判する。
でもそんな「全てを許せない人間」なんて実はほとんどいないわけで、
その「許せない限界」がひとによってかくも違うことが
さまざまな意見の相違や論争を引き起こしているではありませんか?
もしくは
「全てを許せないわけじゃないのに
(そしてある程度の恩恵を享受しているくせに)
正義感を振りかざして主張するその態度が気に入らないから
ギャフンといわせてやれ!」
という意地悪心がくすぶってくるのかもしれませんが。


そこで
一つ提案なのですが、
そろそろ「じゃあ全てを否定しろよ」的な不毛な批判は
お互いやらないことにすればいいのではありませんか?
そして主張する側は「ここからここまでは自分の許容範囲でそれ以外は受け入れられない」という線引きをはっきりさせ、
それを批判する側も「いや、そこまで受け入れられるならコレがダメというのは論理的におかしいんじゃないか?」という批判の対象を「線引きの位置」に絞って論争を進めたほうが、
よりすっきりした議論が闘わせられるような気がするのですが、いかがでしょうか?


それにしても、
いままではこうした惨劇が起こった際に思う
「自分がその場に居合わせたら……」というタラレバは
「被害を免れることが出来るのか」とか「自分の連れを守れるのか」ということばかりだったのに、
「この惨劇をどこまで発信できるのか?」という問題が新たに加わったことに
驚きの感を禁じ得ませんでした。

いまさらながら

「全ての人が発信者となる時代」、

それは
既に到来しているのですね。


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