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2008/06/12

他人の「悲劇」に際して

誰にもあると思うのですが
口にするのに躊躇する言葉、ってものがあります。

私の場合、やはり「死」にまつわる言葉でしょうか。
例えば
何か不幸が起こったときにその遺族の方々に向けた

「ご冥福をお祈りいたします。」とか、
「ご愁傷様です」とか。


これは
私自身が身内の不幸というものに遭遇したことがないからなのかもしれません。
親しい人を永遠に失ってしまったことがどれほどの打撃であるか、とは
多分実際に自分の身に起こってみないと正直な話わからないのです。
だから、
もっともらしい神妙な顔をして
「ご冥福」だの「ご愁傷様」だの口にしたり書き綴ったりすることは
自分がとてつもなく悪質な偽善者であるかのように感じられ、
居ても立ってもいられなくなる……


もちろん、
そんな私でもこれらの言葉と1度たりとも使ったことがないわけではありません。
でもそれらは
「この場合こう言うしかないよな」という儀礼的な意味で使ったり、
もっと悪い場合
「このように書いておかないと
お亡くなりになった方に対して不謹慎だと思われてしまうから」
という処世の術として使っているのがほとんどなわけで。
だからこれらを使う際は常に、
「自分の偽善者振りが周囲に見透かされてやしないだろうか」という不安を抱え、
内心ドギマギしながら使っている
それが正直なところなのです。


でも、
世の中は私のような者ばかりというわけではないのですね。

世に起こる多くの不幸な事件・事故に際し、
涙を浮かべ一心に手を合わせる人々の映像、
―多分被害者とは無縁の彼らの映像―を目にする度に、
いつも思う……


彼らが泣くのは、
皆かつて「死」というものを身近に感じた経験をもつ人々だから
なのでしょうか?
それとも、
世の中には「私よりもっと暖かい血をもった」種類の人々が
もともと存在していて、
そういう人たちは
見知らぬ人の死すら我がことのように感じる鋭さをもっているから
なのですか?

そんな彼らの姿を
いつも不可解なもののように見つめてしまう私。


ひょっとしたら
私という人間には
なにか大切なものが欠けているのかもしれません。

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